第10話 結界林二層目の門

◆観測塔から奥へ


 森の奥は、空の色を奪うほど濃い緑だった。外周観測塔を拠点に、一行は二層目の内部へと進む。護衛班が前後を固め、班と班の間隔を一定に保つ。

 ノエルたち四人は第二列の中央。前には上級生二人、後ろに警戒班。靴底に伝わる感触が外縁とは違う。土が柔らかいのに、どこか“下”が硬い。まるで薄い皮一枚の下に、別の地面が潜んでいるような――。


「ここから先は“道”が変わる」

 後方の司馬教官が短く言う。

「匂い、色、温度。どれも正しくない場合がある。疑え。見ろ。判断しろ」


 陽翔の光輪は足の動きに合わせて“歩行追従”し、芝でも根でも二歩先を薄く先行する。エリナの錯視線は段差の縁に沿い、落差の錯覚を一拍だけ先送りにする。ローザは剣を抜かずに鞘ごと角度を調整し続け、ノエルは胸の奥で合図を刻んだ。

 ――“今”。二拍で薄く、一拍半で戻す。香りは追わない。

 合図を思い出すたび、肩に力が入るのを確認してから抜く。力むより、寄せて返す。潮のように。


 森は音を減らしていく。鳥の声が背後に置かれ、風の音が葉の裏へ潜り、代わりに土の下の水の細い流れが耳に寄ってくる。匂いは甘さよりも樹脂のほろ苦さが強く、舌の奥で小さく痺れた。



◆湿地の波紋と囁き


 最初の異変は湿地の手前で起きた。

 水面が、風もないのに内側から外へと波紋を作る。輪が幾重にも広がり、岸に届く直前で消える。

「下」

 ローザの声が一拍早く走り、陽翔の追従輪が水面すれすれに展開する。薄い光が水の皮に乗り、揺れを“陸地寄り”に押し戻す。エリナの線は波紋の縁に一瞬だけ“陸の延長”を描き、足が沈むはずの感覚を先送りにした。

 ノエルは花弁をひとひら、友情の側に最大化して肩へ触れ、二拍目の終端でゼロ点に落とす。薄皮が一枚、胸骨の裏で剝がれるイメージ。

 ――波紋はただの水紋になり、湿地は道へ戻った。


 その時だ。耳の奥で、言葉にならない擦過音がひとつ、ふたつ。夢と同じ方向。“下”。

 だが今日は、意味の輪郭が薄く浮かぶ。

 (……おいで)

 誰の声でもないのに、知っている響き。母の庭の境界を踏み越えそうになった子どもの自分を、遠くから呼ぶような――そんな優しさの形をした冷たさ。

 ノエルは即座に胸の合図を叩く。

 “今”。二拍。戻る。

 囁きは霧に戻り、湿地の匂いに溶けた。



◆根の壁と、初めての“口”


