第3話
アルム村を出発する朝は、空気がいつもより澄んでいるように感じられた。
クラウスさんは私のために早起きをして、たくさんのパンを焼いてくれた。
旅の食料にするようにと、彼は言ってくれたのだ。
日持ちのする硬いパンから、私が好きだと伝えたハニーボールまである。
それらが布の袋に、ずっしりと詰まっていた。
「本当に、世話になったな。リリアちゃんが助けてくれなかったら、この店はとっくに潰れていた」
店の前でクラウスさんは、何度も頭を下げた。
その目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「そんなことありません、私はほんの少し手伝っただけです」
「この店が人気なのは、クラウスさんのパンが美味しいからです」
「リリアちゃん……」
彼の声は感謝と寂しさで、少し震えているようだった。
「これからも、ちゃんと帳簿をつけるんですよ。原価計算も在庫管理も、一日だって休んではダメですからね」
私は最後の最後まで、経営コンサルタントとしての役目を忘れない。
クラウスさんは苦笑いを浮かべ、力強く頷いた。
「ああ、分かっている。リリア先生の教えは、絶対に忘れないさ」
村の子供たちや、パン屋の常連になった人たちも見送りに来てくれた。
皆が口々に、別れの言葉をかけてくれる。
「リリアちゃん、また来てね」
「フェン、元気でな」
アークライト家を追い出された時には感じなかった、人の温かさ。
それが私の胸を、少しだけくすぐった。
でも、私は振り返らない。
私の目的地は、ここではないのだから。
やがて遠くから、馬の蹄の音が聞こえてきた。
車輪の軋む音も、それに混じっている。
乗り合い馬車が、村の広場にゆっくりと到着したのだ。
御者台に座るのは、日に焼けた強面の男だった。
馬車は決して新しいとは言えず、幌には修繕の跡がいくつか見える。
「ポルタ行きだ、乗る奴はさっさとしろ。定刻になったら、すぐに出るぞ」
御者の男が、野太い声で叫んだ。
私はクラウスさんたちに最後の一礼をし、フェンを抱えて馬車へ向かった。
「おう、嬢ちゃんも乗るのか。一人かい」
御者の男は私を見て、少しだけ眉をひそめる。
こんな子供が一人で旅をすることに、驚いているのだろう。
「はい。一人と、一匹です」
私が腕の中のフェンを見せると、御者の男はさらに顔をしかめた。
その視線は、面倒事を押し付けられたかのように険しい。
「犬だと、それは荷物じゃねえか。ったく、しょうがねえな」
「席代とは別に、荷物代として銅貨二枚だ」
「分かりました」
私は素直に頷き、革袋から銅貨を取り出して支払った。
ポルタまでの馬車代は銀貨一枚で、それにフェンの分の銅貨二枚が加わる。
決して安くはない出費だが、歩くことを考えれば必要経費だ。
時間をお金で買うと考えれば、むしろ安いものだろう。
馬車の客室は、向かい合わせに長椅子が設置された簡素な作りだった。
すでに三人の先客が、中に乗っている。
恰幅のいい商人のような男と、フードを目深に被った若い女。
そして分厚い本を読んでいる、痩せた老人だ。
私が乗り込むと、三人の視線が一斉に私に集まった。
無理もない、どう見ても場違いな組み合わせだろう。
私は一番端の席にちょこんと座り、フェンを膝の上に乗せた。
フェンは賢い子だ。
私が目配せすると、鳴き声一つ立てずに私の腕の中で丸くなった。
やがて、出発の時刻になった。
御者が鞭を軽く鳴らすと、馬車はゆっくりと動き出す。
ガタガタと不快な振動が、体全体に伝わってきた。
道が舗装されていないのだから、仕方がない。
「リリアちゃん、達者でなー」
遠ざかっていく村の広場から、クラウスさんの声が聞こえた。
私は窓から小さく手を振った。
もう、あの村に戻ることはないだろう。
馬車は街道を、ひたすら走る。
窓の外には、代わり映えのしない田園風景が流れていった。
最初のうちは物珍しそうに外を眺めていたが、すぐに飽きてしまう。
手持ち無沙汰になった私は、馬車の中の乗客たちをそっと観察することにした。
フードの女と老人は、ほとんど動かない。
