第11話 揺れる学院の影
◆講堂、図と針
翌朝の講堂は、いつものざわめきより半音低かった。天井の木組みが音を丸くして戻すたび、昨夜の冷たい残響がそこかしこに貼りついたままなのが分かる。壇上には研究局の灰衣の学匠と司馬教官。魔導投影機に浮かんだのは、根の間に走る細い曲線――門の“開口角”の推移だ。
「結界林二層目における“門の兆候”――昨日の演習で、最大開口角は三度に到達。通常、四度で吸気が発生するが、今回、三度で後退」
学匠の声は紙の擦れるみたいな乾きで、けれど言葉自体は重い。
「これは“閉じさせた撤退”の成果だ。該当班は評価に値する。だが、蝶番の滑らかさは確実に増している。封緘を太くすれば、線の外の“薄いところ”の相対差が増す――この性質は変わらない」
投影が切り替わり、温室の平面図が現れる。基礎石の裏に朱点がいくつも光る。
「温室における微弱な“圧”。夜半と暁前にピーク。持続は短いが、回数は増加傾向。封緘は再刻印で強化済み。生徒は近づかないこと」
司馬教官が前に出た。
「本日の方針。通常授業を継続しつつ、演習班は“撤退→再構築”の短縮と、**“下を見る”**の徹底を。――以上」
解散の合図が鳴った瞬間、座席の列を走った息の波が、いつもより深く出入りした。
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◆噂の廊下、名のない矢印
廊下は、噂で満たされると音が変わる。靴音が小走りになるわけでもないのに、響きの中に“早口”が増える。
「三度で戻ったって」「門って見えるの?」「黒い、口みたいな……」「誰が閉じたんだ」
名指しはない。けれど、矢印は生き物みたいに方向を持つ。ノエルは肩にかかる矢印の温度に、ペンダントの銀で指先を冷やした。
(いらない。――注目は、私を鈍くする)
階段の踊り場で立ち止まると、上から降りてきた三年の女子が目礼した。
「昨日、ありがとう」
「……何に?」
「“撤退が評価される”って言葉、あなたたちの動きで本当になった。――それだけ」
それだけ、と言い置いて彼女は去る。礼は、恐怖の形を変えてくれる。ノエルは胸の内で“今”を一度唱え、二拍で薄く、一拍半で戻した。
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◆花言葉史Ⅳ:距離の文法
ミスティ教官の授業は、今日も黒板に短い文から始まる。
“優しさは距離で、冷たさは角度で、礼は速度で伝わる。”
「境界の扱いは、礼儀の学びと似ているわ。近づきすぎないこと、切るべきときに切る角度を持つこと、そして“早すぎるご厚意”を慎むこと」
チョークが音を立て、下に“撤退は礼だ”の一行が添え足される。
ノエルはノートの空白に小さく“今→二拍→ゼロ点”と図を描いた。ペンダントの銀は今日も正しく冷たい。冷たさは輪郭を返す。
休み時間にエリナが囁く。
「ノエル、脈拍は通常に戻ってる。夢の影響は?」
「昨夜は……囁き、来た。でも“方向”が分かった。下」
「方向が分かるのは半分勝ってる」
エリナの短い肯定は、金具みたいに確かな手応えを残す。
「午後、記録を取り直す。あなたの“ゼロ点”の言語化、進めよう」
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◆研究局:図と匂いの言葉
四限後、研究局の小室。硝子板に二層目の断面図が浮かび、各地点の“匂い圧”の推移が折れ線になる。
「湿地の波紋、影の逆位相、音のない鈴。順に語ってくれ」
白衣の助手の問いに、四人が順々に言葉を置く。
ノエルは“冷たい香り”を言葉で作り替えるのに時間がかかった。温度は変わらないのに、肺だけが冬になる。皮膚の外は無事なのに、胸の奥だけが呼び込まれる。
「“呼び込まれる”?」
助手が乗り出す。
「はい。……外からではなく、内側の“懐かしさ”が出迎えに出る感じです。そこへ香りが絡みついてくる」
「出迎えの擬人化、良い比喩だ。記録する」
