ネグレクトされていた四歳の末娘は、前世の経理知識で実家の横領を見抜き追放されました。これからはもふもふ聖獣と美食巡りの旅に出ます。今更『家の財政を立て直してくれ』と泣きついても、もう知りません

☆ほしい

第1話

背後で重々しい音がして、アークライト子爵家の門が閉まった。

その音はまるで、私の過去と今を分けるための響きを持っていた。


もうあの家に、戻ることはないだろう。

追い出されたというよりも、ようやく自由になれた気持ちが強い。

あの屋敷で過ごした四年間は、息を殺して嵐が去るのを待つ日々だったのだ。


私の手の中には、父が投げつけた銅貨が数枚だけ握られている。

床に散らばったお金を拾うと、全部で二十三枚になった。

四歳の子供が持つには、多い金額なのかもしれない。


でもこれから一人で生きるには、あまりにも頼りない金額だ。

この銅貨一枚で、黒くて硬いパンが一つ買えるかどうか。

せいぜい二十三日分の食料で、それ以上でもそれ以下でもない。


「まずは、ここを離れましょう」


誰に聞かせるわけでもなく、私は小さく呟いた。

振り向くことはしない。あの家には、少しの未練もなかった。


子爵家の領地は、王都から離れた田舎町にある。

こんな場所をうろついていたら、すぐに誰かに見つかってしまうだろう。

哀れんだ誰かが、私を再びあの地獄へ連れ戻すかもしれない。


面倒なことになるのは、絶対に避けたかった。

私は小さな足で、ただひたすらに前へ向かって歩き始めた。


目的地は東にある、商業都市「ポルタ」だ。

前世の記憶を頼りにすれば、あそこは人も多くて仕事も見つけやすいはず。

何よりも、美味しいものがたくさんあるに違いないのだ。


前世の私は、経理の仕事に追われる会社員だった。

毎日続く残業と、当たり前の休日出勤。

食事はいつも机で食べる栄養補助食品か、コンビニのお弁当だけだった。


ようやく大きな仕事を終えた夜、自分へのご褒美に買ったケーキも食べられなかった。

私はそのまま、あっけなく過労で死んでしまったのだ。

だから今世での目標は、たった一つしかない。


誰にも邪魔されず、美味しいものを心ゆくまで食べることだ。

温かいスープも、ふわふわのパンも、とろけるように甘いお菓子も。

この舌で、思う存分味わってみたい。


その夢を叶えるために、まずは生き延びなければならない。

この四歳の弱い体で、厳しい世界を生き抜くのだ。


私は広い街道を歩くのをやめて、道の脇に広がる森へ入った。

貴族の娘が着るような服は、継ぎ接ぎだらけでも目立ってしまう。

いらない注目を集めるのは、良いことではない。


森の中を進んでいけば、人目につく危険も少ないだろう。

それに森には、食べられる木の実や隠れる場所があるかもしれない。


森の中は薄暗くて、ひんやりした空気が私の肌を撫でた。

木々の葉が風に揺れる音だけが、やけに大きく聞こえてくる。

栄養が足りていない四歳の体では、少し歩くだけで息が切れた。


「お腹が、すいたな」


家を出る前に食べたのは、冷たいスープと硬いパンの切れ端だけだった。

厨房の隅で、メイドがこっそりくれたものだ。

すでに胃の中は空っぽで、ぐぅと情けない音が鳴った。


森の中を見回してみるが、食べられそうなものは簡単に見つからない。

前世の私は、経理の仕事ばかりしていた。

植物に関する知識なんて、ほとんど持っていなかったのだ。

図鑑で見たことがあるという、曖昧な記憶しか頼りにならない。


毒があるものを口にすれば、それで全てが終わってしまう。

この世界には、私を助けてくれる人は誰もいないのだから。


慎重に、自分の知っている形のものだけを探す。

しばらく歩き続けると、見覚えのある形の低い木を見つけた。

緑の葉っぱの間から、赤い小さな実がいくつも見えている。


「これは、ベリーかしら」


私はその場にしゃがみこんで、実をじっくりと観察した。

前世で見たラズベリーという果物に、とてもよく似ている。

確か、こういう見た目の実に毒はなかったはずだ。


一つだけ摘み取って、恐る恐る口の中に入れてみた。

ぷちりと皮が弾けると、甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。

思わず頬が、緩んでしまうのを感じる。


「美味しい……」


生きていることを、実感できる味だった。

私は夢中で赤い実を摘んで、ワンピースのポケットに詰めていく。

これで少しは、お腹の足しになるだろう。


太陽が傾き始めて、森はさらに暗くなっていく。

