第12話 外周の再検証

◆朝の掲示、角のある紙


 鐘が三つ鳴る少し前、研究局の掲示板に新しい紙が貼られた。

 “本日午後、結界林二層目外周の再検証を実施。目的:撤退→再構築の安定化、外周の“門因子”再測定。温室封鎖は継続。巡回:二十刻。”

 紙の角はまだ鋭く、黒いインクは乾いたばかりの匂いを持っている。角は、正しく持てば刺さらない。――昨日の自分に教えられたことだ。


 廊下は噂の温度で満たされると、同じ靴音でも響きが変わる。

「外周だけなら安全だろ」「昨日は開きかけたってさ」「でも閉じた」「閉じさせた、だ」

 言い合いは棘を持たない。けれど、矢印は生き物みたいに向きを変え、ノエルの肩にも一瞬だけ乗った。ペンダントの銀に触れる。冷たさが輪郭を返す。


「行く?」

 陽翔が横に立ち、いつもの笑顔で顎を上げた。

「うん。逃げる理由じゃない」

「逃げたいときに残る方が危ない、って昨日言ったの覚えてる?」

「覚えてる」

 エリナがノートの余白に〈午後:外周再検証/“下を見る”〉と書き、ローザは短く頷いた。

「午前は体力を温存。だが、合図はいつも通り」



◆魔導史:交渉としての封緘


 午前一限、魔導史の教室。老教授が黒板の前で眼鏡を持ち上げ、古い街の話を始めた。

「百七年前、北の港街は、十七回“門の兆候”を経験したが、一度も“開門”に至らなかった。理由は、封緘の強度ではない。距離の運用だ。――住民が“離れる技術”を覚え、日常の呼吸にした」

 黒板に“交渉”の二文字が白く浮かぶ。

「門を開けさせないのも、戦いではあるが、同時に交渉である。こちらの距離を守り、相手の距離を測る。礼が距離を生む」


 ノエルは胸の内で合図を唱えてみた。

 “今”。二拍で薄く、一拍半で戻す。「戻す」は「切る」より静かだ。

 教授が続ける。

「交渉の土台にあるのは“戻れる場所”。それを日常に無数に用意しておくこと。――君たちの寮の食堂、藤棚、港へ続く石畳、そういう細部が防衛線になる」

 細部に名前が与えられると、世界は持ち場になる。ノエルは、ペンダントを指で押した。



◆花術応用:十歩を身体に


 二限は花術応用。ミスティ教官が黒板の端に小さく書く。

 “撤退は礼。礼は速度で伝わる。”

