第3話 天文院の町にて
峠を越えると、石の町が朝の藍に浮かんだ。
三重の城壁が重なり、その内側から細い尖塔がいくつも空に突き上がっている。塔の先には巨大な筒――望遠鏡が夜空を名残惜しげに覗き、塔と塔を渡す橋の上では、黒い外套を纏った学徒たちが巻物を抱えて駆けていた。
門前には行列ができている。荷馬車の商人、朝早くから占いに来た巡礼、病を診てもらうためという老人、そして手に星図の写しを抱えた旅の書売り。
東の地平は薄く白み、だが頭上ではまだ幾つかの星が濃すぎる光で居座っている。
リュミエールは列の最後尾につき、外套のフードを指先で整えた。
門番の兵が一人ずつの顔と荷を確かめ、短く質問を投げる。鎧の継ぎ目が息に合わせてかすかに鳴った。
「次」
呼ばれて一歩出る。
兵は彼女の目を見た。薄い金色の虹彩が朝の光を受けて、ほんの一瞬だけ星の粒のように煌めく。
「旅の目的は?」
「天文院に用があって。昨夜の落星に関する記録を見たいの」
「昨夜も、か……。辺境からの報せがまた増えている。燃えた村、割れた井戸、夜が昼のように白んだ丘――」
兵はそこで言葉を切り、目を伏せた。
「すまない。通ってくれ。……気をつけてな」
「ありがとう」
門をくぐると、冷たい石の匂いが鼻を打つ。
通りはすでに賑やかで、屋台からは羊皮紙の墨の匂い、湯気を立てるスープの匂い、焼いた穀パンの香りが入り混じって流れてきた。屋根の上には小さな風見がくるくる回り、空気の層の違いを指先で確かめるようにせわしない。
広場に足を踏み入れると、中央には大きな天球儀が据えられていた。真鍮色の輪が複雑に組み合わさり、星座をかたどる小球がいくつも軌道を回る。朝露を浴びて鈍く光るそれは、見る者の胸に奇妙な安心感――世界は読める、という錯覚――を与える。
「お嬢さん、写しはどうだい! 昨夜の空を刻んだ星図だよ!」
声をかけてきたのは痩せた書売りの男だ。腕いっぱいに抱えた紙束の端が、風にばさばさと鳴っている。
「写し……昨夜の?」
「そうとも。塔の上で写し取りをしてね、朝一で刷ってきたばかりだ。北の空のズレがすごい、見ものだよ。おっと、占いも付けよう。星の砂を混ぜた墨で文字を――」
「占いは、今はいいの。星図だけ、少し見せてくれる?」
「へい」
リュミエールは数枚をめくった。手描きの星座の位置に、赤い印がたくさん打たれている。印は、昨夜の観測値と既存の星暦の差――ズレの点を示すのだという。
それは、点ではなかった。筋になっている。ずれは一方向に偏るのではなく、織物の糸がところどころ緩んで、目が乱れたように全体に広がっていた。
(やっぱり、ほどけてる……)
胸の奥の薄膜が静かに震える。
未来視に触れなくとも、町全体を覆う空気に微細なささくれが混ざっているのがわかる。言葉にできない不快感。世界の輪郭が紙やすりで少しずつやすられていくような、ざらりとした感触。
「天文院はどこ?」
「広場の北側だよ。尖塔が三本並んでるの、見えるだろ。真ん中の塔の入口から行くといい。……それと、気をつけるんだ。今朝は“落ちる”ものが多いからね」
「落ちる?」
「天球儀の部品だの、看板だの、屋根瓦だのさ。夜に星が引っ張るのか、朝になるとあちこち緩むんだ。昨日なんか、塔の飾りが一枚、風もないのに剥がれてきやがった」
「忠告、ありがとう」
男に小銭を渡し、星図を一枚譲り受ける。
紙の感触はざらついて、指先が粉を拾った。角に小さな星の砂が入り込み、光を弾く。
天文院の門へと歩き出す。
