第2話 未来を変える一歩

 夜明け前の街道は、まだ夜の残り香をまとっていた。

 草の尖りに霜が降り、触れればぱり、と音を立てそうな白さで世界を縁取っている。吐いた息がかすかに白くなり、すぐに空へ溶けた。東の地平は、まだ藍色の深みに沈んでいるのに、頭上の星は妙に明るい。どこか、正しい位置から半歩ずれているように見える。


 


 リュミエールは外套のポケットから、小さな白い小石を取り出した。井戸の底から拾った、トマのお気に入り。


「……必ず返すよ。もっとつるつるにして」


 手のひらの上で、石は冷たく、しかし確かな重みを持っていた。村の匂い――パンの塩気、焚き火、干し草――が、一瞬、鼻の奥でよみがえる。


 


 未来視の膜が、胸の奥でかすかに波打つ。

 ――この先の山道で、鉄がぶつかる音。

 ――馬のいななき。

 ――赤いものが土に散る。


 彼女は足を止め、周囲を見渡した。右に低い丘、左は黒々とした森。街道は細く、ところどころ霜で滑りそうに光っている。風は弱いが、森の奥から時折ひゅう、と音がした。木々の間を別のものが歩く気配――それは、風ではない。


 


 歩き出す。

 足元の凹凸と、薄膜の向こうで滲みつつある“これから”の風景を重ね合わせる。未来視は便利な灯りだが、見えすぎれば足をすくわれる。彼女は何度も学んだ。視たものに呑まれるな、選び取るために視ろ、と。


 


 森の入口に差しかかると、空気が変わった。湿り気を帯び、土の匂いが濃くなる。遠くで梟が鳴いた。梟の声に応じるように、頭上の星が一つ、するりと尾を引いた――いや、落ちたのではない。位置をずらしたのだ。


 星座は、織物の目をほどくように、ほんのわずかに解けている。


(やっぱり、空そのものが歪んでる……)


 


 森の中は薄暗く、だが完全な闇ではない。星の光が葉の間からこぼれ、地面に細い銀の縞を作る。その縞が、風もないのにかすかに揺れて見えた。影が勝手に伸び縮みする――そんな、不愉快な錯覚。


 リュミエールは無意識に肩を強張らせ、杖を握り直した。


 


 未来視が、また揺れる。

 ――木の根に足を取られて倒れる御者。

 ――荷台の布が裂け、散らばる乾物。

 ――牙。

 ――悲鳴。


 断片が速すぎる。まばたきの合間に光景が差し込み、頭の内側がきしみを上げる。ひとつの未来に焦点を合わせようとすると、別の未来が横から肩を押す。


(深呼吸。数えて。四拍吸って、四拍止めて、四拍で吐く)


 


 彼女は歩を緩め、呼吸を整える。視界の縁のちらつきが、少しだけ落ち着いた。

 そして、森が開ける。


 細い谷の底に、街道が白くのび、その中央に二頭立ての馬車があった。馬は耳を伏せ、前脚で土を掻いている。御者台に中年の男、荷台には若い商人風の兄と妹――乱暴に包まれた布の包みがいくつも積まれ、縄で留めてある。


 御者の視線は道の先の茂みに釘付けだ。

 低いうなり声が、地を這った。


 


 茂みが裂け、灰黒の塊が飛び出す。狼――いや、狼であったもの。星明かりを受けて、瞳が金属のように光った。毛並みに、細い銀の粉が降りかかっている――星の塵だ。口角から糸を引く涎にも、ちらちらと細かい光が混じっている。


 星が降る夜に、森の獣は時々、別の何かに変わる。理性ではなく、星の衝動で動くものに。


 


「来る!」


 リュミエールの声に、御者がびくりと振り返る。

 彼女は一歩、狼と馬車の間に踏み出した。杖の先に、星片を一つ滑らせる。詠唱は短く、鋭く。


「星光――穿て!」


 白銀の槍が夜を裂いた。狼の前脚――肩に近い筋肉を狙って放った槍は、正確に肉を裂き、骨に当たって跳ねた。狼は悲鳴とともに転がる。


 だが、未来視の膜はまだ赤い。

 ――御者が手綱を引きすぎて、右車輪が石に乗り上げる。

 ――荷台が傾き、妹が落ちる。

 ――別の影。


(まだ、終わってない)