司馬教官が短く頷いた。
「藤咲、“ゼロ点”の手順を三段階で」
「一拍目で友情の側に触れ、二拍目の前半で香りのレバーを胸骨の裏で折るイメージ、後半で完全に“戻す”。――落とすのではなく、戻す」
「よろしい。戻る合図は」
「“今”です」
「合図は共有されているか」
「はい。四人で同じ“今”を持ってます」
ローザの報告は冷ややかで正確だ。陽翔は数字で出せることを数字で、出せないものを体感で話す。エリナは余白に短い注釈を付ける。
終わりに、司馬教官はいつもの言葉で締めた。
「眠れ。眠ることも訓練だ」
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◆食堂の午後:熱が帰ってくる場所
午後の食堂は、午前より少し明るい。スープの湯気が高く上がり、パンの皮を割る音が安心のリズムを作る。
「俺、今日の俺、けっこう好きだ」
陽翔が言って、すぐ照れた。
「でも、輪を二重にしたくなる瞬間、まだあるんだよな」
「誘惑は記録に残す。記録が“次の私”の味方」
エリナが静かに言い、ノエルは頷く。
「私も、匂いに寄る“前兆”を言語にして残す。さっきの“出迎え”みたいに」
「ローザは?」
「十三歩を十一歩へ。――今日中に一回、十歩に落とす」
言った瞬間、ローザの肩にほんの僅かな熱が灯る。目標がある言葉は、体温を引き上げる。
食べる。噛む。飲む。
生活の音は、境界の外からは来ない。だから、噛んでいい。だから、笑っていい。
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◆夕練:十歩の壁
夕刻、藤棚裏の芝。
「“撤退→再構築”、十一歩を十歩に」
ローザの短い号令で、四人の体が一斉に軽く前傾する。
陽翔の追従輪は二歩先行のまま厚みを薄く、エリナの錯視は“一拍刃”に調整、ノエルは二拍の終端での“戻す”に集中する。
「薔薇、空!」
紅い花が空にひとつ。解散。――十五、十三、十二、十一。
呼吸。視線。位置。
「再構築!」
十歩。
届かなかった。
輪がほんの僅かに遅れ、エリナの線が一瞬だけ“色”を持ち、ノエルのゼロ点に耳鳴りが重なった。
「もう一回」
ローザの声は変わらない。
繰り返す。
十歩。
また、届かない。
陽翔が舌を出し、エリナが「いまの線、二秒長かった」と淡々と拾う。
「もう一回」
短い言葉は、不思議と力を残す。
三本目。
「薔薇、空!」
十四、十二、十一――
「再構築!」
十歩。
届いた。
四人の足が同じ地面に“同時に”戻る。陽翔の輪がきしまず、エリナの線が完全に透明で、ノエルのゼロ点は耳鳴りを呼ばない。
「よし」
ローザの口角が一ミリ上がる。
「今日はここまで。――勝ち逃げ」
勝ったまま止める。勝っても続けたくなる誘惑を、ここでは断つ。明日、勝つために。
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◆図書室の夕焼け:母の行間
汗を拭き、三十分だけ図書室へ。窓ガラスが夕焼けを薄く反射して、文字の行間が温かい。
ノエルは「香言術の初歩」という古い本を開いた。紙は乾いているのに、指先に微かな油が移る。
“香りは記憶を呼ぶ。だが、記憶は香りを選ばない。選ぶのは人である。”
母のノートにも似た言い回しだった。
ページをめくると、欄外に鉛筆で小さな書き込み――“選べない日もある”。
母の字ではない。知らない先輩の余白。けれど、胸の奥で何かが頷いた。
(選べない日でも、“今”は選べる)
ペンダントを指で押し、合図をひとつ。二拍で薄く、一拍半で戻す。
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◆夜の温室:線と薄皮
夜。温室の外では、研究局の上級生が封緘の巡回を続けている。記録者が砂時計を裏返し、二十五分の砂が落ちはじめる。
ガラスの内側、基礎石と目地の間――そこに、黒い糸は“薄皮”を重ねていた。
焦らない。焦りは香りを飛ばす。