石畳は細かな割れ目で網の目のように縫い合わされている。割れ目には粉雪のような白い粉――星の塵――が薄くたまっていて、足音が立つごとに微かに舞い上がった。
正門は重たく、両開きの鉄。扉には星座をかたどる装飾が施され、その一部に、新しい鈍い傷が見えた。
ちょうど扉から、灰色の外套を纏った老人が出てくる。背筋は伸びているが目の下に濃い隈があり、白い髭は夜の霜をそのまま連れてきたみたいに湿っていた。
「来訪者か。……失礼、見間違いでなければ、お前は」
「リュミエール。星降りの魔女、と呼ぶ人もいる」
「やはり。噂は本当だったか。入るがいい。私は院の副長、ヘルメ。昨夜からろくに目を閉じておらん。空が、眠らせてくれんわい」
ヘルメと名乗った老人に導かれ、薄暗い回廊を進む。壁には古い星図が額装され、床には天球儀の影がゆっくり回っている。円筒形の天窓からは冷たい光が差し、室内の埃を銀の粒に変えて漂わせていた。
階段を上がった先の広間には、机がいくつも並び、学徒たちが羊皮紙に羽ペンを走らせている。瓶に詰められた星の砂が明かり取りの役目をしており、瓶の中の粒子が時折ふっと濃くなっては薄くなった。呼吸のように。
「こちらだ」
ヘルメは積み上がった記録の山から数枚を抜き取り、机に広げる。
昨夜の観測値、星座の変位、月の位相、落星の報告、影の異常――紙面の数字はどれも端に赤い二重線が引かれ、手の指の跡が茶色く残っていた。
「記録は、こうだ。だが、今の空は、こうだ」
窓際の天球儀をヘルメが軽く回す。軸の歯車がかすかに噛み損ね、甲高い音を出した。
「盤(モデル)が現実を追いきれていない。星は盤を裏切っている」
「星が盤を裏切っているのか、盤が星を裏切っているのか……」
「言い回しの問題だな。だが、私が言いたいのは――」
ヘルメは声を潜め、リュミエールの目を真っ直ぐに見た。
「“星暦盤”が軋んでいる」
胸の奥の薄膜が、そこで鋭く波打つ。
リュミエールは無言で頷いた。
「見せて」
「来い。地下だ」
ふたりは塔の中央にある大階段を下りた。
空気はひんやりと湿り気を帯び、足音が石に吸い込まれる。階段の壁には古い碑文が彫られ、星座を象った溝が細く光っていた。やがて、重い扉の前に出る。扉には錆びた大きな鍵が掛かり、ヘルメがそれを両手で回すと、長い息を吐くような音を立てて開いた。
暗い。
だが闇は完全ではない。地下の広間を満たすのは、石が放つ冷たい白の光だった。
その中央に、“それ”はあった。
直径二十歩はあろうかという巨大な円形の盤。輪と輪が幾重にも重なり、星の名を刻んだ石のリングがゆっくりと回る。内側には月の位相を示す環がはめ込まれ、さらに内側に、日と季節を刻む薄い針が十六本、蜘蛛の足のように伸びている。
「――星暦盤(アストロクロノス)」
ヘルメの声は、敬意と疲労が混ざって震えた。
「天文院の心臓部だ。百年先の星の位置、潮の高低、月蝕の巡り、すべて“読む”ための盤。だが今は」
盤が、鳴いた。
音は低く、石同士がやわらかく擦れ合う悲鳴に似ている。
歯車のように刻まれた環の歯が、わずかに噛み損ね、灰色の粉が落ちる。粉は床に触れる前に光へ変わり、消えた。
「動きが合っていない。星の方程式が、崩れている」
リュミエールは盤に近づき、指先をそっと縁に置いた。
冷たい。
冷たさの底に、しかし脈動のような微かなリズムがある。誰かの心臓の拍に似た、周期を持った震え。
未来視の膜を薄く張る。
――盤面にひび。
――歯が飛ぶ。