 リュミエールは御者に叫ぶ。


「動かないで! 前に出ない!」


「で、でも――」


「動けば転ぶ!」


 


 御者の手が止まる。ほんの瞬き一つ分の逡巡の後、彼は唇を噛んで手綱を押さえ込んだ。


 


 狼が起き上がる。前脚を引きずりながらも、牙を剥いて低く唸る。狼の背後、茂みがさらに揺れ、二匹目が現れた。こちらは傷一つない、しなやかな体。


 


 未来視の膜が、また二つに割れる。


 ――一匹目に気を取られている隙に、二匹目が荷台へ。

 ――兄が身を挺して妹を庇い、喉を裂かれる。


(だめ)


 


「光盾――展け!」


 


 彼女は足を半歩捻り、杖で弧を描いた。透明な半球が馬車の周囲に咲き、御者台から荷台の縁まで薄い光が繋がる。狼が飛びかかった瞬間、光の壁に爪が当たって火花が散った。狼は驚き、足を払われるようにして横に転ぶ。


 


 その瞬間、未来視の別の断片が滑り込む。


 ――盾に跳ね返った狼が、馬の後脚に体当たり。

 ――怯えた馬が暴れて後退、車輪が溝に落ちる。


(支点を変える)


 


 リュミエールは光盾の厚みを、意識で局所的に変える。狼がぶつかる可能性の高い角度を厚くし、馬の後方――後退すれば落ちる溝の上――に目に見えない床を組む。


 


 狼が跳ね、馬が悲鳴を上げる。だが、車輪は落ちない。滑った馬の蹄は、透明な床に支えられた。


 


「兄さん、伏せて!」


 


 リュミエールの声に、荷台の兄が妹を抱えて伏せる。


 狼がもう一度、光盾に体当たりする。二匹目が回り込んで、盾の縁を探るように歩く。利口だ。固定された障壁には必ず隙があると、獣の勘で理解している。


 


 未来視は、さらに枝分かれした。


 ――狼たちは縁を見つける。

 ――御者が恐怖に負けて鞭を入れる。

 ――盾の端で車輪が乗り上げ、転倒。


(私が選ぶ。私が、選ばせる)


 


「星光――散!」


 


 掌を開いて払い下ろす。扇の骨のように細い光が幾筋も走り、狼の目の前で白い網を広げた。閃光の網は目と鼻を焼くほどには強くないが、距離感を狂わせるには十分だ。狼が踏み出そうとした足を引っ込め、唸り声を上げる。


 


 御者は、鞭を握り直した手を、ゆっくりと下ろした。彼もまた、選んだのだ。


 


 未来視の赤が、薄らいでいく。

 ――血が飛ばない未来。

 ――叫び声のない未来。


 


 二匹の狼は、光の網の隙間に牙を鳴らし、やがて森の闇に後ずさった。星の塵を毛に散らしながら、低い身のこなしで影に戻る。


 


 森は、風の音だけになった。


 


 リュミエールは息を吐いた。吐いた息が白い。指先がまだ熱い。

 光盾を解くと、透明な花が畳まれるように、光は夜に溶けた。


 


「た、助かった……本当に」


 御者が両膝をつき、しばらくは言葉にならない音しか出せない。


 荷台から、若い男が妹を抱き寄せたまま顔を上げ、リュミエールに頭を下げた。


「俺はコルネ。荷は海都行きの塩と布だ。妹はミーネ。俺たち、たぶん今、死んでた……」


「死なないで、済んだよ」


 


 リュミエールは微笑んだ。微笑んでから、心臓の高鳴りをゆっくり落とす。未来視に残っている“別の可能性”の残滓が、まだ胸の裏側にざらりと引っかかっている。


 


「魔女さま……?」


 ミーネが、おずおずと声を掛けた。目が赤く、涙の跡が乾いている。


「はい」


「その……これ、少しだけど。干し肉と、蜂蜜パン。いまは冷たいけど、朝になれば柔らかくなるから」


 


