第13話 内層の門
◆朝一番の掲示、淡い青の線
鐘が三つ鳴る少し前、研究局の掲示板に新しい紙が貼られた。
黒い封緘印の中央に、一本だけ淡い青の線が引かれている。墨ではない。光の細い糸。文字はそれを跨ぐように浮かんでいた。
『結界林二層目・内層(制御層)への限定入域を許可する。
目的:黒百合因子の根源座標の特定および呼吸位相の測定。
編成:認可班+補助班(研究局直轄)/護衛増員。
手順:五十歩ごとに座標報告。接触禁止。撤退優先。
付記:温室封鎖継続。巡回は二十刻。』
人の流れがふっと止まる。廊下の雑談が上擦りも沈みもしない、硝子みたいな静けさになった。
「内層」という二文字だけが、喉の奥に氷砂糖みたいに残る。溶けない甘さと、微かな痛み。
ノエルは紙に近づいた。淡い青の線が、彼女の瞳の中で細く震えた気がした。
胸のペンダントに触れる。銀は今日も正しく冷たい。
(行く。――戻るために)
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◆研究局の簡易講堂:呼吸を見る図
正午前、研究局の簡易講堂。天井の梁に取り付けられた魔導投影機が、二層目の断面図を宙に重ねる。
森を輪切りにした円、その中心に、心音みたいな黒い波形。
灰衣の学匠が指先を鳴らすと、波形の間隔が目に見えて詰まっていく。
「昨夜から、因子の呼吸が短く、深くなっている」
黒い波形がひとつ沈み、ひとつ浮いた。
「呼吸が変わるのは、応答があるからだ。こちらの封緘、巡回、そして“起きない”を積んだ歩き方。――すべてに森が返事をしている」
ざわめきがうねる。
司馬教官が前へ出た。
「今日の入域は探索であって接触ではない。五十歩ごとに座標と自他の状態を報告。異常はすべて“外に置く”。主観を否定するな、だが主観に居場所を与えるな」
短い沈黙。
「最後に。――これは戦闘であり、同時に交渉だ。距離を見誤るな」
その言葉が、ノエルの肋骨の内側へ静かに刺さった。
(交渉。……母がいつもしていたこと)
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◆出発前:四人の「今」
藤寮の庭。藤棚の房は朝の光を飲み、石畳に小さな丸い虹を落とす。
陽翔がスキップで近づいてきて、急ブレーキで止まった。
「“空白(穴熊)”はゼロ。記録を見ても昨日の俺、普通に面白い」
「面白いは客観に入らない」
エリナが冷静に突っ込み、ノエルは笑った。笑いは胸骨の裏に戻り道を作る。
ローザは剣帯を締め直し、短く言う。
「昨日より怖い」
「うん。でも、昨日より“戻れる”」
四人の手が自然に重なる。
「“今”」
四つの声はひとつになり、合図は四人分の身体に響いた。
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◆結界林・制御層の入り口:音を飲み込む森
結界船が森の内側へ滑り込む。外周で見た緑は、ここでは色相を失い、分厚い層になって耳に触れる。
空は見えない。枝と枝、蔓と蔓が編まれ、頭上の空洞に縫い目ができている。
踏みしめる土は乾いているのに、足音は水の中みたいに低い。
「これが……制御層」
陽翔が囁く。囁きも、森に吸われて近くで響いた。
司馬教官の通信符が静かに震える。
『認可班、五十歩ごとに報告。結界は“薄く、速く”。匂いに寄るな。――始める』
ノエルは胸のペンダントを一度押した。
“今”。二拍で薄く、一拍半で戻す。香りは追わない。
森は答えなかった。かわりに、土の下が答えた。
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◆拍動:地面の下の“心臓”
十五歩。二十。三十。
ノエルの膝裏で、土の微かな拍動が指先に登ってくる。
今と似ていて、今と違う。
一拍遅い。たったそれだけの違いが、全身の皮膚を逆撫でしていく。
「位相がズレてる」
エリナが測定板に細い線を走らせる。
「同調しないで」
ノエルの声より早く、胸の中の誰かが言った。