――石の輪が外れ、落ち、誰かの肩を打つ。
――暗い穴が、ここにも生まれる。
息を吐く。
視えてしまう未来は、いつだって喉の奥を冷たくする。
「どうすれば止まる?」
「止まらん。……いや、止め方がわからん」
ヘルメは盤の縁を叩き、苦い顔をした。
「記録は正確だった。少なくとも昨日までは。星の運行と月の満ち欠け、潮の満ち引き、鳥の渡り、魚の産卵……全部が盤の線に乗っていた。それが今や、線が溶けるように外れていく。盤は読むだけだ。読むための目盛りそのものが、夜ごとにずれていく」
「――月は?」
「月の環が特に狂っている。位相の進みが不規則で、時に逆行のように見える。昨夜の観測班は“月が脈打つ”と書いた。馬鹿げている。だが、いまは何でも書き留めるしかない」
「脈打つ月」
リュミエールは反芻した。
胸の奥で、もうひとつ別の鼓動が応える気がする。見知らぬ誰かの歩幅と、彼女の歩幅が、遠いところで一瞬だけ揃うような感覚。
「盤は、壊れる未来が見えるわ」
「壊れる、か……」
「でも、未来は確定じゃない。選べる。少なくとも、私はそう信じたい」
「信じたい、か。若い者はそう言えるのが羨ましいよ。わしらは信じるより先に数字を並べるしか覚えとらん」
ヘルメは乾いた笑いを漏らし、顎で示した。
「書庫へ行く。古い記録に、似た乱れの記述がある。……あるいは、予言に頼るしかない時が来たのかもしれん」
「予言?」
「わしは嫌いだ。だが、藁にもすがるなら藁の束ごと抱く他ない」
ふたりは地下を後にし、書庫へ向かった。
書庫は塔の西に張り出した半地下の棟で、天窓から斜めに差し込む光の帯が長い机の上に落ちている。室内は紙と革と埃の匂い。書架は天井まで届き、無数の背表紙が黙った墓標のように並んでいた。
ヘルメは慣れた手つきで背表紙を指でたどり、古びた巻物を二つ抜き出す。ひとつは「星辰異録」。もうひとつは、見覚えのない語で題が書かれていた。
「“夜綴(よつづり)の書”。星暦盤の初期に編まれた補遺だ。異常の時の対処と、口伝に近い話が混ざっておる。半分は昔話だがな」
机にひろげ、慎重に紐を解く。羊皮紙は乾いているが、まだ力が残っている。
記された文字は細く美しく、だが焦りの筆圧が所々で滲んでいる。読み進めると、古いある年――遠い昔にも星がわずかに乱れ、月蝕が予兆なく起きたことがあった、とある。
「原因は、夜の“欠け”とある。……欠け?」
「空が欠ける。穴が開く。光も影も、そこでは意味を失う。……“空亡”」
ヘルメがその言葉を口にした瞬間、空気がひやりとした。
リュミエールの未来視が、薄く畝る。
「空亡という語は別の地方の民間伝承で使われておった。“何もないのに、確かに何かがある穴”だ。星の位置から外れた闇ではなく、“位置そのものが喰われた場所”」
「位置そのものが……」
「夜綴の書は言う。“欠け目が生まれる時、星を読むだけでは遅い。月の詠い手を探せ。月は刻み、時間を束ねる”。……ここだけ唐突なんだがな」
「月の詠い手」
胸の奥の鼓動が、もう一度だけ強く跳ねた。
誰かの足音が、遠いところで石を叩く。
実際に音がしたわけではない。だが、確かに感じる。未来の薄膜に、白い指先がそっと触れたような感覚。
「ヘルメ、私は彼女を……探すべきだと思う」
「彼女?」
「月を詠む誰か。昨夜から、断片が視える。夜を嫌うように肩をすくめる背中。……月を睨んでいる」
「夜を嫌う月の魔女、か。皮肉な話だ」
「皮肉は、物語に効くもの」
「物語の中なら、な」