 進むにつれ、根が絡み合う。太い根と細い根、乾いた皮と濡れた皮が複雑に重なり、道を壁のように塞いだ。正面の上級生が手袋の上から触診する。弾力、温度、匂い。

「……待て」

 彼が言い切る前に、根の継ぎ目から黒い糸が細く顔を出した。

 それは点ではなかった。線だった。

 これまで温室で見た“薄皮の重ね”が、ここでは梁になっている。蝶番は軋み、音はしないのに耳の奥が熱くなる。扉が――開こうとしていた。


「門になる!」

 ローザの声は刃の背で打つように強く、短かった。

 陽翔の輪が一段深く、根の縁をなぞる。エリナの線は継ぎ目のずれを“延長”して、噛み合いを一拍だけ遅らせる。

 ノエルは花弁を広げて友情の側を最大化。三人の肩と持ち場を撫で、二拍目の終端でゼロ点へ落とす――はずだった。


 黒い糸は速い。

 香りの窓だけで走り、森の湿りと樹脂のほろ苦さをひと口に吸い上げ、根の間に“口”を作った。

 見える。

 黒い口。

 光を反射しない、色ではない黒。そこから吹き出す冷たい香り。

 温度は下がらないのに、肺の奥に冬が落ちる。目の表面だけが乾き、涙腺が勝手に反応しそうになる。


「撤退!」

 護衛の上級生の叫びが空気を蹴り、四方から同じ合図が重なる。

 ノエルの脚が一歩、二歩、三歩――後ろへ滑る。陽翔の輪が床の線を“断”に切り替え、エリナの錯視は“根のない道”を一拍だけ用意して衝突を回避させる。

 ローザが鞘ごと根の縁を叩く。叩かれた根は悲鳴を上げない。ただ、噛み合いを“一拍だけ”忘れる。


 黒い口は、開ききらない。

 空気が吸い込まれる気配が止まり、吐き出される冷たさが細る。

 ノエルは花弁をゼロ点に落としてから、あえて“友情”をもう一度だけ流した。

 ――仲間の温度を合図にするために。

 陽翔の輪が根の歪みを抱きとめ、エリナの線が“足場”の錯覚を切る。ローザの剣が、鞘から半寸だけ抜け、灯が一瞬だけ強く短く走る。


 口は閉じた。

 黒い糸は弾け、根はただの根へ戻る。

 瞬きをしたら、そこには壁だけが残っていた。

 音も匂いも、さっきまでの異常を裏付けるものはない。

 けれど、四人の肺の奥には、閉じる直前の“冬”が微かに刺さっていた。



◆呼吸の所在


「……はぁっ」

 陽翔が膝に掌を当て、弾む息を整える。

「開きかけ、いや、開いてた……よね?」

「開いた。だが“閉じさせた”」

 護衛の上級生が断言し、ローザが短く頷く。

「撤退は怯えではない。判断だ」

 エリナはノートの端に〈門:開口角=推定三度/冷香感:1.2〉と素早く書き、視線だけでノエルに“脈”と“目”を尋ねる。

「大丈夫。見えてる。……“ゼロ点”で戻れた」

 ノエルは胸の奥で再び合図を叩いた。

 “今”。二拍。一拍半。戻る。

 香りは追わない。

 合図は、呼吸の所在を示す白い杭だ。


「再構築」

 ローザの声で、四人は持ち場に戻る。緊張は残っている。だが、残っていることを確認できる間は、動ける。



◆二つ目の試練――“見える影”


 根の壁を迂回して進むと、木々の間の空が不自然に明るくなった。差し込む光が地面の苔を鮮やかに照らし、目に心地よい。

 ――心地よすぎる。

 苔の絨毯の中央、影が“光に向かって”伸びている。

 本来、影は光から逃げる。だがここでは、影が光の方角へと“登っていた”。

「錯視、いける」

 エリナが低く告げ、線で“影の段差”を一拍だけ延長する。足が落ちるべき地点を、足が落ちる前に“足りている”と誤認させる逆位相。

 陽翔の輪はその延長を一歩先で受け止め、薄い構造体を作る。

 ノエルは二拍で薄くし、ゼロ点の刃で影の薄皮を剥いだ。

 ――影は影に戻る。

 光はただの光に戻る。

 苔の緑は美しい。だが、それだけになった。


 胸の奥で、囁きが二拍ぶんだけ遠のいた。

 まだ、来ている。

 けれど、届かない。



◆三つ目――“音のない鈴”


