第8話 学院に走る影 前編

 朝の鐘が一度鳴って、二度目の響きが海霧の上でほどけるころには、島全体がざわめいていた。

 温室が昨夜、正式調査班の封鎖下に置かれた――という情報は、誰が言い出したとも知れないまま、寮の廊下、食堂、渡り廊下、どこにでも泡のように浮かんでは弾けた。泡は「黒百合」という単語を決して口にしない。けれど誰もが、その形をそのまま指でなぞるみたいに、曖昧な言葉で同じ方向を見ていた。


 ノエルはスープの湯気のむこうで、そのざわめきが自分の鼓動に似ていることに気づいていた。速すぎず、遅すぎず、ただ“落ち着かない”。

「どうするつもりなんだろ、研究局」

 陽翔がパンの耳をちぎり、口に放り込みながら言う。

「表向きは『問題なし』にする」

 ローザは迷いなく断言した。紅の瞳の奥で、火は低く整っている。

「実際は調査継続。――だからこそ、私たちは通常通りに“強く”」

「私は香り分布の記録を取り直す。昨日と今朝で、微妙に偏り方が違う」

 エリナはナイフでハーブの葉脈をなぞるように鶏肉を切り分け、手帳に“百合:局所強度+0.1”と書き足した。

 ノエルはペンダントを親指で撫でる。銀の輪は今日も正しく冷たい。冷たさは、心の輪郭を整える道具だ。


 中央講堂に招集の鐘が鳴った。



 講堂の天井は船底を逆さにしたような木組みで、音はそこで一度丸くなってから下界へ降りてくる。壇上には司馬教官と、灰衣の学匠――研究局責任者。

「昨夜、温室において小規模な異常が観測された」

 学匠の声は乾いていて、紙のめくれのように軽い。

「封鎖・調整により安全は確保された。大規模な危険はない。通常授業は続行する」


 安堵の波が、座席の列を低く撫でた。だが、次の一文が波を反転させる。

「週末に予定していた校外演習は、予定通り実施。ただし、場所を変更する。――結界林の“奥”」

 空気の温度が一度下がる。

 ノエルの胸の真ん中で、夢の残り――白百合のわずかな頷き――がふっと影を濃くした。


「理由は?」

 誰かが小声で漏らす。

「奥の観測塔周辺で、微弱な揺らぎが継続している。実地で“境界の見分け方”を学ばせる必要がある」

 司馬教官は淡々と続ける。

「上位班・護衛班を増員する。撤退は恥ではない。むしろ評価対象とする。――以上」


 短い報告は短いまま終わり、人いきれが一斉に動き出す。靴音、鞄の金具、ささやき。

 ノエルは立ち上がらず、椅子の背に指を置いた。木の感触は海を渡ってきた年輪の時間を含み、落ち着け、と無言で言う。

(奥へ行く。なら――)

