第9話 学院に走る影 後編
◆薄明の前、封緘の下で
巡回の足音が二度、石畳の曲がり角で遠ざかった。
温室のガラスは海より暗く、封緘の符は四隅で規則正しく点滅する。昨夜より間隔は詰められ、揺らぎは小さい。――それでも、揺らぎは揺らぎだ。
黒い糸は“下”を選んだ。
白百合の鉢から伸びた細い香りの薄皮が、基礎石の裏へ回り込み、石の角をなぞって僅かな弧を描く。温度は変えない。音も立てない。ただ“在る”。
“在る”という事実だけが、境界に小さな蝶番を作る。門はまだ開かない。けれど、油は差された。
白百合は眠っているのに、夢だけが目を開けていた。
⸻
◆夢の残り香
ノエルは、鐘が鳴る少し前に目を覚ました。
夢を見ていた。温室の通路を歩いているのに、足音が自分のものではない夢。振り返ると誰もいない。けれど、白百合の列の中で黒い点が“こちらではない方”へ動くのが見えた。――動いた、気がした。
ペンダントを胸に当て、二拍で薄く、一拍半で戻す。
香りは、追わない。
窓の外は藍色で、温室の屋根の三角が、ただの三角に見えた。
(大丈夫)
言い切ると、心の中の空洞は少しだけ小さくなる。
髪をピンで留め、襟を整え、廊下に出る。
陽翔がロフトから飛び降りそうな勢いで顔を出した。
「おはよ! 今日は“ごはん→報告書→ごはん”でいく!」
「ごはん二回になってる」
「緊張すると腹減る!」
「分かる」
エリナはノートを抱え、ページの端に小さく〈夜間封緘:滲み検出なし/閾値内〉と書いていた。
階段の踊り場で、港から戻ったローザとすれ違う。汗を拭い、短く言う。
「地面は今日も“味方”。――行く」
⸻
◆講義と針の言葉
一限「基礎花術」。ミスティ教官は黒板に短い言葉だけを書いた。
“遠ざかる優しさ、近づく冷たさ”
振り返ると、教官の視線は教室全体を撫でた。
「境界は“距離”で制御できる。どれだけ上手く優しく離れ、どれだけ確実に冷たく切るか。――それを身体で覚えて」
ノエルは胸の内で合図を唱え、二拍で薄く、戻す。
陽翔は机の下で踵を一度トンと打ち、呼吸を揃えた。
エリナは“優しく離す”に二重線を引き、“冷たく切る”の横に小さく“ゼロ点”と書く。
ローザは前を見たまま頷き、瞳の奥に低い熱を灯した。
休み時間、研究局からの伝達。
――温室封鎖、継続。封緘の再刻印を本日夜半に実施。
――生徒は夕刻以降、温室周辺立入禁止。
最後の行だけ太字で、紙に圧の跡が残っている。
⸻
◆正午の小さな異変
昼。窓際の席に四人が並ぶ。
「匂いの偏り、今朝は検出なし」
エリナが小声で言う。
「“今朝は”、だ」
ローザが薄く重ね、スープの表面を一度だけ揺らす。
「追従輪、段差でも遅れない!」
陽翔が胸を張る。
「上出来」
ローザは素直に頷いた。
ノエルはパンを割り、内側の柔らかさを指で確かめてから口に運ぶ。噛むたび、内側の温かい香りが広がり、境界の内側に戻ってくる。
そのとき。
遠くのテーブルで下級生が一人、椅子の上でふらりと傾いた。
「……っ」
銀のスプーンが落ちる音。
ノエルの身体は先に立っていた。
「陽翔!」
「任せて!」
光輪が足元に薄く広がり、床の冷えと匂いの揺らぎを遮断する。
ノエルは肩口に花弁をひとひら触れさせ、二拍目の終わりで“友情の側”だけを渡して回収。
エリナは脈を取り、瞳孔を確認し、頷く。
「過呼吸前、軽い立ちくらみ。匂い過感受性の可能性」
ローザが食堂係へ目配せし、水と砂糖を頼む。
「……大丈夫……です」
焦点が戻る。
「深呼吸は控えて。――香りが強い日は特に」
ノエルが言うと、下級生は小さく頷いた。
席に戻ると、ローザが短く言った。
「よくやった。だが、これを“日常”にしない」
「うん。……知らなくていい平穏は、守りたい」
「守る」
⸻
◆追加ヒアリングと告知
午後、研究局の小会議室。薄い硝子板に香り分布の図が浮かぶ。
「白百合列の右端、基礎石の裏に“匂いの圧”。主観は?」
白衣の助手。
「温度は下がらないのに“冷えている”矛盾。香りで起きる薄皮――膜の感触」
ノエルは言葉を探し、置く。
「光輪の追従で“点”は抑え込める。線や面になる前に」
陽翔。
「撤退からの再構築、十五歩→十三歩。成功率八割」
ローザ。
「錯視は“段差の延長”。有効長は三歩ぶん」
エリナ。
司馬教官が締める。
「よろしい。――週末、演習地は結界林“二層目”。護衛増員。撤退判断を早めろ」