夜になれば、獣も出てくるかもしれない。

どこか安全な場所を、早く探さなければ。


体力の限界が、もうすぐそこまで来ている。

足は鉛のように重くて、視界が少しずつ霞んできた。

このままでは、夜を越すことさえできないかもしれない。


そんな時だった。

茂みの奥の方から、くぅんとか細い鳴き声が聞こえたのは。


ぴたりと足を止めて、私は音のする方へ耳を澄ませた。

また、くぅんと鳴き声がした。子犬だろうか。

こんな森の奥に、一匹だけでいるなんて。


好奇心と、ほんの少しの同情。

あるいは自分と同じ、孤独な存在への共感だったのかもしれない。

私は音のする方へ、ゆっくりと足を進めた。


茂みをかき分けると、太い木の根元に銀色の毛玉が見えた。

それは、うずくまっている小さな子犬だった。

銀色に輝く毛並みは、ところどころ土で汚れている。

そして右の前足を、少しだけ引きずっているようだった。


どうやら、怪我をしているらしい。

私と同じで、満身創痍の体なのだ。

私に気づいた子犬は、警戒するように唸り声を上げた。


でもその声には、まったく力がなかった。

むしろ怯えているように聞こえる。

小さな体で、必死に自分を大きく見せようとする姿が痛々しかった。


普通に考えれば、関わるべきではないだろう。

今の私には、自分のことで精一杯なのだ。

この子犬を助ける余裕なんて、どこにもないはずだ。

食料も水も寝床も、何もかもが足りないのだから。


そう頭では分かっているのに、足がその場から動かなかった。

子犬の持つ金色の瞳が、じっと私を見つめている。

その瞳を見ていると、前世の記憶がふと蘇った。


住んでいたマンションの決まりで、ペットは飼えなかった。

仕事帰りにペットショップに寄り、子犬を飽きずに眺めていたこと。

いつか自分の家を持ったら、絶対に犬を飼おうと決めていたこと。


「……しょうがないわね」


私は小さくため息をついて、ゆっくりと子犬に近づいた。

急に動けば、怖がらせてしまうだろう。

一歩、また一歩と、慎重に距離を詰めていく。


その場でしゃがみこんで、子犬と目線を合わせた。

子犬の金色の瞳に、私の姿がはっきりと映り込んでいる。


「大丈夫よ、何もしないから」


できるだけ、優しい声で話しかけた。

子犬はまだ警戒しているが、さっきよりは落ち着いたようだ。

少なくとも、唸り声は止まっている。


私はポケットから、なけなしの財産である水筒を取り出した。

中には家を出る前に汲んだ水が、半分ほど残っている。

これを飲み干してしまえば、次にいつ水が手に入るか分からない。


それでも私は、水筒の蓋に少しだけ水を注いだ。

それを子犬の前に、そっと差し出す。

子犬はしばらく匂いを嗅いでいたが、やがてぺろぺろと水を飲み始めた。


よほど喉が、渇いていたのだろう。

あっという間に、蓋は空っぽになった。

飲み終わるのを見届けてから、怪我をしている右前足に目をやる。


幸い、骨が折れているわけではなさそうだ。

少し擦りむいて、血が滲んでいるだけに見える。

でもこのままでは、化膿してしまうかもしれない。


私は自分のワンピースの裾を、少しだけ破り取った。

継ぎ接ぎだらけの服だから、少しぐらい破れても誰も気にしない。

破り取った布に、水筒の水を少しだけ垂らして湿らせた。


そして子犬の傷口の汚れを、優しく拭き取ってあげる。

子犬はびくっと体を震わせたが、抵抗はしなかった。

私の行動に、敵意がないことを理解してくれたのかもしれない。


「よし、これで大丈夫ね」


簡単な手当を終えると、子犬は私の足元にすり寄ってきた。

そして私の手をくんくんと嗅いで、ぺろりと舐めた。

温かくて湿った舌の、優しい感触だった。


どうやら、敵ではないと認めてくれたらしい。

それどころか、少し懐いてくれたようだった。


「あなた、名前はあるのかしら」


返事があるはずもない、質問をしてみる。

子犬はただ、私の顔を見上げて尻尾を小さく振っている。

その姿が、たまらなく愛おしく感じられた。


「そう、じゃあ私がつけてあげる。そうだわ、フェン。あなたの名前は、今日からフェンよ」


フェンリルという、伝説の狼の名前を少しだけ借りた。

この子がそこまで大きく、そして強く育ってほしいという願いを込めて。


「フェン、よろしくね」


私がそう言うと、フェンは「わん!」と元気よく一声鳴いた。

その瞬間、私の心の中に温かい何かがじんわりと広がっていく。


無視され続けた四年間で、凍りついていた何かが少しだけ溶けた気がした。