眠っているのか、あるいはただ黙っているだけなのか。
一番よく喋るのは、商人の男だった。
御者と軽口を叩いたり、他の乗客に話しかけたりしている。
しかし誰も、まともに相手をしていなかった。
やがてその商人の視線が、私に向けられた。
値踏みするような、それでいて人懐っこい目をしている。
「いやあ、しかし嬢ちゃんは大したもんだ。こんなに小さいのに、一人旅かい」
商人は、にこやかな笑みを浮かべて話しかけてきた。
その笑顔は、どこか計算高いように見える。
「はい」
私は短く答える。
あまり個人情報を、話す気にはなれなかった。
「そのワンちゃんも、随分と賢そうだ。普通、犬は馬車の中じゃもっと騒ぐもんだが」
商人は膝の上のフェンを見て、感心したように言った。
フェンはちらりと商人の方に視線を向けたが、特に反応は示さない。
「しつけは、ちゃんとしていますから」
「ほう、嬢ちゃんが自分でかい。そりゃあ驚いた、名前は何て言うんだい」
「フェン、と言います」
「フェンか、いい名前だ。俺はバエル、行商人をやっている」
バエルと名乗った商人は、分厚い胸を叩いた。
その仕草には、自信が満ちている。
「ポルタには、何か用事でもあるのかい」
「……親戚を、訪ねるんです」
とっさに、ありきたりな嘘をついた。
四歳の子供が一人で大都市に行く理由としては、これが一番無難だろう。
「そうかい、そうかい。ポルタはいい街だ、活気があって何でも揃う」
「特に市場は見ていて飽きないぜ。見たこともない果物や、海の向こうから来た珍しい布地なんかもある」
バエルさんは身振り手振りを交え、ポルタの街の素晴らしさを語ってくれた。
その話は、私にとって非常に有益な情報だった。
「商業ギルドも、大きくて立派なもんだ。まあ、あそこに登録するのはなかなか骨が折れるんだがな」
「身分と保証人が必要で、おまけに登録料も安くない」
商業ギルドは、いずれ私も関わることになるかもしれない。
そのためにも、まずは自分の足場を固めなければならない。
元手となる資金と、後ろ盾になってくれる協力者が必要だ。
「バエルさんは、ポルタで何を売っているんですか」
私が尋ねると、バエルさんは待ってましたとばかりに話し始めた。
自分の仕事に、誇りを持っているのが伝わってくる。
「俺が扱っているのは、主に雑貨だな。近隣の村で作られた手工芸品をポルタで売って、ポルタで仕入れた日用品を村で売るのさ」
「まあ、薄利多売ってやつだ」
そう言ってバエルさんは、少しだけ寂しそうに笑った。
その表情に、商売の厳しさが滲み出ている。
「最近は、どうも儲けが少なくていけねえ。帳簿をつけても、どこで損が出てるのかさっぱり分からん」
「数字ってのは、どうも苦手でな」
その言葉に、私はぴくりと反応した。
帳簿、数字、損。
それは、私の最も得意とする分野だ。
ビジネスチャンスの、匂いがした。
「……帳簿、つけていらっしゃるんですね」
「ああ、一応はな。でも、ただ売ったものと買ったものを書き留めてるだけで、意味があるんだか……」
「書き方次第で、意味のあるものになりますよ」
私は、何気ない口調で言った。
相手に興味を抱かせるための、小さな種まきをする。
「ほう、嬢ちゃんはそんなことまで知ってるのかい」
バエルさんは、興味深そうに身を乗り出してきた。
その目は、先ほどよりも真剣な光を宿している。
「ええ、少しだけ。例えば、ただ記録するだけじゃなくて、品物ごとに分けて記録するんです」
「そうすれば、どの商品が一番売れていて、どの商品が赤字の原因なのかが一目で分かります」
「な、なるほど……品物ごとに……」
「それから仕入れの値段だけじゃなく、運ぶのにかかった費用とか、自分の人件費とかも経費として計算しないと本当の利益は見えてきません」
「人件費だと、自分の給料まで経費に入れるのかい」
バエルさんは、心底驚いたような声を上げた。
この世界ではやはり、会計学の概念はまだ浸透していないらしい。
クラウスさんと同じ反応だ。
「もちろんですよ。あなたは、自分の時間を使って商売をしているんですから」