ヘルメは渋く笑い、それから真顔に戻った。
「この町に留まってもらえるなら助かる。観測班は目が足りない。だが――」
「行く。ごめん」
「やはり」
「星を止めるだけじゃ駄目だって、わかったから。根っこに触れないと。……そして、月の乱れを正せるのは、きっと」
「月の詠い手。わかった。ならば、せめてこれを持っていけ」
ヘルメは机の引き出しから、掌に収まる小さな金属盤を取り出した。
薄い円盤に星座の刻印があり、縁に細い目盛りが切ってある。中央には透明な石がはめ込まれていて、その中に白い粒が数粒、ふわりと浮かんでいた。
「携行用の小星盤だ。粗いが、盤の乱れを検知できる。目盛りが鳴ったら、近くに“欠け”がある合図だ。……鳴らないことを祈るがな」
「ありがとう」
「礼はいらん。戻ってきたときに、空の話を聞かせてくれ。“夜綴の書”に、新しい行を足せるように」
リュミエールは小星盤を革紐で首に下げた。胸の上で冷たい重みが「今」を定める楔のように感じられる。
「行く前に、一つだけ」
「何だ」
「市場で少し買い足したい。旅の糧と、鈴。……それと」
「それと?」
「昼のパン屋。塩の強いやつが好き」
「はは、いいさ。戻ってこい。塩をいくらでも利かせよう」
ふたりは短く笑い合い、塔を出た。
◇
市場は昼の光で満ちていた。
屋台の布が翻り、香辛料の赤と黄色が目を刺す。鍋の中で豆と肉が踊り、焼いた肉の脂がぱちぱちと跳ねた。売り子の声、子どもたちの甲高い笑い声、物乞いの鈴の音、鍛冶屋の槌音――音の層が重なりあい、街の呼吸を作っている。
リュミエールは干し肉と乾いた果実、そして旅用の薄い毛布を一枚購入して袋に収めた。
屋台の端で、小さな鈴を手に取る。銀色の球に細かな穴があき、振ると澄んだ音が鳴る。村を出るときに持ってきた小鈴は、昨夜の破片の雨で少し歪んでしまっていた。
新しい鈴は、音の高さがほんの少し違う。胸元の小星盤とぶつからないよう、外套の内側に結びつける。
そのときだ。
薄膜が、ぴん、と張った。
視界の端が微妙に傾く。音が一瞬だけ薄くなる。風が止まる。
――未来。
市場の中央に据えられた小ぶりの天球儀。その支柱の留め金が、緩む。
輪が外れ、球が転がり、屋台の陰でしゃがんでいる幼子に――
「危ない!」
口より先に体が動いた。
リュミエールは屋台の間をすべり、右手を突き出す。
光が、掌から薄い板のように伸びて、転がり始めた天球儀と幼子の間に割り込んだ。
真鍮の球が光の板に当たり、鈍い音を立てて跳ねる。転がる方向がわずかに変わり、細い通路へ逸れた。そこで一度、石畳の段差にぶつかり、やっと止まる。
母親の悲鳴が遅れて上がり、周囲がざわつく。
幼子はぽかんと口を開け、光の板に手を伸ばして触ろうとした。板は、彼の指が触れる寸前にふっと消える。
母親が駆け寄り、幼子を抱きしめる。
「ありがとう、ありがとう、魔女さま!」
「いいえ。留め金が緩んでただけ。……直しておいたほうがいいわ」
天球儀の支柱に近づくと、留め金のネジ山がすり減り、星の塵が細く溜まっていた。
塵は、粒が細かすぎて、金属の目をわずかに削る。
彼女は指で塵を払い、周囲を固めるように小さな光の輪をはめた。仮の綴じ。しばらくは持つ。
周りから囁きが上がる。
「見たか、今の――壁が、光の壁が出たぞ」
「加護だ……女神の加護だ」
「星を止めたんだ」
「違うの。星は止まってない。私は、たまたま間に合っただけ」
苦い笑みが唇に乗る。
“間に合わなかった夜”の重みは、身体が覚えている。