 彼女は布袋を差し出した。袋は温みを失って冷たいが、中の香りは甘く、穏やかだ。


 


「ありがとう。でも、食べ物は足りてるから」


「でも、受け取って。あんたがいなければ、わたしたち、もう……」


 


 押し返そうとした手を、リュミエールは下ろした。人からの礼を無下にするのは、礼ではない。


「じゃあ、少しだけ。……代わりに道の先のことを教えて。天文院の出張所がある町へ行きたいの」


 


「山を越えて二日。途中の峠は崩れて、近ごろは狼や“影鳥”が出る。昼でも影を落とす黒い鳥だ。あれは、星が降った夜からだ」


「影鳥……」


 


 鳥が影を引きずる――いや、影が鳥の形をして飛ぶのか。星の歪みが、自然の形を崩している。


 


 御者が恐る恐る、といった様子で口を開いた。


「魔女さま、あんた……“星降り”の……?」


「うん」


 


 名乗らずとも、もう噂は歩く。星の異変が始まってから、光の魔女が各地に現れては落星を打ち落としている――そんな話がねじれ、膨らんで、時に祈りの形になっている。


「星を落とすんじゃない。落ちる星から、守るだけ」


「十分だ。十分です。本当に、ありがとう」


 


 御者の目の縁が光った。彼の手の甲は固く、縄で擦れた痕がある。人は生きるために手を使う。生きるために手を合わせる――その手を、彼女は何度も見てきた。



「気をつけて。狼はしばらく戻らないはずだけど、影鳥には注意して。空をまっすぐ見ないで、地面の影を見ること。影が増えたら、頭上にいる」


「覚えておく」


 コルネが深く頷く。ミーネは袋の口をぎゅっと結び直し、リュミエールの手に押しつけた。


 


「願いごと、してもいい?」


「え?」


「星に。子どものころから、星に願うの。……魔女さまだって、願っていい」


 


 リュミエールは少しだけ目を細めた。


「願いごと、ね」


 星は、願いを叶えるために落ちるわけじゃない。落ちるときは、誰かの屋根を砕くだけだ。


 それでも。


「じゃあ、願ってみる。――“明日も、未来を変えられますように”」


 


 声にしてみると、胸の奥で灯りがまたひとつ、確かになった。


 


 御者は馬の首を撫で、コルネは荷の縄を締め直す。ミーネは最後にリュミエールへ手を振った。


「本当にありがとう。……魔女さま」


「旅の無事を」


 


 三人が馬車に戻るのを見届け、リュミエールは森の道に視線を戻した。


 未来視は穏やかだ。赤は薄い。さっきまでの鋭い亀裂は、今は細い線に変わっている。


(変えられた。――一つは、たしかに)


 


 彼女は足を進める。


 森はやがて高みに向かって傾き、道の両脇に大きな岩が増えた。岩の表面に、細かい白い粉が付着している。指先で触れると、さらりとほどけ、ほとんど匂いはない。星の塵。


 


 風がないのに、木々の影が一斉に震えた。


 見上げると、空に黒いものが四つ、五つ、音もなく流れている。鳥だ――だが、羽ばたきがない。長い尾のような影を引き、星明かりの中を、墨をこぼしたように滑っていく。


(影鳥)


 


 彼女は身を低くし、岩陰に隠れた。影鳥の影が地面に落ちる。影は鳥より大きく、ひどく濃い。影の縁が星の光でほつれ、ぎざぎざにちぎれている。


 一羽が、ゆっくり旋回して降下してくる。地面すれすれで影が伸び、道端の小兎が一瞬で動かなくなった。影は兎の上に張り付き、薄い膜のように波打ち、次に影鳥が嘴を影ごとたたむと――兎の影が、消えた。


 


 兎の体は、影を奪われて、紙の切れ端のように、ぺたんと倒れた。


(影を喰う……空亡の眷属? まだ早い。これは“影の異常”そのもの。……でも、空っぽにする力は同じ系統)


 


 リュミエールは未来視で自分の動きを先に視、影鳥の視線と重ならぬ角度を選ぶ。杖を上げ、掌に星片をひとつ。


「星光――矢」


 


