星振りの魔女と月詠の魔女

桃神かぐら

第1話 星が落ちる村の夜

 日が沈む少し前、辺境の村は小さな燈火でふくらんでいた。

 広場の真ん中には樽と果物籠、縁には干し肉と焼きたての平パン。子どもたちは縄を張って輪を作り、誰がいちばん高く飛べるかを競っていた。明かり取りのランタンに火が入るたび、村人の笑い声がほぐれていく。今日の夜は収穫祭で、同時に“星祭り”でもある。


「リュミエール、お前さんも、あとで歌うんだろう?」

 パン屋の老女が粉だらけの手を振る。

「ううん、聞くほうが好き。……パンは買うよ。二つ、塩のやつ」

「三つ持ってきな。ほら、あんたは細いんだから食べなきゃ」


 星降りの魔女――リュミエールは、笑って受け取った。薄い金の髪を革紐で束ね、旅の外套の裾をまくる。村に来て三日、祭りの準備を手伝っては、夜になると丘に登って空を見ていた。


「ねぇ、リュミエール!」

 駆けてきたのは、前歯の抜けた少年トマだ。

「今夜、星がいっぱい落ちるって父ちゃんが! 願いごと、三つまで叶うんだって!」

「三つも?」

「うん! 一つ目はね、犬がほしい。二つ目は母ちゃんの咳が治ること。三つ目は……秘密!」

「じゃあ、秘密は秘密のままで。……トマ、灯りの側から離れちゃだめだよ。星を見上げてても、足元を忘れないこと。いいね」

「うん!」


 無邪気な声が離れていく。

 ――この、何でもないやり取りが、一番重たいのだ。

 リュミエールは、パンをかじりながら視線を空にあげた。淡い群青の上に、一番星が滲み、続いて二番、三番。息を吸うと、土とパンと焚き火の匂いが混じる。人はこういう匂いを“暮らし”と呼ぶのだろう。


(続いて、北東の空がゆっくり明るむ。数えられない光点。……五十、百、二百……)


 胸の奥に、ひやりとした筋が落ちる。

 未来がほどける音を、彼女は知っている。

 瞼を半ば伏せると、視界の手前に“これからの光景”が薄膜のように重なってきた。


 ――夜が落ちる。星は雨ではない。槍だ。

 ――屋根が砕ける。井戸が割れる。

 ――広場の端で、トマの母の咳が止む。二度と。


 パンの塩気が急に遠くなる。指先に力が入った。

 祭りの歌の練習をしている娘たち、樽を転がす青年たち、笑う老女――誰も、まだ気づかない。気づかないままでいてほしい。だが、それは無理だ。


「……また、同じ未来の縫い目」


 唇の内側を噛む。

 星は祝福の名を使って、容赦なく落ちる。

 リュミエールは広場の外れ、石垣の上に上がった。目印にしている古木の枝に、旅の杖を立てかける。腰の小袋から、白銀の小さな星片――“星種(スターブラッド)”を取り出した。


「ねぇ、リュミエール」

 いつの間にか、老女が背に立っていた。皺の深い目が、彼女の横顔を覗く。

「顔色が悪いよ」

「……大丈夫。今夜は、少し忙しくなる」

「祭りの用意かい?」

「うん。私のほうの、ね」


 老女は訝しみながらも、やがて頷いた。

「終わったら食べにおいで。塩のパン、好きなんだろ」

「ありがとう。……必ず」


 言い切ってしまってから、自分でその言葉に驚く。必ず、とは何に対しての約束なのか。誰に対しての。

 広場の灯が一斉に強くなる。焚き火に新しい薪が入ったのだ。同時に、空の奥で、かすかなひび割れるような音がした。

 はじめの一つが、尾を曳いて落ちてくる。


 人々が歓声をあげた。

 リュミエールは、首を横に振った。


「ここからは、私の仕事」


 星片を指先に載せる。深く息を吸い、胸腔に灯りを集めるように意識を整える。

 星の文言が舌の裏へ降りてくる。

 詠唱は短く、鋭く。


「星光(せいこう)、一点(いってん)――穿(うが)て」


 指先の星が、槍になった。眩しい白が夜を切り裂き、落ちてくる光点の芯を正確に貫く。轟音。遅れて爆風。砕けた火片が夜の外へ散る。

 村人の歓声が止まり、悲鳴に変わる。

 続けざまに二つ、三つ。落星の軌道を読み、予測を前倒しで撃ち落とす。


(右、四呼吸後。次は……中央奥、井戸の上。――違う、軌道がずれてる。上空で割れた?)