袖を引かれた。さっきの幼子だ。
彼は胸の前で、小さな手を合わせた。
「おねえちゃん、ねがいごとして」
「え?」
「ほしに。ぼく、さいきん、ねがってる。おかあさんが、げほげほ、なおるようにって。おねえちゃんも、ねがって」
リュミエールは一瞬だけ、戸惑い、それから笑って膝を折った。
幼子の目は澄んでいて、星の光よりもあたたかい。
「じゃあ、お願い。……“明日も、未来を選べますように”」
「えらんでいいの?」
「うん。私たちは、自分のすることを選べるの。星が何と言っても」
「すごい」
幼子が満足そうに頷く。母親が深々と頭を下げる。
彼女は立ち上がり、息をひとつ吐いた。
小星盤が胸の上でかすかに鳴った。チ、という短い金属音。
心臓が、跳ねる。
(欠けが近い? どこ)
耳を澄ます。
人の声と鍋の音、鈴の音、その奥に、ごくごく浅い吸い込みの音――空気が、どこかへ吸われていく。見えない穴が、呼吸をしているみたいに。
視界の薄膜をさらに薄く広げ、市場全体を覆うように伸ばす。
露店の布の端が風もないのにほんの一瞬だけ内側へ凹む場所。
そこだ。
飾り看板が吊るされた梁の下、影がわずかに深く、輪郭が曖昧になる点。
「下がって」
屋台の男に声をかけ、彼を引き寄せる。驚く男の肩越しに、空の一点を睨む。
「光標(こうひょう)――針」
指先から細い光の針を射る。
針は目に見えない何かに触れ、ほとんど無音で消えた。
同時に、空気がふっと戻る。
小星盤が二度、短く鳴り、やがて静まる。
「何を……」
「小さな“欠け”があったの。空気がそこに吸われてた。看板が落ちる前でよかった」
男は青ざめ、額の汗を拭った。
「助かった……本当に。昼代は受け取らん、持っていってくれ」
「代は払うわ。……それより、梁を補強して。星の塵を払うのを忘れないで」
彼女は銅貨を置き、ほんの少しだけ温かいスープを啜った。塩が強く、香草の香りが舌に心地よい。
胃に落ちる温度で、世界が一瞬だけ現実に戻る。
未来と現在が、重なったまま歩き続けるのは、時々とても疲れる。
それでも、歩かなければならない。
◇
昼過ぎ、天文院に戻ると、ヘルメが書庫の奥で古い巻物をさらに積み上げていた。机の上には石板が一枚、そこに細い針で刻んだような線で図が描かれている。
「戻ったか。ちょうどいい。“夜綴の書”の続きだ。伝承の部分をもう少し掘り起こした。……昔々、空が裂ける年、星読みは盤を手放し、月詠みを探した。月は時をつなぎ、夜を縫う。星は光を与えるが、夜を縫いはせぬ――」
「夜を縫う、か」
「詩的すぎて鼻につくが、文脈は一貫しておる。星の乱れは光の方向の乱れ。月の乱れは時の結び目の乱れ。縫い直すには“結び目”に触れろ、と」
「結び目に触れる……」
リュミエールは胸の小星盤に触れた。石の冷たさの向こう側で、確かに何かが結ばれたりほどけたりしている。
「月の観測班の記録は?」
「塔の上だ。……ああ、だがその前に」
ヘルメは机の引き出しから細い銀の指輪を取り出した。内側に小さな刻印があり、指に嵌めるとひんやりとした金属の感触の後に、ごく僅かな温かさが残る。
「“凝視避け”だ。長く空を見上げすぎると頭痛がひどかろう。星の塵が瞳の奥に悪さをする。これを嵌めて視界を半段、柔らかくしなさい」
「ありがとう」
「わしは数で戦う。お前は視る力で戦う。どちらも負けるな」
ふたりは塔の上へ向かった。
風が強くなる。階段を登るに連れて、空が近づき、空気が薄くなる。塔の天蓋は開かれており、巨大な望遠鏡が月の方角へ向けられていた。