 視界の端で、ローザがこちらも見ずに頷いた。

「やるしかない」



 鐘三つ目の後、授業棟の窓の光が少し傾いた。四人は人波から外れて、藤棚裏の小道に入る。

「俺、光輪の薄層を“歩かせる”練習を追加する」

 陽翔が拳を握る。

「歩かせる?」

「輪っかを固定じゃなく、味方の足の下で“追従”させる。地面の罠や影の糸を踏むとき、ワンクッションになるはず」

「理屈は通る。消費は?」

「持久は落ちる。だからノエルの二拍と同期させたい」

「同期の許容誤差は〇・二拍まで」

 エリナが即答し、ノートに“歩行追従:位相=ノエル±0.2”と記す。

 ローザは短く言う。

「私は“薔薇、空”からの再構築時間を縮める。今の二十歩を十五歩に」

「体力、持つ?」

「持たせる。――藤咲」

「私は……“香りを切る”練習。二拍のうち、どこまでを友情にして、どこからを無香にするか、もっと繊細に」


 言葉が決意の形になった瞬間、四人の間の空気は少し軽くなる。

「放課後、校庭の端。――まずはそこから」

 ローザが締め、視線で散会した。



 午前の「基礎花術」の教室。黒板にチョークが走り、ミスティ教官が小さく笑う。

「“香りは境界の言語”。きょうの一言はこれね。――言語は距離と文法を必要とする。距離を詰めすぎると言語は“呪い”に変わる」

 視線がノエルの肩口をかすめ、窓の外の温室へ落ちる。偶然かもしれない。けれど、偶然は“使える”。

 ノエルは胸の内で“今”と唱え、二拍で薄くし、戻す。香りは追わない。合図は、何度でも使える呪文だ。

 隣でエリナが小声でささやく。

「脈拍、落ち着いてる」

「うん。ありがとう」

 その言葉だけで、さらに落ち着く。



 昼。食堂の香草焼きは、今日も“人の手”の香りで、境界を内側に調律してくれる。

「午後、研究局は温室の封緘を強化するって」

 陽翔が耳にした噂を持ってくる。

「噂は情報ではない」

 エリナが一刀両断、だがメモは取る。

「でも、放課後に練習するのは事実」

 ノエルが笑って、パンを割く。内側の柔らかさは、外側の焼き目と良い対照だ。

 ローザはスープを飲み干し、短く言った。

「“強くなる”は、だいたい具体だ。――行動の個数を増やす、時間を縮める、誤差を小さくする。今日やるのは、それ」


 四人のフォークが皿を叩く音が、合図みたいに揃った。



 放課後。

 校庭の端、藤棚と石塀のあいだにある芝のポケットは、風がほどよく抜け、練習には向いている。

「陽翔、追従輪の初期化」

「いくよ!」

 金の輪が足元に薄く展開し、歩幅に合わせて遅れなく滑る。輪の外縁が芝の先端を撫で、濡れ色に光る。

「ノエル、二拍」

「今」

 ライラックの花弁は、香りではなく“友情”の側へ最大化。二拍目の終わりで完全回収。

「位相差〇・一八。許容内」

 エリナが測り、ローザが刃を抜く。

「“薔薇、空”から十五歩で再構築。――始め」


 紅い薔薇が空に一輪。四人は反射で解散し、十五――十四――十三――、呼吸を整える。ノエルは二拍で薄くし、身体の中央で“香りのレバー”をゼロに戻すイメージを強める。

「再構築」

 ローザの声。位置取り。光輪、最薄。幻影、視線線。花弁、肩。

 ――今度は十三歩で整った。

「やれる」

 陽翔の笑顔は汗で少し滲んでいる。

「もう一回」

 ローザが即答し、繰り返す。

 刻む、短く。

 誤差を、削る。

 言葉より、動き。

 夕陽が角度を変え、芝の影が長くなる。


 十数セット目。ノエルのこめかみがじくりと痛む。二拍の反復は、思った以上に“境界の筋肉”を使う。

(でも、ここを鍛えないと)

「ラスト二回」

 ローザの声で、最後の二つの合図が空へ咲いた。



 汗を拭き、寮へ戻る道すがら、四人は温室の前で立ち止まった。封緘の透明な膜がガラスの縁を細く縁取り、夕闇を鈍く反射している。

「香り、落ち着いてる」

 ノエルは二拍で薄くして確認し、すぐ戻した。

「正式班が張ってる。今夜は任せる」

 ローザが踵を返す。

「帰ったら、報告書と風呂とごはん!」

「順番」

「ごはん→風呂→報告書!」

「正解」


 笑いながら、灯りのつき始めた寮へ歩く。藤棚の影は夜を先取りし、花の房は風に小さく鳴った。



 夜。

 正式班の巡回は正確で、封緘の符は整っていた。

 ――だからこそ、ほつれは見えにくい。


 温室の西側、基礎石とガラスの継ぎ目。

 見えないほど細い黒い糸が、昨夜からそこに“待って”いた。

 焦らない。焦りは香りを飛ばす。

 ただ、待つ。

 人の匂いが十分に薄くなるまで。

 花の匂いだけが濃くなるまで。


 糸は、花粉の粒と粒の隙間へ身体を延ばす。

 “触れる”のではない。

 “香りでなぞる”。

 百合の夢は白い。そこへ、黒の点がひとつ落ちる。


 その変化は、いまのところ、誰にも見えない。


 夜の一番深い色が温室のガラスに落ちて、そこだけ海より暗く見えた。

 封緘の符は四隅で淡く点滅し、規則正しい呼吸を示している。巡回の足音が遠ざかると、音は土と葉の吸う気配に置き換わった。


 黒い糸は、そこで初めて身じろぎをした。

 百合の花粉は乾いていて、舌のない舌にざらりとした甘みを残す。糸は花粉の粒の影を連ね、小さな“巣”のような結び目を作る。結び目は香りを溜め、匂いの圧を上げる。――圧は、境界を薄くする。