「その時間にも、価値があるはずです。タダ働きではないでしょう」
私の言葉に、バエルさんは腕を組んで深く考え込んでいる。
フードの女と老人も、いつの間にかこちらに意識を向けていた。
「嬢ちゃん、あんた一体何者なんだ。本当に、ただの子供なのか」
「リリア、と申します。ただの、旅の者です」
私はにこりと、微笑んで見せた。
相手に興味を持たせることには、成功したようだ。
ポルタに着いてから、このバエルさんという商人は私の最初の顧客になるかもしれない。
そんな計算が、頭の中で高速で組み立てられていく。
そんな時だった。
突然、馬車が急ブレーキをかけた。
キーッという甲高い音と共に、体が大きく前に投げ出される。
私は咄嗟にフェンを強く抱きしめ、前の座席に手をついて衝撃に耐えた。
「うわっ」
「どうしたんだ、一体」
バエルさんが怒鳴る。
御者の男が、血相を変えて客室に顔を突っ込んできた。
「山賊だ、道が木で塞がれてる」
その言葉に、馬車の中の空気が凍りついた。
窓の外を見ると、確かに数本の木が倒され道を完全に塞いでいた。
そしてその向こうの森の中から、五、六人の薄汚い身なりの男たちが姿を現す。
錆びた剣や斧を手に、にやにやと下品な笑みを浮かべていた。
「ひっ……」
フードの女が、小さな悲鳴を上げた。
老人は、顔を真っ青にして震えている。
「おい、馬車の中のモンを全部出しな。金目のものと、そこの女もだ」
山賊の一人が、下品な声で叫んだ。
御者の男は震える手で腰の剣に手をかけたが、多勢に無勢だ。
勝てる見込みは、万に一つもないだろう。
バエルさんも、顔を引きつらせている。
万事休すか、と誰もが思ったその時。
私の腕の中にいたフェンが、ゆっくりと顔を上げた。
その金色の瞳が、鋭い光を放っている。
そしてそれまで子犬のようにしか聞こえなかった喉から、信じられないほど低く力強い唸り声が漏れた。
グルルルルル……。
その声は、ただの威嚇ではなかった。
空気が、びりびりと震えるのを感じる。
山賊たちが、一瞬だけ動きを止めた。
その顔から、余裕の笑みが消える。
「なんだ、この犬っころ……」
山賊の一人が、訝しげに呟く。
次の瞬間フェンは私の膝から飛び降りると、馬車の入り口に立った。
そして天に向かって、高らかに吠えた。
アォォォォーーーーーンッ。
それは、子犬の鳴き声ではなかった。
森全体を震わせるような、荘厳で圧倒的な咆哮。
純粋な力と、清浄な魔力が込められた聖なる獣の雄叫びだ。
山賊たちの顔から、下品な笑みが完全に消え去った。
恐怖と、畏怖。
本能が目の前にいる存在が、自分たちでは到底太刀打ちできない格上の生き物だと告げているのだ。
「な、なんだ……なんなんだ、あいつは……」
「ひ、聖獣……まさか、こんなところに……」
山賊たちは武器を取り落とし、へなへなとその場に座り込んでしまった。
戦意など、もはや一片も残っていない。
フェンはそんな彼らを一瞥すると、もう一度低く唸った。
それが、最後の警告だった。
山賊たちは蜘蛛の子を散らすようにして、森の奥へと逃げていく。
あっという間の、出来事だった。
後に残されたのは、倒された木と呆然と立ち尽くす馬車の乗客たちだけ。
御者の男が、信じられないといった様子で呟いた。
「……助かった、のか……」
「す、すごい……なんてこった……」
バエルさんも、腰が抜けたように座り込んでいる。
静まり返った馬車の中で、フェンは私の足元に駆け寄ってきた。
そして何事もなかったかのように、私の足にすりすりと頭を擦り付ける。
私はその小さな頭を、優しく撫でてやった。
「ありがとう、フェン。偉かったわね」
私の言葉にフェンは嬉しそうに、「くぅん」と一声鳴いた。
その姿は、先ほどの威厳に満ちた聖獣の姿とは程遠い。
ただの、愛らしい子犬だった。
しかし馬車の乗客たちが私たちを見る目は、明らかに変わっていた。
好奇心や侮りではない。
畏敬と、そして感謝の色がその瞳にはっきりと浮かんでいた。
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