 未来視の膜が細かく振動する。ひとつの未来に固定されない。星の数が多すぎる。

 リュミエールは歯を食いしばった。


「光盾(こうじゅん)、展(ひら)け!」


 腕を大きく振ると、透明な半球が広場全体に展開する。落ちた破片と衝撃を受け、盾の表面に波紋が走る。ごう、と音がした。

 次の瞬間、斜め後方から別の落星が飛び込んできて、干し草小屋の屋根を抉った。火が走る。


「水、桶を! 焚き火から離して!」

 リュミエールの声に、我に返った青年たちが動く。

 彼女は星の軌跡に目を走らせ、未来視の断片をつなぎ合わせる。頭の中で、村の簡易な地図が光の線で描かれる。そこに流れ込むように、落星のベクトルが突き刺さり、赤い印になる。


(このままじゃ守り切れない。数が、悪い)

(……星を“呼ぶ”。衝突させて相殺する)


 自分の得物を、相殺に使うのは好きではない。だが、今は選り好みをしている場合ではない。


「流星招来――『逆雨(ぎゃくう)』!」


 高く掲げた手の先、夜空の一角が白く膨らむ。リュミエールの軌道指定に沿って、細く鋭い光弾が上から下へ、ではなく、横から斜め上へと走った。落ちてくる星と、呼び出した星が空でぶつかる。炸裂音が二重に重なる。


「トマ!」

 母親の叫び声が聞こえた。影の向こうで、小さな体が転んでいる。

 リュミエールは光盾の厚みを局所的に変え、衝撃の向きをわずかに逸らした。倒れたトマの頭上を、火片が掠めていく。

 ――視えた未来のひとつでは、ここで間に合わなかった。

 指先が小さく震えた。


「立てる?」

「う、うん……」

「えらい。走って、母さんのところへ」


 少年が駆ける。

 彼女は踵を返し、夜空へ指を向けた。呼吸の拍が早い。心拍はもっと早い。広場の端で、老女が何かを叫んでいる。聞き取れない。

 頭の膜の向こうで、別の未来が顔を出す。


 ――光盾が飽和する。

 ――一つ、抜ける。

 ――井戸、粉砕。三人、下敷き。


「させない」


 星種をもうひとつ。詠唱が短くなる。舌が追いつかない。

 光が指の間から漏れる。眼裏が熱い。

 彼女は自分の未来視を押し広げた。目の前の一秒ではなく、二秒、三秒先。

 世界が細くなる。音が砂になる。

 落星が、ゆっくりと見える。


「星光――散(さん)」


 雨のような光の細片が、扇状に広がった。多数の微細な槍が、落ちてくる火片の表面に一斉に突き立ち、速度を奪う。

 どん、と鈍い音。地表近くで、勢いを失った破片がばらばらに砕けた。

 土煙が上がり、子どもが咳き込む。

 広場の中心に立つリュミエールの外套が、遅れて風にあおられた。


 ――それでも、残りがある。

 未来視は、途切れない。

 北側の畑に、一本だけ、軌道から外れた大きな塊。

 あれは、村の中に落ちない。だが、爆ぜる。衝撃が来る。石垣が崩れる。広場の端で、老女が躓く。


(見えてる。だから、間に合う)