 小さな谷の手前、風鈴のような音が一瞬だけ通り過ぎた。金属の共鳴ではない。ガラスでもない。花粉が空中で擦れ合う、微細な音。

 ――音が、聞こえた“気がする”。

 エリナが眉を寄せる。

「聴覚錯覚。強度低いけど、方位感が狂う」

 陽翔の輪が輪郭を太くし、足場の“中心”を身体に教える。

 ローザは目を閉じ、一度だけ深い呼吸をしてから瞼を開けた。

「“今”」

 ノエルはその合図を待っていたみたいに、花弁を友情の側へ一拍だけ触れさせ、二拍目でゼロ点へ落とした。

 鈴の音は途切れ、谷の風だけが残る。


 すれ違う形で護衛の上級生が短く言う。

「境界は“全部で来る”。匂いだけ、光だけ、音だけで終わらない」

「だから、合図を共有する」

 ローザの言葉に、三人が頷く。

 合図は、人数分の身体で響くと強くなる。



◆観測塔への帰還と、報告


 日が傾く。予定された探索範囲の終端で引き返し、外周の観測塔へ戻る。戻る道は、来た道より短い。緊張の分だけ、足が覚えている。

 塔の基部で、司馬教官が印板を受け取った。

「報告」

 四人が順に口を開く。湿地の波紋、影の逆位相、音のない鈴、そして――根の門。

 ノエルは“冷たい香り”の矛盾を言葉にする。

「温度は下がっていないのに、肺の奥だけが冬になる。外気の温度は一定で、皮膚感覚も変わらないのに、内側が“冷える感覚”です」

「擬似温度。匂いによる内臓感覚の誤誘導」

 研究局の助手がメモに打ち込む。

 司馬教官は短く頷いた。

「撤退判断、早かった。特に“閉じさせる撤退”は評価に値する。――続けて詰めろ。『逃げながら勝つ』のが本当の勝ちだ」


 ノエルは小さく息を吐いた。緊張は抜けないが、脚に血が戻る。

 ローザは鞘を握り、言う。

「明日も“下”を見る。基礎石の裏側になりうる場所を先に潰す」

「了解!」



◆帰還の海、揺り返し


 結界船が桟橋を離れ、海が一日の光を少しずつ解いていく。

 甲板に立つと潮風が冷たく、昼の“内側の冬”を外側の冷気で上書きしていく。上書きできる寒さは、優しい。

「俺、正直、足震えた」

 陽翔が笑い、手すりに額をのせる。

「震えるのは“倒れないため”だよ」

 エリナが答え、ノエルは頷く。

「震えてるって分かってると、戻れるんだね」

「分からない震えが危ない」

 ローザは簡潔に言ってから、海面を見た。

 波の光は、門ではない。

 門ではない光を、門じゃないと確かめられることが、今はただ嬉しかった。



◆中央棟の夜:分析と針


 学院に戻ると、研究局の仮の分析室で追加ヒアリングがあった。

 白衣の助手が硝子板に図を投影し、ノエルたちの証言と護衛の記録を合わせて“門の開口角”と“匂いの圧”のグラフを作る。

「ここ。三度まで開いた。普通なら四度で“吸気”が始まるが、今回は三度で後退」

 司馬教官が図を指で弾き、ノエルに視線を送る。

「藤咲。“ゼロ点”の手応えは」

「終端で“落ちる”というより、“戻る”感覚です。落とすと、残り香が反発する。戻ると、残り香がついてくるのを切れる」

「よろしい。言葉が身体になっている」


 短い沈黙。

「君たちは今夜、温室に近づくな。封緘は強化するが、強化は“隙”でもある」

「“線”が太ると、外は薄いところを探す」

 エリナが小さく補って、司馬教官は目で“正解”と告げた。

「明日も通常授業。夜は休め。――眠ることも訓練だ」



◆寮の食堂、熱の帰る場所


 夜の食堂。鍋のスープが湯気を上げ、パンの皮が割れて香りが広がる。

 陽翔は二皿目を前に「これは燃料」と宣言し、エリナは笑顔の横で「燃えすぎると眠れない」と釘を刺す。

 ノエルはペンダントの銀を指で押し、いつもの冷たさを確認した。

 ローザが短く言う。

「今日の“怖さ”は覚えておけ。明日は同じ場所にいない」

「うん。……ありがとう」

「礼は要らない。勝つため」


 食べる音は生活の音で、境界の外からは来ない。

 だから、安心して噛める。

 だから、花の匂いの話を、ここではしなくていい。



◆消灯前:手の温度


 寮の廊下で、四人はそれぞれの部屋の前で立ち止まった。

「明日は“撤退合図”のバリエーションも確認しておこう。音が消える可能性がある」