「昨日“十歩”に届いた者は、結果に酔わないこと。十歩は通過点。あなた達の目標は“閉じさせる撤退”」

 教官の視線が教室全体を撫で、窓の外の藤棚の房が風で鳴った。

「藤咲」

 呼ばれて立つ。

「“ゼロ点”の言葉、もう一度」

「一拍目で友情へ、二拍の前半で香りのレバーを胸骨の裏で折るイメージ、後半で“戻す”。――落とすのではなく、戻す」

「よろしい。言葉は身体を作る」


 席に戻るとき、陽翔が親指を立てた。エリナは〈言語→運動連動〉と書き、ローザは前を見たまま小さく頷いた。



◆昼の食堂:燃料と静けさ


 昼食。スープは根菜の甘み、パンの皮は指先に軽い音を返す。

「俺、今日は“二重衝動”に名前を付けておく。出てきたら『遅刻』って呼ぶわ」

「なぜ遅刻」

「二重にすると、いつも“遅れて”失敗するから!」

 エリナが笑いながら「命名は有効」とメモした。

「私も“出迎え”って言葉を固定する。匂いの前兆に名前があれば、呼ばれた時、自分の名前を忘れずに済む」

「私は“十歩”より“礼”を優先する」

 ローザは簡潔に言い、四人はほぼ同時に食器を置いた。

 噛む音、笑う呼気、椅子を引く音。――生活の音は防壁だ。外から来ない音は、こちらの側の旗印になる。



◆港へ:風の向き


 午後、結界船の桟橋。風は昨日より一段強く、海は幾つも小さな皺を作って地平線へ押し流している。

 上級生が出欠を取り、司馬教官が短く告げる。

「外周の再検証。“下”を見る。撤退は早めに。――持ち場、確認」

 「薔薇、空」

 ローザ。

 「光輪、一重固定・二歩先行」

 陽翔。

 「錯視、一拍刃」

 エリナ。

 「友情→ゼロ点、“戻す”優先」

 ノエル。

 短いやり取りは、緊張の中で最もよく通る。船は静かに離岸し、森の縁の結界膜が薄い虹を返した。



◆外周①:湿地の波紋――起きない波


 二層目の外周。昨日“波紋”が生じた湿地帯に着く。

 水面は静かで、風紋も起きない。鏡に似た平面が、空の色を正しく映している。

「“起きない”のは、起きないこと自体が兆候」

 エリナが小声で言い、硝子板に淡い線を刻む。

 陽翔の輪が水際に薄く敷かれ、ローザは鞘の角度を極微に変える。

 ノエルは二拍で薄くし、胸骨の裏のレバーを軽く触れるだけで戻す。

 ――音はない。匂いの厚みも変わらない。

 けれど、体は“待っていた合図が来ない”ことに敏感だ。

(呼ばれないなら、呼ばれないままでいい。こちらから、呼ばない)

 湿地は通過点になり、誰も足を滑らせなかった。



◆外周②:影の逆位相――素直すぎる光


 苔の絨毯が広がる一角。昨日は“光に向かって伸びる”影を見た。今日は――苔も光も美しすぎるほど素直だった。

「素直は危険」

 ローザが低く言う。

 エリナは“段差の延長”の錯視を出さない練習に切り替える。出せる能力は、出さない訓練をも必要とする。

 陽翔の輪は二歩先で待機、ノエルは友情の側で肩へ一拍だけ触れて離す。

 ――何も起きない。けれど、何も起きない“経験”が、筋肉の奥にもう一つの回路を作る。

 起きないことを、起きないまま通過する。

 そのとき、背中に、針先みたいな感覚が刺さった。



◆外周③:視線――見られている感覚


 振り返る。誰もいない。

 けれど、空気の圧だけが“見られている”と告げる。

 ノエルはペンダントに触れ、胸の中で合図を叩いた。

 “今”。二拍。一拍半。戻す。

 肩の筋肉がふっと緩み、視線は音を立てずに霧散した。

「何か?」

 ローザが尋ねる。

「見られてた。黒百合に。――でも、方向は“下”じゃない。『後ろ』」

 エリナがメモに〈後方視線/方位錯誤〉と書き、陽翔が輪を広げて四人を包む。

「包囲輪、二秒だけ」

「出しすぎるな。二重衝動が“遅刻”を連れてくる」

「了解!」


 視線は戻って来ない。代わりに、遠くの木立で枝が一本、自然に折れて落ちた。――自然、に見える。

 見なかったふりをしない。だが、必要以上に見もしない。四人は肩を並べて前に戻った。



◆外周④:音のない鈴――鳴らない音の位置


 小さな谷に入る。昨日は“鈴”のような音が聴覚を撹乱した。

 今日は――鳴らない。

 鳴らない音は“鳴らないという音”で耳を塞ぐ。

「中心、迷子になりやすい」

 エリナが短く言い、陽翔の輪が足裏へ“中心”の位置を教える。

 ノエルは二拍で薄くし、ゼロ点で**“鳴らない音”に名前を付けない**。名を与えれば、そこに居場所が生まれる。

(鳴らないなら、鳴らないままで)