線は太い。だから避ける。
避けた場所は薄い。薄い場所は“差”が生まれる。
差が生まれると、そこに境界ができる。
境界は、ときに、門になる。
門は、今は開かない。
だが、門であり続ける。
封緘の符がひとつ、呼吸を一拍外した。
外しはすぐ戻る。
けれど“外したという事実”は、石の裏に薄い層として残った。
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◆寮の廊下:同じ拍
風呂の湯気が廊下に漂い、木の壁は湿り気を柔らかく飲み込んでいる。
陽翔がタオルを頭に巻いて出てきて、ノエルに片手を挙げた。
「俺、今日は“怖かった”をメモした。怖いって書くの、勇気いるけど、書いたら軽くなるな」
「言葉にすると、外に出るから」
エリナが眼鏡を指で押し上げる。
ローザは短く言う。
「怖いは道具。――磨け」
四人で短い合図をかわす。
「“今”」
四つの声は同じ拍で重なった。
手を合わせ、解散。扉が閉まる。
廊下のきしみは、今日は鳴らない。音が鳴らない幸福は、いつも気づかれないまま足元にある。
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◆夢:庭でない庭
眠りは深く、けれど合図は届く。
夢の中で、温室の通路を歩いている。扉には触れない。触れずに二拍で薄くし、ゼロ点へ戻す。
白百合は首を傾げ、黒い点は動かない。
――視界の端で、何かが“こちらへ”ではなく“向こうへ”流れる。
囁き声。
母の声にも似て、母ではない声。
(ここは、庭じゃない)
夢の自分が言う。
(だから、入らない)
“今”。
花弁が友情の側へ触れ、すぐ戻る。
囁きは遠のき、白は白に残った。
胸の奥は静かで、寂しさは消えないけれど、寂しさを理由に“開けない”ことができた。
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◆暁前:体の中の朝
潮の匂いで目が覚める。窓はまだ暗く、鳥の声は遠い。
ノエルはベッドから起き上がり、ペンダントを胸に当てた。
“今”。二拍で薄く、一拍半で戻す。
(行ける)
鏡に向かって襟を整え、髪を留める。
ロフトから陽翔が飛び降りそうな勢いで顔を出す。
「おはよ! 今日は“ごはん→勝つ→ごはん→寝る→勝つ”!」
「増やすな」
エリナが笑い、ローザが「食べろ」とだけ言う。その“だけ”が、正しい体温を呼び戻す。
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◆朝の連絡:距離の指示
掲示板に研究局の新しい紙が貼られた。
――温室封鎖、継続。巡回二十五分→二十に短縮。
――二層目の探索、午前は休止。午後は外周の再チェックに変更。
――“下を見る”訓練のカリキュラム化。各班、今日から記録フォーマットを統一。
紙は新しく、角が鋭い。
角は、刺さらないように持てば、ただの角だ。
ノエルは胸の中で合図をひとつ。
“今”。
昨日の怖さは、今日の道具になる。
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◆午前:訓練の言葉
校庭の端。芝は夜露を吸って重い。
四人は“撤退→再構築”の十歩を五本。成功三本、失敗二本。失敗は、「ここが遅れた」と言えるだけで勝ちの芽だ。
陽翔は走りながら笑う。
「俺、十歩の手前で“二重”の誘惑が来る!」
「誘惑に名前を付けろ」
エリナが即答する。
「“二重くん”」
「幼い」
「じゃ“二重衝動”」
「学術ぽい」
笑いは疲労の毒抜きだ。笑えば合図の通りが良くなる。
ローザは最後に短く総括した。
「十歩は“結果”。私たちの“目的”は“閉じさせる撤退”。――数字に酔うな」
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◆正午:静かな騒ぎ
食堂で昼を取りながら、廊下でささやきが続く。
「温室、また封緘強くしたって」「でもさ、強くすると薄いとこ増えるんだろ?」