孤独だった私の世界に、たった一つの温かい光が灯ったようだった。


フェンと名付けた子犬は、驚くほど賢かった。

私がお腹がすいたと言うと、フェンは私の服の袖を軽く引っ張る。

そして、森の奥へと私を導いた。


フェンについていくと、そこにはクルミの木が何本も生えていた。

硬い殻を石で割って中身を食べると、香ばしくてとても美味しい。

ベリーとは違う、しっかりとした食べ応えがあった。


それだけではない。

安全な水場も、フェンが見つけてくれた。

透き通った水が湧き出る泉は、私の乾いた喉を優しく潤してくれた。


夜になり、私たちは雨風を凌げそうな小さな洞穴を見つけた。

これもフェンが、鼻を利かせて見つけてくれた場所だ。


火を起こす道具なんて、持っているはずもない。

夜の森は想像以上に冷え込み、私は寒さで体を震わせた。

昼間の暖かさが、まるで嘘のようだった。


するとフェンが、私の体にぴったりと寄り添ってきた。

その銀色の毛皮は驚くほど暖かく、まるで天然の毛布のようだ。


「ありがとう、フェン」


私はフェンの体を、優しく撫でてあげた。

フェンは気持ちよさそうに目を細めて、私の腕の中で丸くなる。


一人で生きていく覚悟は、していたつもりだった。

でも誰かがそばにいてくれることが、こんなにも心強いなんて。

こんなにも、温かいなんて知らなかった。


私はフェンの温もりを感じながら、いつの間にか深い眠りに落ちていた。

ここ数日、まともに眠れていなかったのが嘘のようだった。


翌朝に目を覚ますと、フェンが私の顔をぺろぺろと舐めていた。

その感触がくすぐったくて、思わず笑みがこぼれてしまう。


「ん、おはよう、フェン」


体を起こすと、洞穴の入り口から朝日が差し込んでいるのが見えた。

今日も生きている、その事実が昨日までとは少し違う重みを持つ。

一人ではないという実感が、そうさせているのかもしれない。


フェンと一緒に朝食の木の実を探して、泉で喉を潤した。

それから私たちは再び、商業都市ポルタを目指して歩き始めた。


フェンが一緒にいてくれると、不思議と心細さは感じなかった。

むしろこの小さな相棒との旅が、少しだけ楽しくさえ思えてきた。


フェンは時々、鼻をくんくんと鳴らして地面の匂いを嗅ぐ。

そして私を、安全な道へと導いてくれるのだ。

ぬかるみを避け、棘のある植物が生い茂る場所を迂回する。

まるで、経験豊富な案内人のようだった。


「フェンは、本当に賢いのね」


私が褒めると、フェンは得意げに胸を張り「わん!」と鳴いた。

その可愛らしい姿に、私は思わず笑みをこぼした。


笑ったのは、一体いつぶりだろうか。

アークライト家では、笑うことなんて一度もなかった。

感情を表に出せば、父に疎まれ母に無視されるだけだったから。


森の中を歩き続けて、三日目の昼過ぎになった。

不意に前方の木々の隙間から、明るい光が差し込んでいるのが見える。

今までとは違う、開けた場所の光だ。


「もしかして……」


私たちは、自然と足を速めていた。

光がどんどん強くなり、やがて目の前の視界が開けていく。

そこに広がっていたのは、緩やかな丘と一本の街道だった。


「森を、抜けたんだわ!」


長かった森での生活が、ようやく終わったのだ。

私は安堵のため息をつき、その場にぺたんと座り込んだ。

フェンも私の隣に座り、尻尾をぱたぱたと嬉しそうに振っている。


街道の先には、小さな村の屋根がいくつか見えた。

まずはあの村で情報を集めて、少し体を休めよう。

幸い、フェンのおかげで手に入れた木の実がまだポケットに残っている。

これを売れば、少しはお金になるかもしれない。


「さあ、行きましょうか、フェン」


私は立ち上がって、服についた土や葉を払った。

フェンは私の足元に駆け寄り、元気よく一声鳴いてくれる。


私たちは新たな目的地である小さな村へ向かい、再び歩き始めた。

アークライト家を追い出されてから、まだ数日しか経っていない。

けれど私の心は、あの薄暗い屋敷にいた頃よりもずっと軽やかだった。


自由というものが、こんなにも素晴らしいなんて知らなかったのだ。

これからは、自分の力だけで生きていく。

私の隣には、もふもふで賢い相棒もいる。


そう思うと未来への不安よりも、期待の方がずっと大きく感じられた。

空は青くて、どこまでも果てしなく広がっていた。

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