 白百合がわずかに首を傾げた。

 眠っているのに、夢だけが目を開けるみたいな動きだった。



 同じころ、藤寮二階。

 ノエルは机に向かい、報告書の欄を一つずつ埋めていた。字は丁寧すぎない程度に整い、行は揃う。

 「香りの結び目、鉢中央部の節。焼灼により一時的沈静。――二拍の負荷:終盤にこめかみ痛。自覚的に境界“香りレバー”を0へ戻す意識で軽減」

 そこまで書いて、ペン先を止める。

 窓の外の海は見えないが、潮の音は近い。胸の拍動とずれることはない。

(大丈夫。今日は封緘がある)


 陽翔がノックもそこそこに入ってきた。

「ノエル! カステラの切れ端、厨房の人がくれた!」

 皿の上で黄金色の欠片がきらきらしている。

「やった。半分こ」

「四分の一でいい。残りはローザとエリナに」

「やさしい」

「俺、やさしいからね!」

「自分で言った」


 二人で笑っていると、廊下から規則正しい足音。

 扉が小さく叩かれ、ローザが顔を出した。

「巡回の時間。封緘は正常。――眠れ」

「うん。お疲れさま」

 ローザは頷き、去り際に一瞬だけノエルの手首へ視線を落とした。昨日の赤みはもうほとんど消えている。

「“触れない”は、心で続ける」

「分かってる」


 エリナからはメモが差し込まれた。

〈睡眠前の脈拍、今夜は+2。正常範囲だが、明朝に疲労残りチェック〉

 小さな字。だが、その小ささが安心を連れてくる。

 ノエルはベッドに入る前にペンダントを胸に当て、二拍で薄くし、戻す。いつもの儀式。

 灯りを落とす。

 眠りは静かで、深いはずだった。



 温室。

 黒い糸は結び目を増やした。

 ひとつ、ふたつ、みっつ――数える意味はない。意味がないから、増やせる。

 糸は白百合だけでなく、隣の鉢へも細く触れ、香りを“味見”する。藤は強い。薔薇は棘の香りで拒む。向日葵は光に似ていて、夜は薄い。

 糸は“夜の薄さ”を選んだ。

 白百合へ戻る。

 細胞のあいだの水に、香りだけで冷たさを足す。温度は一度も下げない。ただ、下がった気配だけを置く。気配は、時に温度と同じ結果を持つ。


 封緘の符が微かに滲んだ。

 滲みはすぐに戻った。

 だが“滲んだ”という事実は、そこに残る。



 ノエルは薄明の少し前に目を覚ました。

 夢を見た気がするのに、内容だけが霧のように手から零れていく。ペンダントはいつもの冷たさで、皮膚に丸い跡を残していた。

 窓の外はまだ藍色。カーテンを少し開けると、温室の屋根が暗がりの中に三角の影を置いている。

(……静か)

 胸の中の合図を一度。二拍で薄く、戻す。

 とくに引っかかりはない。

「よし」


 顔を洗い、制服を整え、髪をピンで留める。鏡の中の自分の目が、昨日より迷いが少ないのを確認して、部屋を出た。

 廊下で陽翔と鉢合わせ。

「おはよ! 今日こそ“報告書→朝ごはん”で勝つ!」

「すでにごはんの顔してる」

「バレた?」

「バレてる」


 階段でエリナが合流。

「温室前、封緘は正常。匂いの偏り、今のところ検出なし」

「ローザは?」

「先に港まで走ってる。体の“地面の時間”を合わせるって」

「ローザらしい」



 朝練は短く、呼吸合わせのみ。

 陽翔の追従輪は昨日よりスムーズで、芝の露を切り取るように足元を滑る。エリナは視線の線をさらに薄くし、ノエルの花弁は“友情の側”だけを触れてすぐ離す。

 ローザが戻って来ると、四人は円になって水を回し飲みした。

「週末まで二日。――今日は昼と夕方の二回、短く詰める」

「了解!」

「了解」

 合図は短い方が、強い。



 午前、研究局棟。

 封緘強化の掲示が貼り出され、注意事項が箇条書きで並ぶ。

 ――温室周辺の通行は必要最小限。

 ――香り感知の訓練を受けていない者は“深呼吸禁止”。

 ――黒い花弁に触れるな。拾うな。嗅ぐな。

 最後の一行は太字で、インクがわずかに滲んでいた。


 廊下の角を曲がると、司馬教官が二人の上級生と低声で話していた。

「……境界の薄い時間を選んで来る。夜半から明け方。――封緘の巡回間隔を三十分から二十五分に詰めろ」

 上級生が頷き、走る足音が去る。

 司馬教官はノエルたちに一瞥をくれ、何も言わずに視線だけで“行け”と告げた。



 座学「花言葉史Ⅲ」。

 ミスティ教官は古い詩を黒板に写す。

“境界に立つ者よ ── 香りは歌に似ている。歌は近すぎれば囁きになり、遠すぎれば風になる”