昨日なら胸の中に刺さった言葉が、今日は前を通り過ぎていく。言葉が通り過ぎるのは、言葉に“居場所”を渡さないからだ。
ノエルはスプーンを置き、窓の外の藤棚を見た。房が風に揺れて、滴が石畳に丸を作る。
丸は、踏まれれば伸び、また丸に戻る。
戻れるものは、強い。
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◆午後:学匠と一本の質問
研究局の広い実習室に呼ばれた。灰衣の学匠が直々に口を開くのは珍しい。
「君の“戻す”は落とすのではない、という言い方が気に入っている」
学匠は投影板の上にライラックの図を出し、指で花弁の重なりをなぞる。
「落とすという言葉は、香りを敵にする。戻すという言葉は、香りを使う。――君の母は、どちらを選ぶ人だった?」
胸の奥で、何かが静かに音を立てた。
「……戻す、と思います。庭にいた頃、母はいつも“戻っておいで”と言ってました。花にも、私にも」
「なら、君は間違っていない」
それだけ言って学匠は背を向けた。
言葉は短いのに、長く残る。
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◆黄昏:藤棚の影で
夕陽が長い影をつくる時間、四人は藤棚の下に座って、水を回し飲みした。
「明日、二層目は外周だけ。――でも“門”は、外にも内にもある」
ローザの言葉は未来形で、現在の硬さをやわらげる。
「俺、二重衝動を“名前で呼んでから”薄くなった。名前、大事」
陽翔が笑い、エリナは「知覚は言語に依存する」と淡々と頷く。
ノエルはペンダントを握った。銀は冷たく、内側の温度を“戻す”。
「守る。――それだけ」
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◆夜:封緘の息と島の息、そして微かな咳
夜の温室。
封緘は太く、呼吸は深い。砂時計は二十に短くなり、巡回の足音は少し増える。
黒い糸は、焦らない。
薄皮の層は、今日も一枚だけ重なった。
門は、開かない。
だが、門であることをやめない。
島は大きく息を吸い、ゆっくり吐いた。
その呼吸と封緘の呼吸が、一瞬だけ重なったとき――窓の外を通る一年生が、短く咳をした。
咳はすぐ止まり、彼女は何事もなかった顔で寮へ戻る。
その咳の“理由”を、誰も知らない。
知らないまま、夜は進む。
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◆消灯前:合図の確認
寮の廊下で、四人は短く集まる。
「“今”」
声が重なる。
ノエルは笑って、言い足した。
「明日も“今”」
「当たり前」
ローザの即答に、笑いが一度、きれいに弾ける。
扉が閉じ、静けさが戻る。
廊下のきしみは、やはり鳴らなかった。
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◆夢の終わりに置くもの
眠りは早かった。
夢の中の温室は、昨日までより狭い。白百合の列は少なく、通路は広い。
囁きは遠い。遠いが、消えない。
(ここは庭じゃない。だから、入らない)
夢の自分がもう一度言い、合図を落とす。
“今”。二拍。戻る。
白は白のままで、黒は黒のままだった。
寂しさは、残る。
けれど、寂しさを理由に開けないことを、今日は選べた。
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◆暁:体の中に戻ってくる朝
鐘の前に目が覚める。海の匂いは、いつも通りの塩と風。
ノエルは起き上がり、銀を胸に当てる。
“今”。
二拍で薄く、一拍半で戻す。
窓の外で藤棚の房がひかり、石畳に小さな丸を作る。
丸は踏まれ、伸び、また丸に戻る。
戻れるものは、強い。
今日も、ここから。
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