望遠鏡の基台で、若い学徒が二人、うつむいたまま帳面に震える字を書き続けている。目の縁は赤く、吸い込んだ夜がまだ肺の中に残っているように息が浅い。
「休め。代わる」
ヘルメが短く告げ、彼らを下がらせる。
リュミエールは望遠鏡の横に立ち、肉眼で空を見た。
月。
昼でも白く見える薄い円盤が、今日は違った。円ではない。輪郭は欠け、欠け方は不揃いで、布を裂いた端のようにささくれだっている。光の縁がちらちらと震え、まるで呼吸をしているように膨らんだり縮んだりして見えた。
(脈打ってる……)
胸の奥で、遠い鈴の音がひとつ鳴る。
未来視を、ほんの少しだけ開く。
――黒い外套。
――長い髪。
――夜を嫌うように、視線を逸らしながら歩く影。
彼女は月を見ない。地面を見て歩く。
けれど歩幅は、月の脈動と同期していた。
彼女の足音を、遠い石畳が静かに返す。
(――いる)
リュミエールは思わず、名前のない誰かに向けて囁く。
あなたは、いる。
ここではないどこかで。
同じ空の下で。
夜を嫌いながら、夜を縫おうとしている。
「どうだ」
横からヘルメの声。
リュミエールはゆっくりと息を吐き、目を細めた。
「……探しに行く。東へ。月の脈が強くなる方角。多分、潮の影響が大きい海沿いの街か、その先の大聖堂」
「思い当たる地名がある。海都マール。潮見の塔があり、月の暦を独自に持つ。祀りも濃い。……そこから南へ下ると、“時の歪む廃都”があると噂だ」
「廃都」
「名は残っていない。地図では“灰の帯”と呼ばれる。旅人は避ける。時間が、そこだけ粘ると言う」
「粘る時間」
「お前の“月詠み”に会うなら、まずはマールだ。紹介状を書く。……それと」
ヘルメは小袋を差し出した。袋の口を開けると、淡い光の粒が静かに揺れている。
「星種(スターブラッド)だ。院の蓄えから少し。お前なら正しく使う」
「借りるね。返す」
「返すなら、空を返せ」
ヘルメの言葉に、彼女は笑った。短く、けれど確かな笑み。
「努力する」
◇
塔を降り、黄昏の市場を抜ける。
陽は傾き、石の町の影は長い帯になって道を横切る。影の縁は朝よりも濃く、ところどころで微かに揺れていた。
リュミエールは小星盤を指で弾いて鳴りを確かめ、外套のフードを深めに被る。
パン屋の軒先から、湯気が手招きした。
店の奥で、太った女主人が腕まくりをしている。生地を捏ねる腕に粉がはたきつき、笑うと頬がひどく柔らかく揺れる。
「旅の嬢ちゃん、焼きたてだよ。塩、利かせてあるよ」
「一つ。いい匂い」
「二つ持っていきな。道は冷える」
紙に包まれたパンを受け取ると、塩の匂いが手に移った。
噛むと、外は香ばしく、中はふんわりとして、塩がしっかり舌にのる。身体が、満ちる。心の隙間まで、少しだけ埋まる。
「嬢ちゃん、“星降り”の魔女かい?」
女主人の声は、星図屋の男とは違う響きでその言葉を口にした。畏れと、祈りと、生活の重みが混ざっている。
「星は、落ちる。私は、落ちた後を少しだけ縫い合わせてるだけ」
「縫ってくれるなら、それでいいよ。誰が何と言っても、私らの夜は続くからね」
「……そうだね」
店を出ると、空の色は群青に沈み、塔の上の望遠鏡に小さな灯がともった。
通りの端で、楽師が細い笛を吹いている。笛の音は干し草と火の匂いの中を泳ぎ、乾いた石の壁に丸く跳ね返った。
(――行こう)
アルセーヌの外門まで歩く。
門番は朝の兵とは違う男で、顔を見上げると軽く顎を上げた。