 谷を抜ける。足並みは揃っていた。



◆観測塔ふもと:黒ずみ――“起きない”の積算


 外周の起点に戻る頃、観測塔の基部、石の目地が――昨日より“わずかに”黒ずんで見えた。

 顔を出してはいない。薄皮が増えたようにも見えない。

 ただ、“昨日より”という比較級だけが胸に刺さる。

「記録」

 エリナが硝子板に印を打ち、ローザは剣の柄に触れて言う。

「ここは“見られている場所”。見られていると知っていると、見える」

 陽翔が小さく頷き、ノエルは胸の中で合図を置いた。

 “今”。二拍。一拍半。戻す。

 友情の側の花弁が肩に触れて、すぐ離れる。

 黒ずみは、黒い石の色に戻る。

 ほんの少しだけ、戻る速度が昨日より速い。それだけでも、今日は十分だった。



◆小さな代償――陽翔の空白


 引き返す道すがら、陽翔が額に指を当てた。

「……あれ?」

「どうした」

 ローザが立ち止まる。

「変だ。俺、今、何を言おうとしてたかが……忘れた。何を忘れたか、忘れた」

 冗談の声色ではなかった。

 ノエルは即座に花弁を友情へ振り、肩に触れて二拍で戻す。

「視線、こちら」「輪、厚く」

 エリナの指示で、陽翔の足元に輪が一段深く展開する。

 護衛の上級生が駆け寄り、額に細い符を当てた。薄い香りがすっと鼻の奥を通る。

「軽度の香気干渉。短時間で終息するだろう。思い出せないことを“思い出せない”ままにするのが肝心だ。追うな」


 追わない。

 香りは追わない。

 ノエルは胸の中で同じ言葉を重ね、陽翔の肩にもう一度だけ花弁を触れさせた。

「俺、大丈夫。……たぶん、何かを言おうとしてたんだよね。言うべきじゃないことを」

「なら、言わないほうが勝ち」

 ローザが短く言い、四人は歩き出した。足並みは以前より慎重で、合図はより小さく、速く。



◆帰還の船:塩と笑いと沈黙


 船に乗ると、潮の匂いが肺の奥の冬を外側の冷気で上書きした。

「俺、味が新鮮に感じるかも」

 陽翔が笑おうとして、途中で力を抜く。

 エリナは落ち着いた声で言う。

「『新鮮』という感想を埋める“前提”が抜けている。それだけ。体は問題ない」

 ノエルは欄干に指を置いた。木の年輪が、地面の時間を指先へ戻してくれる。

「忘れたこと自体を、覚えてる。それで十分」

「十分」

 ローザが肯定し、海はいつも通りに波を返した。



◆研究局:白い部屋でのヒアリング


 学院に戻ると、研究局で追加ヒアリングが行われた。

 白衣の助手が薄い硝子板にデータを映し、質問を連ねる。

「外周の三地点、“期待現象なし”の記録。“起きない”の積算が心理・運動に与える影響は?」

「待ち構えに伴う疲労が増える。けれど、合図の経路が太くなる」

 エリナ。

「俺、“二重衝動=遅刻”の出番が減った。名前を付けたから」

 陽翔。

「“十歩”は結果。目的は“閉じさせる撤退”。――再確認した」

 ローザ。

「私は“出迎え”を待たない練習ができた。呼ばれない時に呼ばれないままでいる」

 ノエル。


 助手は頷き、次の硝子板を出す。

「観測塔基部の黒ずみ、昨日比で“主観的な濃さ”が増加。生理データは変化なし。――主観と客観のずれの扱いは?」

「主観を否定しない。だが、主観に“居場所”を与えない。言語化して外へ置く」

 エリナが答え、司馬教官が短く言う。

「よろしい。陽翔の干渉は軽微。追わないこと。追うな」


 ヒアリング後、司馬教官は廊下で四人を止めた。

「“勝ったから帰る”を続けろ。勝ちのまま終える。数字に酔うな。――眠れ」

 眠ることも訓練。何度言われても、毎回新しい。



◆食堂:塩と甘さと不器用な冗談


 夜の食堂。湯気の上がる鍋と、オーブンから出たばかりのパン。

 陽翔がスプーンを持ち上げ、少し考え込んでから言う。

「俺、たぶん“出発前に言おうとしてた冗談”を忘れた」

「どんな冗談」

「それを忘れた」

 不器用な笑いがテーブルに落ち、エリナが「冗談の記憶の欠如は、笑いの余白で回収できる」と記録した。

 ノエルはペンダントを指で押し、銀の冷たさで胸の中の“空洞”の輪郭を確かめる。

「明日は戻る。――戻り続ける」

「戻る合図は」

「“今”」

 四つの声が重なり、碗の湯気がゆらいだ。



◆寮の廊下:十歩の報告と、怖さの取扱い


 食後、寮の廊下で短いミーティング。

「“撤退→再構築”、今日の十歩、成功率は?」

「七割」

 エリナの数字は容赦がない。

「十分だ。――怖さは?」

 ローザの問いに、陽翔が肩をすくめた。

「怖さ、ある。でも“名前付き”になった。『遅刻』と『空白』」

「空白?」

「“何を忘れたか忘れた”の、空白」

「名前を付けて、外に置け」

 ローザの言葉に、ノエルは胸の内で頷いた。

(怖さを道具に。――磨け)