「光楯、局所厚増――固定。……みんな、地べたに伏せて!」


 叫び、畑の方向へ手を突き出す。

 白い壁が地平線の向こうに現れ、半透明の砦が瞬間的にせり上がった。

 数拍。

 轟、と地が鳴る。畑の先で光の柱が立ち、土煙が壁にぶつかって左右に流れ、夜空へ巻き上がっていった。

 光楯の端が軋んで、ひびのような波紋が走る。

 リュミエールは、歯の根を噛んで耐える。膝が少し笑う。魔力が一段、沈む。

 そして――静かになった。


 村は、無事だった。

 火の手は青年たちの手で消え、泣いていた子どもは母に抱きしめられている。

 光盾を解くと、夜の空気が一気に肌へ触れてきた。汗が冷える。

 人々の視線が、彼女に集まる。


「……助かった」

「魔女さま、ありがとう。ありがとう」

「井戸も無事だ!」

「トマ! 無事で……」


 歓声とも嗚咽ともつかない声の群れ。

 老女がよろよろと近づき、リュミエールの手をぎゅっと握った。粉の匂い。温かい手。

「ありがとう。……ありがとうねぇ」

「ううん。――今日は、たまたま」


 本当は、たまたまなんかではない。

 視えてしまったから、動いただけだ。

 それが正しいかどうか、答えは出ない。


 彼女は広場の隅へ歩き、崩れ落ちた干し草小屋の前にしゃがみ込んだ。黒く焦げた藁の匂いに、別の夜の匂いが重なる。

 頭の奥に残っている“もうひとつの未来”が、しつこく揺れる。


 ――間に合わない夜もある。

 ――救い損ねる未来も、確かにある。

 ――いつか、今日のように、星を全部は止められない夜が来る。


 爪が掌に刺さる。

 誰かが背に毛布をかけてくれた。いつの間に持ってきたのだろう。


「魔女さま、これ、あったかいから……」

「ありがとう。……ねぇ、パン、あとで取りに行ってもいい?」

「もちろんさ。塩をたくさん利かせておくよ」


 冗談めかして言うと、老女がやっと笑った。

 リュミエールは笑顔を返し、それから空を見上げる。

 星は、まだ多すぎる。

 今夜のはじまりは、序章にすぎない。遠い北の空で、薄いひびがさらに広がっているのがわかる。星の運行そのものが、狂っている。


(ここで火を消しても、あのひびは消えない。……どこかで、誰かが同じ夜を過ごしている。きっと泣いている)


 胸の奥で、何かが決まる音がした。

 未来は、視ているだけでは変わらない。

 足を向けなければならない場所がある。


 夜半、村に静けさが戻ったころ、リュミエールは荷をまとめた。

 革袋に最低限の食糧と水、星種の小瓶、地図代わりの天文院の写し紙。杖に吊した小鈴が、かすかに鳴る。

 入口で靴紐を結び直していると、扉が細く開いて、トマが顔を出した。


「リュミエール、どこ行くの?」

「……星を見に、ちょっと遠くまで」

「また、星が落ちてくる?」

「落ちてこないように、お願いしてくる」

「お願い、できるの?」

「やってみる」


 少年はしばらく考え、ポケットから石ころを一つ出した。丸くて白い、井戸の底から拾ったというお気に入り。

「これ、あげる。母ちゃんの咳、今日少し楽そうだった。だから、お礼」

「……うん。預かる。返すときは、もっとつるつるにして返すね」


 トマが笑う。歯抜けの笑顔。

 こういう笑い方を、守りたい。

 リュミエールは扉を静かに閉め、外套のフードを深くかぶった。

 振り返ると、薄闇の中で老女が腕を組んで立っている。パンの包みを差し出した。


「三つだ。ひとつは道すがら、ひとつは朝に、もうひとつは……戻ってきたときに食べな」

「戻ってくるって、信じてる?」

「当たり前だろう。あんたは“必ず”って言ったじゃないか」


 胸が、少しだけ楽になる。

「――行ってきます」


 村の柵を抜けると、夜風が頬をなでた。

 東へ伸びる街道は、暗い。しかし彼女の足は迷わない。未来視の薄膜が、足元の凹凸をほんの少し先まで照らしてくれる。

 遠い地平線の上で、月が欠けた形で昇ってきた。

 ぼろぼろに縫い直したような、落ち着かない輪郭をしている。


(月も、乱れている。……どこかで、月を詠む誰かが、これを見ているのかな)


 見知らぬ誰かを思い、そして歩みを速める。

 星のひび割れは、北へ伸びている。

 最初の行き先は、天文院の出張所がある山上の町。そこで、星の運行の記録を確かめる。

 それから、天空神殿へ。空の穴を見に行く。


 足音に合わせて、小鈴がまた鳴った。

 夜は深く、冷たい。

 それでも、彼女の中にはひとつの火が灯っている。

 未来を視るだけの眼ではなく、未来へ足を踏み出すための火だ。


 星降りの魔女の旅は、こうして始まった。

 彼女の知らないところで、別の場所でもまたひとり、夜を嫌う月詠の魔女が、闇を睨んでいた。


―――――


(第1話完)

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