 エリナが提案し、陽翔が「合図の手」を出す。

 ノエルも手を出し、ローザが最後に重ねる。掌の温度が互いの脈に合う。

「“今”」

 四人の小さな声が重なった。

 手を離し、扉が閉じる。

 廊下のきしみは、今日は鳴らない。

 鳴らないことが、こんなに嬉しいとは思わなかった。



◆夜半:封緘の呼吸、島の呼吸


 温室では封緘の線が太くなり、呼吸が深くなる。

 黒い糸は焦らない。焦りは香りを飛ばす。

 “線”が強くなればなるほど、線の外の“薄いところ”の相対差は大きい。

 糸は基礎石の裏、石と石の境目、目地の砂の間に、さらに薄い皮を塗った。

 門は、開かない。

 だが、門であることを止めない。

 蝶番は滑らかだ。

 島は大きく息を吸い、ゆっくり吐いた。

 封緘の息と島の息が、一瞬だけ同じ拍になった。



◆夢――誰でもない声


 ノエルは眠っていた。

 夢の中で、温室の通路を歩く。扉には触れない。触れずに、二拍で薄くし、ゼロ点へ戻す。

 白百合が首を傾げる。黒い点は動かない。

 ――動かないはずなのに、視界の端で何かが“こちらへ”ではなく“向こうへ”動く。

 囁き声。

 聞いたことのない声。だが、どこか知っている声。

 (こっちは、庭じゃない)

 ノエルは夢の中で呟き、胸の合図を叩く。

 “今”。

 花弁は友情の側へ触れ、ゼロ点で戻る。

 囁きは遠のき、白は白のまま残った。



◆暁前:体の中の朝


 目覚ましの前、潮の匂いで目が覚める。

 胸の鼓動は“いつもの場所”にいる。

 ノエルは起き上がり、ペンダントに触れてから、二拍で薄く、一拍半で戻した。

(行ける)

 鏡に向かって襟を整え、髪を留める。

 ロフトから飛び降りる音。陽翔だ。

「おはよ! 今日は“ごはん→勝つ→ごはん→寝る”!」

「詰め込みすぎ」

 エリナが笑い、ローザが短く「食べろ」と言う。

 四人は藤棚を抜け、港へ向かった。藤の房は露を抱え、朝の光が滴の中に小さな虹を作る。

 虹は門ではない。

 門ではないものを“門じゃない”と確認しながら、彼らは桟橋を踏んだ。



◆二度目の二層目


 船が森の縁へ滑り込む。

 外周観測塔を拠点に、再び二層目の道へ。

 陽翔の輪は一重固定、二歩先行。エリナの錯視は“一拍で出して一拍で切る”。ローザは撤退からの再構築を十一歩で回す。ノエルは二拍の終端ゼロ点を“広く深く”。

 最初の段差は、昨日よりも静かだった。

 湿地の波紋も、影の逆位相も、“起きなかった”。

 ――起きないことは、起きないこと自体が兆候だ。

 森が“合わせてきている”。

 四人は合図を短く、呼吸は浅く、歩幅は小さく。

 “下”を見る。

 “下”が門にならないうちに、先を打つ。


 観測塔の外周に戻ったとき、塔の足元、石の目地が“わずかに”黒ずんで見えた。

 昨日、糸が顔を出した場所。

 今日は――顔を出していない。

 けれど、薄皮の重ねは確かに増えていた。目で見えるか見えないか、その境界線の上で。

 ノエルは胸の奥で合図を叩く。

 “今”。

 二拍。戻る。

 香りは、追わない。

 仲間の肩に花弁が触れ、すぐ離れる。

 目地の黒は、石の黒に戻る。

 それだけのことが、今日はとても難しく、そして、とても尊かった。



◆塔の上で、次の距離を測る


 螺旋階段を上り、外周の小さな展望台に出る。

 森の天蓋が、押し寄せる波のように見える。遠くの梢の向こうに、さらに濃い影。

 司馬教官が短く言う。

「“門”は今日、開かなかった。だが、蝶番は昨日より滑らかだ。――覚えておけ。『閉じさせる力』を鍛えること。『開かせない距離感』を保つこと」

 ローザが頷き、陽翔が拳を握り、エリナがノートに二本の線を引く。

 ノエルはペンダントを指で押し、胸の中で最後の合図を置いた。

 “今”。

 二拍で薄く、一拍半で戻す。

 香りは追わない。

 ――それでも、花は咲く。こちらの側で。


 四人は、森の奥を見た。

 今日踏み込むべき距離は、ここまでだ。

 明日は、もう一歩。

 そのための呼吸を、今、身体に置いて帰る。

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