◆図書室:母のメモのページ


 短い時間、図書室へ。

 ノエルは昨日の続きで、古い「香言術の初歩」を開く。紙のにおいは懐かしいが、懐かしさは呼び水にしない。

“香りは記憶を呼ぶ。だが記憶は香りを選ばない。選ぶのは人である。”

 欄外の鉛筆文字が目に入る。

“選べない日もある(だから“今”を選ぶ)”

 誰の書き込みだろう。母の字ではない。でも、未来の自分の字かもしれない。

 ページを閉じる指に、少しだけ力が入った。



◆夜の温室:線は太く、薄皮は薄く


 夜。

 温室の外では巡回の足音が二十刻で刻まれ、封緘の線は太く、呼吸は深い。

 ガラスの内側、基礎石と目地の間――黒い糸は薄皮を“一枚だけ”重ねた。

 焦らない。焦りは香りを飛ばす。

 線が太くなるほど、線の外の薄さは目立つ。

 薄いところに“差”が生まれる。

 差は、境界になる。

 境界は、たまに、門になる。

 門は、開かない。

 だが、門であり続ける。


 封緘の符がかすかに――本当にかすかに――呼吸を外す。

 外しは戻る。

 だが、“外れた”という記憶だけが石の裏に残った。

 記憶は香りを呼ぶ。香りは記憶を選ばない。選ぶのは――。



◆夢:甘い方角、苦い方角


 ノエルは眠りの入り口で“今”を置き、二拍で薄くしてから、ゆっくり落ちた。

 夢の中の温室は昨夜より狭く、白百合の列はまばら。通路は広い。

 囁き声がする。

 母の声に似て、母ではない声。

 (おいで。――忘れたら、楽になる)

 甘い方角。

 同時に、遠くの方で木が擦れる苦い音。

 苦い方角。

 ノエルは胸の中で合図を叩いた。

 “今”。

 二拍で薄く、一拍半で戻す。

「楽と、守るは、違う」

 夢の中で言葉は泡になって浮かび、泡は弾けて消えた。

 それでも、言えた。

 甘い方角は遠のき、苦い方角の音は、ただの木の音に戻った。



◆夜半:扉を叩かない


 夜半、寮の廊下で足音が一つ。

 ローザの軽いノック。

「起きているか」

「起きてる」

「“今”」

「“今”」

 短い呼吸の一致だけで、十分だ。扉は開かれず、声も二言だけ。

 扉を叩かないで済む夜は、良い夜だ。

 扉を開けずに済む夢は、良い夢だ。



◆暁前:塩の匂いと“戻れるもの”