息を呑む気配が、部屋の空気に浅い皺を作った。
ノエルはペンダントを指で押し、二拍で薄く、一拍半で戻す。
香りは追わない。
合図は、呼吸になっていた。
⸻
◆夕練:基礎石を見る
校庭の隅、芝の段差と石の縁で即席の“基礎石”を作る。
陽翔が追従輪を薄く敷き、エリナが視線の線を段差に沿って延ばす。
ローザが剣で“門になりやすい位置”を仮定し、ノエルは二拍で薄くして、心の中の“香りの薄皮”だけを剥がすイメージを強める。
「ゼロ点」
「今」
囁きとともに、花弁は友情の側に触れてすぐ離れた。
門は、門であり続けない。段差は、ただの段差に戻る。
十三歩→十二歩→十一歩。成功率は数字として上がり、実感としては“迷いが減る”。
「今日はここまで」
ローザが剣を納める。
「今夜、封緘の再刻印。――近づかない」
「了解!」
⸻
◆再刻印の夜
正式班が封緘の線をなぞり直す。四隅の符が一つずつ新しい息を得て、呼吸は深く、ゆっくりになる。
それでも、基礎石の裏は“裏”だった。
黒い糸は新しい線を“覚え”、避ける。
避ければ、線の外の“薄いところ”の相対差が大きくなる。
そこに薄皮を塗り、重ねる。
白百合の夢は白い。だが、白の中央に黒点が一つ、二つ。――数える意味はない。意味がないから、増やせる。
封緘の符が、ごく僅かに――本当に僅かに――音を外した。
誰もその“外し”を聞き分けない。
ただ、温室の空気だけが、一度だけ深く息をした。
⸻
◆寮の夜と“今”
シャワーのあと、ノエルは髪を半分だけ乾かし、ベッドに潜る。
廊下のきしみが一拍、遅れて鳴った。昨日と同じ音。
起き上がりかけて、胸の中で合図をひとつ。
“今”。
二拍で薄く、一拍半で戻す。
香りは、追わない。
心の真ん中に“ゼロ点”を置くと、眠りは自然にやって来た。
⸻
◆夜半の囁き、二度目
夢。
温室の通路。
封緘の線は明るく、黒い糸は暗い。
囁き声。聞いたことのない声。なのに、知っている響き。
言葉は拾えない。ただ、方向だけが分かる。
“下”。
基礎石の裏。
ノエルは胸の中で“今”と唱え、花弁を友情の側へ切り替え、仲間の名を心の中で順に呼んだ。
ローザ。
陽翔。
エリナ。
囁きは遠のき、白百合は首を傾げ、黒い点は静止する。
そこで目が覚めた。
暗い。潮の音。心臓はいつもの場所にいる。
(……明日は“下”を、もっと見る)
⸻
◆演習告知、正式決定
朝の鐘。講堂に短く集合。
――週末、結界林“二層目”へ。拠点は外周観測塔。
――目的は「境界の見分け方」と「撤退→再構築」の実地訓練。
――評価は“判断速度”と“安定度”。
――各組、持ち場と役割の再確認を。
ざわめき。誰かが息を呑む。
ノエルは拳を握り、ペンダントを押す。
二拍で薄く、一拍半で戻す。
香りは追わない。
合図はもう、息と同じ。
廊下でローザが言う。
「“下”を見る。――今日はそれを前提に全体を組む」
「了解!」
陽翔が跳ねる。
「錯視は“段差の延長”。輪は“段差の埋め”。ノエルは“ゼロ点”で薄皮を剥ぐ」
エリナが箇条書きにして頷いた。
「やる」
⸻
◆準備:各自の一点突破
午前は座学、午後は各自の補強に充てられた。
陽翔は追従輪の持続を計測し、二重化の誘惑を断ち続ける練習をした。「今は一重が効く」と身体に教えるためだ。
エリナは錯視の持続時間を“短く正確に”へ調整。長く保つより、一拍で効かせて一拍で切る――“刃物の錯視”を身につける。
ローザは撤退からの再構築を十一歩まで詰め、最後の三歩で剣先の揺れを消した。
ノエルは二拍の終端“ゼロ点”を広く、深く、確かにする。香りに寄るルートを胸骨の裏で折りたたみ、友情の側だけを通す。合図は――“今”。
四人は途中で何度か視線を交わすだけで、言葉を要らなかった。
言葉がなくても繋がる――それは、言葉を何度も尽くしてきた結果だ。
⸻
◆夕暮れ、藤棚の下で
夕暮れ。藤棚の房が風に鳴り、影が石畳に揺れる。
短いミーティング。
「明日は荷を軽く。撤退の道を最初に決める」
ローザ。
「俺は一重固定。歩行追従を“前へ二歩分先行”に」
陽翔。
「錯視は“段差の延長”。足を“落とさせる”方向」
エリナ。
「私は……二拍で薄く、友情の側だけ。――香りは追わない」
ノエル。
四人の言葉は輪になり、輪は藤の蔓に似て、固く、しなやかに結ばれた。
⸻
◆前夜:静かに整える