 チョークの粉が空気の中で小さく踊る。

 ノエルは“近すぎれば”の文字に小さな三角をつけ、“遠すぎれば”に丸を付けた。

(私は“ちょうど”でいたい)

 二拍で薄く、戻す。

 その“ちょうど”を筋肉にするために。



 昼。

 食堂の窓際で、四人はいつもの席に座った。

「午後は、研究局からの追加ヒアリングがある。祠と温室の関連について」

 エリナがスープを冷ましてから言う。

「俺、光輪の“歩行追従”の記録も見せるね。床の影、けっこう相殺できてるはず」

「私は“薔薇、空”からの再構築タイム。十三歩で安定」

「私は……二拍の終わりを“ゼロ”にする練習。朝のセットでは成功率八割」

「上々。けれど、成功率に酔うな。数字は酒になる」

 ローザがパンを割りながら言って、四分の一をノエルの皿に置く。

「糖は力だ。食べろ」

「ありがとう」


 噛む。

 甘さは、境界の内側の味だ。

 ノエルは胸の真ん中で、小さく頷いた。



 午後の追加ヒアリング。

 研究局の小部屋で、白衣の助手が矢継ぎ早に質問を撃ってくる。

「黒い糸の“匂いの質感”を言葉で」「温度の錯覚は」「足場錯覚の有効長は」「藤咲さん、二拍のとき“耳鳴り”は?」

「ありません。代わりに、香りが“遠のく”感覚があります」

「遠のく?」

「懐かしさの水面が、砂をこぼすみたいに、”ざざっ”と……」

「擬音、いいですね。記録しておきます」


 矢面に立つのは嫌ではない。言葉にすることで、自分の中の輪郭が濃くなる。

 終盤、司馬教官が部屋に入り、短く尋ねた。

「今夜は、眠れるか」

 問われて初めて、ノエルは一拍だけ考えた。

「眠れます。――眠ります」

「よろしい」



 夕練は短く、鋭く。

 “撤退→再構築”を三本、全力。

 陽翔の追従輪はついに“段差のある芝”でも遅れなく滑り、エリナの線はほとんど無色透明。ローザの剣は抜いた位置に戻るときの揺れが消え、ノエルの二拍は終端がすっと“ゼロ”に落ちた。

「今日、いい」

 ローザが珍しく短く褒めた。

「やった!」

 陽翔が飛び跳ね、すべって転びかけ、追従輪に助けられて照れる。

「記録、完了。成功率:八一〜八四%」

「上出来。――風呂。飯。寝る」


 四人は笑いながら寮へ向かった。

 温室の前を通る。封緘は静かで、透明で、つよい。

 ノエルは二拍で薄くし、戻す。

(静か……大丈夫)

 そう思った、その“安心”を、胸の奥で一度畳んでしまう。

 畳んで、しまって、歩く。



 夜。

 正式班の巡回は二十五分間隔に詰められ、足音が以前より少しだけ多く夜道を刻んだ。

 温室のガラスは、外から見れば静謐の塊だ。

 中から見ても、静謐の塊だ。

 ――静謐に見えるものほど、変化は底で進む。


 黒い糸は“下”を選んだ。

 床の基礎石、その隙間。

 人の目は上を警戒する。だから、下。

 糸は花粉の結び目から、鉢の排水穴へ細く伸び、石の裏側に香りの薄皮を塗った。

 塗るだけ。温度は変えない。音も出さない。

 だが、薄皮は薄い膜になり、膜は、膜であるというだけで“境界”になる。

 境界は、たまに、門になる。


 封緘符がまた、ほんのわずかに滲んだ。

 滲みはすぐ戻った。

 けれど、“二度目”は一度目より、誰かに気づかれやすい。

 巡回の上級生が一瞬だけ足を止め、首を傾げ、そして歩いた。


 糸は、焦らない。

 焦りは、香りを飛ばすから。

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