「もう出るのか」
「うん。また戻るよ」
「戻ってこい。今夜は風が変だ。星が低く見える」
「気をつけて」
外に出ると、頬を撫でる空気が町の内側と違っていた。
冷たさの質が変わる。草の匂いが戻ってきて、遠くで水の流れる音がする。
小星盤は静かだ。鈴は、歩幅に合わせて一定のリズムで鳴る。
東へ。
海へ。
月の脈が強く打つ方角へ。
途中の丘で一度だけ立ち止まり、振り返る。
石の町の尖塔が夜の中に針のように刺さり、それぞれの先に小さな灯が宿っている。
灯は星ではないが、人が自分のために灯す星だ。
彼女はそれに一度だけ手を振り、再び道を下った。
◇
アルセーヌからしばらく離れた頃、道の脇の古い祠の前で、小さな人影が佇んでいるのが見えた。
旅姿の少年だ。背負った荷は軽く、足は裸足。祠の前に置かれた粗末な木箱に向かい、何かをぶつぶつと唱えている。
「どうしたの?」
声をかけると、少年は振り向いた。目が大きく、恐れと疲れで縁が赤い。
「姉ちゃん、町の人?」
「旅の人。祠に何を?」
「父ちゃんが帰ってこない。北の森で、星の塵を拾いに行ったまま。祠の神さまは、願いをひとつだけ叶えるって……」
「ひとつだけ、か」
「でも、こうしてる間にも夜が来る。父ちゃんは夜が嫌いなんだ」
夜が嫌い。
胸の奥の鼓動が、また反応する。
夜を嫌う誰かの影と、少年の言葉が一瞬だけ重なる。
「願いは、言葉だけじゃ足りないときがある。……行く方向を決めるの。たとえば、北の森へ向かうとか、町に知らせを出すとか」
「ぼくが? でも、ぼくは小さくて――」
「小さいからこそ、できることもある。祠の神さまがくれた道は、きっと“ひとつ”じゃない」
少年は固く唇を結び、やがて頷いた。
「町へ戻って、兵に言う。姉ちゃんは?」
「私は、東へ。海を見ないといけない」
「海?」
「月が、呼んでるの」
少年は不思議そうに目を瞬かせ、それから真剣に頭を下げた。
「姉ちゃん、気をつけて。星が、今夜は低い」
「知ってる。あなたも」
別れ、再び歩き出す。
道は緩やかに下り、風に塩の匂いが混ざる。
夜の深みが濃くなるにつれ、頭上の星は数を増すどころか、違う密度で“集まって”見えた。
星と星の間に、薄い“空白の筋”がある。
空白は、筋を結びたがっている。
結べば、穴になる。
小星盤が、ほんの一瞬だけ震えた。
リュミエールは足を止め、空を見上げる。
群青の薄皮の向こう側で、何かがひっそりと口を開け、閉じた。
(間に合う)
そう、口の中で言ってみる。
声にすると、言葉は音になり、自分の耳に戻ってくる。
音は、自分の足を前に出すための拍子になる。
「間に合う」
再び歩く。
鈴が、静かに鳴る。
東の空の低いところで、欠けた月が歪んで光り、心臓の鼓動とずれたタイミングで脈を打った。
(――待ってて。夜を嫌う誰か。必ず、行く)
彼女は胸の石をぎゅっと握り、暗い道の先へと進んだ。
星は多すぎ、夜は深すぎる。
だが彼女は、今日という一日で三度、小さな未来を変えた。
それは、大きな夜と戦うための、確かな手応えだった。
天文院の塔の灯が遠くで微かにまたたき、やがて丘の陰に消えた。
代わりに、潮の匂いが強くなる。
海が近い。
月の脈が、鼓膜の裏で重く鳴る。
リュミエールは歩幅を少し広げた。
夜は、まだ終わらない。
だが、夜を縫うための糸は、確かに手にある。
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