食堂で軽い夕食。揚げ物は避け、温かいスープとパン。
ノエルはペンダントの銀を指でなぞり、冷たさがいつも通りであることを確かめる。
陽翔は皿を拭う勢いで完食し、「俺は眠れる!」と宣言してあくびをした。
エリナはメモを閉じ、眼鏡を外して目頭を押さえる。
ローザは水を飲み、短く言った。
「各自、十分に寝る。――眠ることも訓練」
寮へ戻る廊下のきしみは、今日は鳴らなかった。
それでもノエルは胸の中で合図をひとつ。
“今”。
二拍で薄く、一拍半で戻す。
香りは追わない。
眠りは深く、合図は夢にも届く。
⸻
◆夜半:封緘の息、島の息
温室の封緘は再刻印を終え、呼吸はゆったりとしている。
黒い糸は、もはや焦らない。
薄皮の重ねは十分だ。
蝶番は滑らかだ。
門は――まだ、開かない。
だが、門である。
島は大きく息を吸い、ゆっくり吐いた。
その呼吸と封緘の呼吸が、一瞬だけ、同じ拍になった。
⸻
◆夜明け前の合図
目覚ましの前、潮の匂い。
ノエルは静かに目を開け、起き上がる。
ペンダントに触れ、胸の中で合図をひとつ。
“今”。
二拍で薄く、一拍半で戻す。
(行ける)
ロフトから飛び出す陽翔。
「おはよ! 俺、今日は“ごはん→勝つ→ごはん”!」
「勝つ、挟まった」
「挟むと忘れない!」
エリナが「科学的根拠はない」と言いながら笑い、ローザが「食べろ」と短く言う。
四人は藤棚を抜け、港へ向かった。藤の房は朝露を抱え、滴が石畳に小さな丸を作る。その丸は踏まれて伸び、また丸に戻る。日常の音だ。
日常の音を背に、四人は結界船へ乗り込む。
⸻
◆結界林二層目へ
船が静かに離岸する。
結界膜は朝の光で薄く虹を返し、森の奥――二層目は、まだ形を見せない。
ノエルは欄干に指を置き、年輪の時間で息を整える。
ローザが隣で言う。
「撤退は怯えじゃない。判断だ」
「うん」
陽翔が輪を掌で回し、エリナがノートの端に〈出発時脈拍〉を書き込む。
船は森の縁へ滑り込み、桟橋に寄せられた。
護衛班の上級生が短く告げる。
「目的地は二層目外周の観測塔。道中、“下”を警戒。――撤退合図の確認」
「薔薇、空」
ローザ。
「光輪、断」
陽翔。
「了解」
ノエルとエリナ。
結界の中へ、足を入れる。
⸻
◆境界を見る
森の空気は一層濃く、土の甘さに樹脂のほろ苦さがまじる。
最初の段差。基礎石のように硬い根が道を横切っている。
「下」
ローザの声。
陽翔の追従輪が根の手前で薄く広がり、エリナの錯視が“段差の延長”を一拍だけ描く。足が落ちるべき地点を“先送り”にする錯視だ。
ノエルは二拍で薄く、友情の側だけを肩へ触れ、ゼロ点で薄皮を剥ぐ。
根はただの根に戻る。
四人の足音は揃い、息は短く、視線は交わる。
進む。
止まる。
見る。
“下”を。
“下”の“門になりかけ”を。
門は、門であり続けない。
その繰り返しの中で、ノエルの胸の合図は呼吸に溶け、二拍は鼓動に溶け、香りは遠ざかったままだった。
⸻
◆観測塔の影、そして――
外周の観測塔が見えた。石の螺旋。朝の光が梯子段の影を作る。
護衛が手を挙げる。
「拠点確保。ここから内側へ“見る”」
四人は互いを見る。
ローザが言う。
「撤退は、武器」
陽翔が言う。
「穴の位置は、見える」
エリナが言う。
「錯視は、一拍で切る」
ノエルが言う。
「香りは、追わない」
――その時だった。
観測塔の足元、石の継ぎ目。
黒い糸が、細く、短く、顔を出した。
“下”から。
まるで「見つけられるために」顔を出したみたいに。
四人の視線が一点に集まる。
陽翔の輪が、音もなく滑る。
エリナの線が、一拍だけ落差を作る。
ローザの剣が、灯を置く。
ノエルの花弁が、友情の側だけを触れて、すぐ離す。
――黒い糸は、そこで初めて“遅れた”。
遅れは隙で、隙は刃。
灯が短く強く、糸は弾ける。
香りは、来ない。
香りは、追わせない。
護衛の上級生が短く息を吐いた。
「いい目だ。いい“下”の見方だ」
ノエルはペンダントを押し、胸の内で合図をひとつ。
“今”。
二拍で薄く、一拍半で戻す。
(行ける)
森はまだ奥を隠している。
けれど今は、門は門であり続けない。
蝶番にどれだけ油が差されていても、開かないように。
四人は、観測塔の影から奥を見た。
――次に踏み込むべき距離を測るために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます