二 シェイド・アンド・ハニー〈SCRIPT〉その5
夏休みは前進し続け、七月の終わる日。部室で
「珍しいじゃん。映画じゃなくて本読むなんて」
「たまにはな。
見せられた表紙は『古事記』だった。
たしかあの人は日本の古い映画もよく見るから、それに関係するんだろうけど。とはいえ、後輩に古事記を勧めるのはなかなかに渋いセンスだ。
「ところでさ。あんた捨てたいものとかある?」
「そりゃおまえ……」
「下ネタは禁止で。物質、モノの話」
「先回りする奴は嫌いだ」
みんなが捨てたいものを持ち寄る映画にする。宮本に言ったら「ふうん。いいんじゃない?」だって。
合宿まではもう十日とちょっとに迫っている。二人きりの部室で斜めに向かい合って座りながら、宮本はわたしをろくすっぽ見もせずに独り言のようにこぼした。
「
「は? 何が?」
全然気にしてませんふうの態度がムカつくとか、口調がキモいとか、何か警戒色の虫を見たときに似たざわつきが胸に湧く。
「なんでそんなこと聞くの?」
「もう用はないだろう? 聞くべき話はだいたい聞いたし、あんまり歓迎もされなかった。なのに出向く理由はなんだ?」
「行ったなんて言ってないじゃん」
嘘が下手な自覚はある。だから多くは語らない。すると宮本、わたしを横目で流し見た。
「おまえ、ひょっとしてだけど……」
「は? 何? 変な早とちりはやめてよ」
わたしが坪手さんの家に行ったのは、坪手さんから依頼を受けるためだ。そりゃ、最初はそんなつもりは全然なかったけれど、何度か行ったことで結果的にそうなった。ならば、それは最初からそういう未来を確定させるために用意された道筋だったといえる。結果と因果が逆でも事象が同じなら違いはない。だからそう言えるのだ。
「まさか、ノートの謎以外に目的があったわけじゃねえだろうな。でなきゃ、行ったことで目的が生まれたか」
宮本の非常によくない点として、ときどきいやに鋭い。
わたしの目的?
ふいに、頭に
菜々子先輩は、坪手さんとずっと「そばにいたい」と考えている。それだけ見ればすごく乙女チックかもしれないけれど、実際はそうじゃない。彼の人生にとって自分の存在が意味あるものだと「期待」している。
何を期待しているかって、敬意だ。
菜々子先輩は、名前を失い、三年費やしたことについて、坪手さんに敬意を払ってほしいのだ。たとえ坪手さんの考えが異なるものだとしても。
一方で、わたしは坪手さんから直々に敬意を得た。そういう言質をとったと認識している。
だったらわたしにもまた、その先を「期待」する資格があるはずだ。
けれどもそんなの、宮本に言うわけない。
「あんたに関係ないでしょ」
「おまえ、それだけはやめておけ。悪いことは言わん」
「なんで?」
「なんでって、そりゃあ……あの人はあれだろが。菜々子先輩の……」
「でも、彼は菜々子先輩とどうこうっていうのは考えてないみたいだったじゃん」
「彼って、その呼び方はどうなんだ?」
「べつに何がどうなの。変な意味じゃないでしょ。気を回しすぎだって。それに、あんたがそう言うのって、変。だってそれこそ、あんたは菜々子先輩のことが好きなんでしょ? だったらあんたにとっても都合がいいじゃん」
「違うんだ。おまえ、痛い目見るぞ」
「はあ? 何それ」
「おれは知っている。菜々子先輩がどういう人か、少なくともおまえよりは知っているっていう自信がある。無茶と強引の両輪で走るような人だぞ」
「それは知ってるけど。ふうん。でもさ。なんていうか」
わたしはわざとらしく申し訳なさげな顔をした。
「あんたが、たとえばわたしを心配してるんだっていうのはわかるよ。心配って言葉が違うにしても、わたしのためを思っての忠告をしようとしてるってのは合ってるでしょ? それはわかる。でもね」
それからすっと視線を逸らす。
「でもごめん。全然響かない。あんたが何を言おうが、これはわたしの問題だよ。もっというなら、わたしの人生」
「おれはおまえの人生なんておまえの好きなように楽しめばいいと思っているよ」
「でしょう? なら何が問題?」
「おまえがこの問題の重大さを気にしていないことが問題だ。開き直ってんじゃねえよ」
「開き直るっていうか、こういうのって、自分でもどうしようもないんだもん。それこそ、わたしだって何回もあんたに言ってるよね。菜々子先輩は無理だって。諦めなって。でもあんたはどうなの?」
「なんだよ急に」
「あんたが菜々子先輩と一緒にいたら、きっと気が休まらないよ。いつも、この人に嫌われたらどうしようとか、どうしたら機嫌を直してもらえるだろうとか、そういうことばかり考えちゃうのは目に見えてるって言ってるの」
「はん。自分はさぞ経験がおありのようで」
「映画の知識を経験と呼んでよければ、あんたよりはきっとね」
「またお得意のフランス映画ですか。経験豊富ですなあ」
「そんな嫌味しか言えないなんて、幼稚さを誇るのがお上手で」
宮本は黙った。
ぐうの音も出ないはずだ。お互い、相手の言葉は自分に返ってくる。なんなら自分の言葉も自分に返ってくる。だから一定以上は踏み込めない。わたしたちはどちらも自殺志願者ではないのだ。
「人の気持ちはどうにもならないし、自分の気持ちもどうにもならない。みんな知ってるし、言葉にすれば当たり前のことでしょ? そして、どれほど宮本がわたしを心配していたとしても、それはあんたの問題でわたしの問題じゃない。わたしはわたしの好きなようにする。それを止める権利があるのは、警察とか法律とかそういうのだけ。わたしが何かに違反しているって場合の限定つきだけれど」
「そんな話は……」
「突き詰めていけばそうなるでしょ? ご忠告ありがとう。参考意見として聞いておくよ。でもそれだけ。以上、この話はおしまい」
最近少しよい関係性だと思いかけていたけど、そういえばわたしはこいつが嫌いなんだった。久しぶりに思い出して、いっそあんたもわたしを嫌いになれと思った。口から出かかったけれど、さすがにやめた。
「早くシナリオできたいから帰る」
「なんだその日本語」
「うっさい。たぶん明日か明後日には持ってくるから」
勢いつけて立ち上がり、宮本を部室に一人残してドアをバンと閉めて帰った。ムカつきながらチャリ漕いで、家の玄関を開けて、親の不在をいいことに足音をドシドシたてて階段を上った。とにかくわたしは無性に腹が立っていた。自室のドアを強く開くと、掛けられていたわたしの名前のプレートがガンと落ちた。そんなの無視して、サイドテーブルに佇む一輪挿しを手に取る。
「認める」
もう一枚。
「認めない」
さらに続ける。認める。認めない。認める。認めない——。
最後の一枚をちぎったとき、口に出たのはこうだった。
「認める」
花びらの散らばったのを見つめながら、わたしは溜息を着いた。仕方がない。宮本の勘繰りは正しい。
わたしは恋に落ちたのだ。
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