二 シェイド・アンド・ハニー〈SCRIPT〉その4

 菜々子ななこ先輩は小学校での事故の後、日常的には通称を使用して生活を続けた。小学校を卒業したあとは学区外の中学校に進学し、現在は県立高校に通っている。中三まで使用していた通称は、もう誰も呼ばない。

 わたしの知る限り、わたしと宮本みやもと以外には。

 そしてその通称である〝菜々子〟さんは、坪手つぼてさんが目覚めるまでずっとつきっきりだった。何がなんでも彼に寄り添う。そのために自分を演じ続ける。きっとそれは、菜々子先輩にとっての「聖なる法則」だったのだろう。

「SFはどこまでアリですか?」

 部室に行ったら菜々子先輩とつくだ先輩がいたので、わたしは訊ねてみた。

「任せるよ。でも極度の露出と着ぐるみはNGね」

 菜々子先輩が笑って言う。この人はなんだかSFに出てくる宇宙人か、それに選ばれた人類代表みたいな雰囲気がある。

「他に質問はある?」

「そうですねえ……あっ。もし、宇宙人や異世界人がいるなら、わたしたち有機生命体に何で対抗してきますかね」

「んー……正義?」

「人類は悪なのか」

 佃先輩が吹き出した。菜々子先輩はさも当然のように答える。

「そりゃあ、嘘、誤魔化し、言い訳、裏切り、隠し事、開き直り、知らんぷりで出来てるのが人だもの」

「罪深いな、我々は」

 まったくだ。

「できたらお知らせしますね」なんて言い残して、コソコソ向かうわたしはきっと罪深い。

 というわけで、えーと……n回目。

「どっちだ?」

 坪手さんは十円玉を握り込み、後ろ手に隠したあと、両方の握りこぶしを差し出した。

「えっと……こっち?」

「ハズレ。もう一回。どっちだ?」

「こっち?」

「二連続でハズレだね。ぼくは、これだけは彼女にも負けなかった」

 菜々子先輩のことだ。わたしも宮本みやもとも菜々子先輩には手も足も出ないから、その先輩が手も足も出ない坪手さんは、この界隈では大ボス的な存在といえよう。

「じゃあ今度は天坂あまさかさんがやってみてよ」

 十円玉を差し出され、わたしは彼と同じように後ろ手で握ってから前に差し出す。

「……どっちだ?」

「こっち?」その指に迷いはなかった。

「アタリです……すごい。なんで?」

「ただの特技だよ。理由なんてない」

「菜々子先輩にも全勝なんですよね。何回くらいやったんですか?」

「数え切れないほど。あの人はプライドが高いからね。絶対ズルだって大騒ぎされたこともある」

「ズルしてるんですか?」

「まさか。こっちもプライドがあるから、常に真剣勝負だよ。ぼくも彼女も、ここぞの勝負のときは絶対にズルなんてしない」

 それから思い出したように付け加えた。

「ズルするときは絶対に相手に悟らせないし、悟られたならそれは戦略的なズルだ」

「プライドが高いから?」

「その通り」

 わたしたちは互いに口元を緩めた。

「これ、いま思いついたんですけど、五円玉と十円玉でやって十円玉を当てるとかもできるんですか?」

「それは無理。在る方がわかるだけ」

「どんな仕掛けなんだろ。コツとかあるなら教えてほしい……かも」

「だから、そんなのないんだってば。自分でもわかんないから、教えることも捨てることもできない」

「そうなんですね……宮本も一回だけ当てたとき、なんでだかわかんないって言ってたな」

 言いながら、そのときのわたしはべつの言葉に引っかかっていた。

 捨てる。

 その、なんでもなく言ったであろう一言にふと背中を押された気になって、わたしは数日前からずっと考えていたことを文脈も無視して口にした。

「わたし、何かを捨てる話にしようと思っているんです」

 未だ形にならない映画の脚本の話。

 捨てるというのは、戻れなくする、先に進む……つまり生きるということだ。昨日の夜、人は退路を断つとその寸断のエネルギーが前進のベクトルに変換されるのではないか、という仮説を思いついた。だからここで宣言することで、わたしは前進のエネルギーを得ることにした。

「ふうん」と坪手さんは口にして、それからこう続けた。

「なら、一つ頼みがある」

「なんでしょう?」

「彼女も出るんだよね?」

「はい」

 というか主演だ。すると、

「彼女の名前を捨てさせて」

 一瞬意味がわからなくて固まる。頭で数秒反芻して、おそるおそる確認する。

「……菜々子先輩の、菜々子先輩をですか?」

「ややこしいけどそう」

「具体的には?」

「わかんない。でも彼女に『捨てる』と宣言させればいいと思う。これはぼくじゃなくて彼女の問題でもある。彼女が自分で捨てたら、それからどうなるのか。気になるんだ。ひょっとしたら劇薬なのかもしれないけれど」

 坪手さんは肩をすくめ、ここに来るようになって初めて見た、ちょっと照れくさそうな笑い方をした。

「頼み事をする立場じゃないのはわかってるんだけどね。払えるものも、何もないし」

「いえ、そんな」

 何かを払ってもらおうなんて思わない。そもそも、勝手にシナリオをのぞき見たという負い目は、赦されたとはいえ少しも消えていない。

 それよりも、坪手さんがわたしにお願いごとをした。そのことに、自分の頬が激しく熱くなるのを感じた。

「何か相談があったら、いつでも来てよ」

 いつでも!

 その日の帰り道は、なんだか知らないけれど意味わかんなくて笑えるくらい世界が輝いて見えた。坪手さんから脚本のアイディアを肯定してもらえた。頼みごとをされた。敬意を払ってもらえた気がして、脳みそがスッキリして、これまでの人生で初めてってくらい、ワクワクしてドキドキした。世界中からチヤホヤされる資格を得たときみたいで、帰り道ずっと有頂天で舞い上がっていた。名前が「まい」なんだから舞い上がったっていいでしょって調子に乗って、わたしちょっとスキップしてたかもしれない。

 脚本が完成したら、きっとわたしの身にいまよりももっといいことが起きる——わたしのハチミツかサッカリンにでも漬けられた甘い脳味噌は、勝手にそんな予感を抱いていた。

 菜々子先輩のことなんて、きれいさっぱり忘れちゃってたから。

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