 光が細く、無音で走る。影鳥の翼の付け根――影が最も濃く集まる“節”を狙った矢は、吸い込まれるように突き刺さり、黒が一拍遅れて崩れた。影は地面でちぎれ、しゅるしゅると縮んでゆく。


 


 残りの影鳥が、無音で一斉に高度を上げた。狙いが外れたことを悟り、頭上から離れていく。


 地面に残された兎の体は、影を失って不自然に軽く、風に押されて転がった。


 


 リュミエールは眉を寄せ、そっと目を閉じた。


(夜が、空が、形を変えていく。……このままだと、きっと“あれ”は生まれる)


 


 “あれ”。

 名前はまだない。いや、名前はあるのかもしれない。どこか別の場所で、誰かがそれに名を与えているのかもしれない。夜の欠け目、空の穴――空亡。


 


 彼女は顔を上げ、月を探した。


 東の空に、欠けた月が上っている。欠け方がいびつだ。鍋の縁を欠いたように、つるりとした曲線ではなく、裂いた布の端のように、ささくれだっている。


 その輪郭が、ふと鼓動のように脈打った。


 


 脈打つのは月か、月の光か――いや、違う。胸の奥だ。誰かの気配。


(……だれ?)


 


 未来視の膜が、柔らかく撓んだ。


 一瞬だけ、誰かの背中が映る。黒い外套。長い髪。白い首。夜を嫌うように、肩をすくめて歩く姿。


 彼女は、月を見ないように、地面を見ている。


(……“月を詠む”誰か)


 


 像はすぐに薄れ、森の匂いが戻ってきた。


 リュミエールは小さく息を吐き、ポケットの石をもう一度握りしめる。


「行こう。――未来は、行かないと変わらない」


 


 峠に近づくにつれ、道は荒れ、崩れた石段のように段差が増えていった。足を取られないように一歩一歩確かめ、時に杖を突き、時に岩の上へひょいと乗る。


 


 途中の小さな祠で、彼女は立ち止まった。祠は片側が崩れ、注連縄は切れ、紙垂は泥にまみれている。石の台座には、星の塵が薄く積もっていた。


 


 彼女は袖でそっと塵を払い、台座の前に立った。誰に、というあてはない。けれど、祠は祈る形を人に思い出させる。


「――どうか、今日も、選べますように」


 


 未来は、時々あまりに重い。視た瞬間に胸に落ちてきて、動けなくなることがある。選ぶ自由を、祈った。自由は、与えられるものではなく、掴みにいくものだとしても。


 


 祠を離れると、空の色は少し薄くなっていた。夜と朝の境目にいる――そんな色。星はまだ明るく、月はまだ欠けている。


 


 道の向こうから、かすかな鈴の音が聞こえた。


 リュミエールは顔を上げる。鈴は一度、二度、三度――風の音に混じり、消えた。


 


 未来視には、何も落ちてこない。


(気のせい。……いや、遠くの町の朝の鐘?)


 


 足を速める。峠を越えた先に、天文院の出張所がある山上の町がある。星の運行の記録。落星の軌道。月相の乱れ。知りたいことは山ほどある。


 


 昨夜の村での約束。塩のパン。歯の抜けた笑顔。


 それらを背中に乗せ、彼女は歩いた。歩くたび、杖に結わえつけた小鈴が、かすかに鳴った。


 


 夜は、まだ完全には明けない。

 でも、道は、確かに前に続いている。


 


 ふと、足元の影が二重になった。


 足を止め、横を見る。大岩の陰から、小さな影がひょいと顔を出した。茶色い毛並みの狐――いや、耳の縁が黒く、尾が短い。子狐だ。


 子狐はリュミエールを一瞥し、鼻をひくひくと動かしてから、岩陰に消えた。


 


 そのとき、未来視が細く点滅する。


 ――峠の向こう。

 ――石橋。

 ――橋脚に、黒いひび。

 ――荷馬車。


(さっきの馬車? いいえ、別の)


 


 橋を渡る前に、支える。


 彼女は足を早め、峠を越えた。


 


 石橋は細く、谷の上に弓なりに掛かっている。橋脚の根元に、黒い筋のようなひびが入っていた。ひびの周りの石は、星の塵でうっすら白い。


 


