エソラゴト・モーメント

水底まどろみ

絵空コトリという少女

 絵空えそらコトリはその名の通り小鳥のような存在だ。

 小柄で愛嬌があり、何よりも自由を愛している。 

 そんな彼女にとって、勉学は青春の謳歌を妨げる|厄介な敵なのだろう。

 勉強を教えてほしいと家に転がり込んだはずの彼女は、ノートを開いてわずか数分でピンク色のシャーペンを器用に回し始め、しまいには突拍子もない雑談を始めた。


「先輩、幽霊って見たことあります?」

「無いな。あんなの脳の化学物質が作った虚像に過ぎないだろう」

「えー。先輩ロマンがないですね」


 幽霊のどこにロマンを感じる要素があるのだろうか。

 第一、人の歴史はいつの時代も非業の死と隣り合わせだ。

 戦乱、飢饉ききん、疫病……それらで死んだ者が皆化けて出てくるなら、東京は毎日のように幽霊の目撃談があるだろう。


「で、なんで幽霊の話を?」

「んー……いえ、なんとなく聞いてみたくなっただけで」

「なんだそりゃ」


 さっさと勉強に戻るように促すと、絵空コトリは不承不承ながらも机の上に転がしていたシャーペンを手に取った。

 数十秒ほど続いていたノートと芯の擦れ合う音だったが、小さなうめきと共に停止する。

 ほとんど白紙のノートの前で腕組みし、唸り声を上げ続ける絵空コトリ。

 その姿を俺はそっと盗み見る。


 血色の良い肌にパッチリとした瞳。薄桃色の唇から漏れる小さな呼吸音と、それに合わせて上下する豊かな胸部。

 それと学校の課題に悪戦苦闘する姿。


「……先輩、どうかしましたか? 可愛い彼女に見惚みとれちゃいました?」


 冗談っぽく笑う時の上ずった声も少し赤くなった頬も、どう見ても平時と変わらない後輩の姿だ。





 半年前にマンションの屋上から飛び降りて、煮込んだトマトのように潰れていたのが、質の悪いドッキリだったのではと思えるくらいに。


 たかがドッキリで葬式まで挙げるなんて趣味が悪すぎる。

 かといって、幽霊になって会いに来ただなんてもっとあり得ない。

 俺にはそんな資格はない。


 嫉妬に駆られた女子に度を越えた嫌がらせを受けていた時も。

 根も葉もない噂を真に受けた男子に心無い言葉を浴びせられていた時も。

 窮屈な世界から抜け出そうと空へ駆け、永遠の自由を掴んだ時も。

 ただ傍で見ていることしかできなかった臆病者に、彼女に合わせる顔など無い。


 だからこれは、絵空コトリのいない現実に抵抗しようとした脳が生んだ、都合のいい夢なのだ。


「先輩」


 そうして絵空コトリは、今日も都合のいい言葉を投げかける。


「私、ずっと一緒にいますからね」

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エソラゴト・モーメント 水底まどろみ @minasoko_madoromi

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