 鐘の前、潮の匂いで目が覚める。

 ノエルは起き上がり、ペンダントの銀を胸に当てた。

 “今”。

 二拍で薄く、一拍半で戻す。

 窓の外で藤棚の房が揺れ、滴が石畳に小さな丸を作る。

 丸は踏まれ、伸び、また丸に戻る。

 戻れるものは、強い。

 廊下のきしみは鳴らない。

 鳴らないことが、こんなにも嬉しい。



◆朝の点呼:空白と仲間


 食堂でスープを啜っていると、陽翔が少し遅れて来た。

「おはよ! 俺、昨日の“忘れたこと”は、結局思い出せなかった」

「思い出さなくていい」

 エリナが即答する。

「“空白”に名前が付いている。それで十分」

「俺の空白、名前は“穴熊”にしよ」

「将棋?」

「穴を守る、ってね!」

 くだらない。――けれど、くだらなさは境界の内側の贅沢だ。

 ノエルは笑って、パンをちぎった。

「行こう。今日も“戻る”を積む」



◆午前:訓練の精度――“起きない”の反復


 校庭の端。芝は朝露で濡れ、陽の傾きが影の輪郭をくっきりさせる。

 “撤退→再構築”。十歩を五本。成功三、失敗二。

 成功は、昨日より静かだ。失敗は、昨日より短い。

 陽翔は「遅刻」が顔を出す瞬間を声にした。

「いま出た! 出たけど、遅刻!」

 エリナは錯視を「出さない」訓練に手を入れ、ローザは十歩の最後の二歩を**“礼”で埋める**。

 ノエルは二拍の終端に耳鳴りが乗らないよう、ゼロ点の“幅”を広げる。

 幅は、戻る場所の広さになる。広いほど、戻りやすい。



◆正午:静かな騒ぎ、ふたたび


 正午。食堂で、隣のテーブルの下級生が小声で囁く。

「温室、また封緘強くしたって」「でも強くするほど薄いとこが――」

 ノエルの胸の中に、言葉は刺さらない。通り過ぎる。

 言葉に居場所を渡さなければ、言葉は客人のままだ。

 彼女は窓の外の藤棚を見た。

 風。

 滴。

 丸。

 戻る。

 その四つで、今日の昼は十分だった。



◆午後:学匠の一言――“楽”と“守る”


 午後の短い面談。灰衣の学匠は投影板に二つの語を出した。

 “楽”と“守る”。

「門に向き合う者は、しばしばこの二語を混同する。楽は悪ではない。休息がなければ守りは続かない。だが、『忘れて楽になる』は守りと両立しない」

 ノエルは頷いた。夢の中の声が、遠くで泡になって弾ける音がした。

「君は“戻す”と言った。続けなさい。――戻し続けなさい」



◆黄昏:藤棚の誓い


 夕暮れ、四人は藤棚の影で水を回し飲み、短い合図を交わす。

「“今”」

 四つの声。

「明日は二層目、外周の二周目。――“起きない”を、積む」

 ローザの言葉に、陽翔が拳を握り、エリナが硝子板を閉じた。

 ノエルはペンダントを握り、“今”を胸に置く。

 置ける。

 置ける場所が増えている。



◆夜:封緘の息、島の息、そして薄い震え


 夜の温室。

封緘は太く、呼吸は深く、巡回は怠らない。

 黒い糸は、焦らない。

 薄皮は一枚だけ重なる。

 一枚だけ。

 それだけ。

 それでも、蝶番はほんの僅かに滑らかになる。

 島の息が封緘の息と一瞬だけ重なり――外れた。

 その瞬間、温室の外を走っていた一年生が立ち止まり、胸に手を当てて、何かを思い出せない顔をした。

 すぐに仲間が肩を抱き、水を渡す。

 彼女は笑って首を振り、寮へ戻った。

 笑いが本物であることだけが、救いだった。



◆消灯前:怖さの回収


 寮の廊下で、四人はいつものように立ち止まり、手を重ねる。

「今日の怖さは?」

 ローザの問い。

「俺は『遅刻』が二回、『空白(穴熊)』はゼロ」

 陽翔。

「私は“出さない錯視”の不安が一回。でも記録に残した」

 エリナ。

「私は……『呼ばれない不安』が一回。――呼ばれないのに、呼ばれるのを待ってしまいそうになった」

 ノエル。

 ローザは短く言う。

「全部、道具にしろ」


 手を離し、扉が閉じる。

 廊下のきしみは、鳴らなかった。



◆夢:言葉の守り


 眠りは早く、静かだった。

 夢の温室はさらに狭く、白百合は少ない。

 囁きは遠い。

 甘い方角は、遠のいた。

 苦い方角は、ただの木の音になった。

 ノエルは夢の中で、もう一度だけ言った。

「楽と、守るは、違う」

 “今”。二拍。戻る。

 白は白、黒は黒。

 寂しさは残る。

 だが、寂しさを理由に開けないことは、もう“できる”。



◆暁:戻れる朝


 鐘の前、潮の匂い。

 ノエルは目を開け、起き上がった。

 ペンダントは今日も正しく冷たい。

 “今”。

 二拍で薄く、一拍半で戻す。

 ロフトから陽翔が顔を出し、エリナがノートを閉じ、ローザが短く言う。

「食べろ」

 食べる。

 笑う。

 行く。

 戻る。

 戻れる朝は、強い。

 今日も、こちらの側で花は咲く。

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