 谷の向こう側から、木車の軋む音が近づいてくる。荷を満載した別の馬車が、こちらへ向かっていた。御者は眠気と寒さで身をすくめ、目が十分に開いていない。


(今、渡れば――)


 


 未来視の膜が、赤く点る。


 ――橋の中央で車輪が石の継ぎ目に取られる。

 ――揺れで荷が傾き、橋の縁に乗り上げる。

 ――橋が鳴る。

 ――落ちる。


(止める)


 


 リュミエールは橋の手前で手を上げた。


「待って!」


 


 御者は間の抜けた顔で彼女を見、さらに馬に鞭を当てた。


(だめ)


 


「光壁――塞げ」


 


 橋の入口に、薄い光の戸を引き下ろす。馬は鼻を鳴らし、目の前の何もないものに驚いて前脚を踏ん張った。御者が怒鳴る。


「何をする!」


「橋が――」


「急ぎの荷だ! どけ!」


「橋が落ちる!」


 


 御者の顔色が、ようやく変わった。彼は身を乗り出し、橋を見下ろす。ひびに気づくのに、数拍。ひびの周りの白い粉に気づくのに、さらに数拍。


 その間に、未来視の赤は濃くなる。


(間に合う。……でも、言葉では遅い)


 


 リュミエールは光の戸を厚くし、馬を落ち着かせるように掌を上に向ける。


「悪いけど、ほんの少し待って」


「何を――」


「補強する」


 


 彼女は橋の足元に目を凝らす。石が噛み合う隙間に、星の塵が染み込んで、まるで砂時計の砂のようにじわじわと石の結び目を削っている。


(星は、落ちるだけじゃない。……ほどく)


 


 胸の奥で小さく息を吸い、星片を二つ、指に挟む。


「星光――綴(と)じよ」


 


 薄い糸のような光が石と石の縫い目に沿って走り、ほつれた織物を縫い直すみたいに、光の縫い針がひびをひと目ずつ拾っていく。


 


 御者が目を丸くした。


「縫ってる……?」


「暫くの応急。重荷なら、ひとつ減らして渡って」


「……わかった」


 


 御者は荷台に回り、縄を解いて樽を一つ降ろした。樽がごろりと転がり、橋の脇に止まる。彼は帽子を取って、リュミエールに頭を下げた。


「すまねえ。助かった」


「いいえ。――お互いに、選べた」


 


 馬車がゆっくりと橋を渡る。光の綴じ目はうっすらと輝き、馬車の重さを伝えるたび、細く明滅した。


 渡り終える直前、未来視が一瞬、ひやりと指先を撫でる。


 ――最後の一歩で、右の後輪が縁石に。


(厚み、右後方に移す)


 


 彼女は意識をそちらに寄せる。光の縫い目がそこだけ太くなり、車輪は滑らず、橋は鳴らず、馬車は渡り切った。


 


 御者が帽子を振って去っていく。


 リュミエールは肩の力を抜き、石橋に手を添えた。石は冷たく、指の熱を吸い取った。


 


(今日だけで、三つ。……未来は、小さくなら、変えられる)


 


 彼女は空を見上げる。星はまだ多すぎる。月はまだ欠けすぎている。


 遠くの空に、薄い影がひとつ、穴のように浮かんでいた。光でも闇でもない、何もない“無”。


 目を凝らすと、それは焦点を拒むみたいに、すぐにどこかへずれた。


(――空亡)


 


 名を、胸の内で呼ぶ。


 呼んだ瞬間、心臓が一拍、強く跳ねた。


 遠くのどこかで、誰かが同じ名を口にしたような錯覚。


 夜が、その名を嫌うように、風が一度だけ向きを変える。


 


 リュミエールはポケットの石を握りしめ、口角を上げた。


「大丈夫。今日は一歩、変えたから」


 


 誰に言うでもなく、そう告げて、峠を後にした。


 杖の小鈴が小さく鳴る。


 


 道は東へ。山上の町へ。天文院の扉へ。

 そして、そのさらに先――彼女の知らない場所で、夜を嫌う一人の魔女が、同じ空を睨んでいる。

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