(合わせるな)
母の声に似て、母ではない響き。
ノエルはうなずき、**“今”**を一度、深く刻む。二拍。戻る。呼吸は私の側にある。
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◆視覚の異常Ⅰ:色のない花畑
四十歩を数えた先で、森が唐突に開けた。
地面一面に“花”。
白でも黒でもない。透明の花弁が、風もないのに光だけで揺れている。
「……咲いてる?」
陽翔が手を伸ばしかけ、エリナに手首を掴まれる。
「触覚まで出るタイプの幻視かもしれない。記憶の花」
「誰の?」
「誰かの。――この森に来て、“残した”人の」
ノエルは一輪を見つめた。透明な花弁の内側に、庭が映る。
石の小道。朝露。白い手。
母が振り返り、今と同じ目でノエルを見た。
ペンダントが胸の骨を叩く。
(これは出迎えだ。行ったら、戻ってこられなくなる)
ノエルは**“今”を置く。二拍。戻す。
透明の花は水蒸気**になって、音もなく消えた。
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◆視覚の異常Ⅱ:道が二重になる
花畑を越えて十歩。
道が二重になった。
同じ石畳が、ほんの肩幅だけズレて、二本並んでいる。
「陽翔、遅刻に注意」
「了解。輪は一重固定、二歩先行」
陽翔の光輪が“右の道”と“左の道”の真ん中に薄く敷かれる。
エリナは一拍だけ**“段差の延長”を出さない訓練に切り替える。
ローザは剣を抜かず、鞘の角度だけを調整し、足の運びで正しい道に重さを返した。
ノエルは友情の側を肩に触れ、ゼロ点で二重のうち片方を“影”に戻す。
視界の左**が紙のように折れて、森の緑に吸い込まれた。
「通る」
ローザの一言で、四人の靴音が一本になった。
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◆五十歩の報告:主観を外に置く
五十歩。
司馬教官への報告。
エリナは「拍動一拍遅れ」「透明花あり」「二重道」を項目で外に置く。
陽翔は「二重衝動=遅刻、出没二回、回避成功」と書き、ノエルは「出迎えの呼びを確認、“今”で解消」と記す。
ローザが最後に短く言う。
「進行可能。――ただし“戻る”を先に置く」
『よろしい。二十歩だけ、内へ』
決して無理はしない。**“勝ったまま帰る”**が合図だ。
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◆空気の層:鳴らない鈴の輪郭
さらに進むと、空気の層が唇の内側みたいに湿った冷たさを持ち始めた。
“鈴”の音が鳴らないのに、耳は鈴の形を探し始める。
「中心、ぶれる」
エリナが言うより先に、陽翔の輪が足裏の中心を身体へ戻す。
ノエルは**“鳴らない音に名前を付けない”を選ぶ。名前は居場所を作る。居場所は門になる。
ローザは半歩遅れて、空気の薄い場所**を体で踏みつぶす。
静けさは静けさに戻り、四人の足音だけが“ここにいる”を刻んだ。
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◆内層の心臓:森の呼吸が近づく
七十歩。
地面の拍動が、脛の骨に直接触れた。
“今”の一拍遅れが、ノエルの背骨を逆撫でする。
合わせたくなる。
合わせた瞬間、香りは追う側に回る。
(合わせない。――戻す)
ノエルは胸で合図を叩き、二拍で薄く、一拍半で戻す。
戻る感覚は、落ちるよりもずっと静かだ。
森は一拍、様子を見るみたいに黙った。
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◆初めての“触れそうな線”
そこに線があった。
黒ではない。色の名前を持たない濃度。
道の端から、石の目地の下へ、糸ではなく筋として潜っていく。
「下」
ローザの声。
陽翔の輪が目地の端に薄く触れ、エリナの線が**“延長しない”を選び、ノエルが友情の側を二拍で肩に巡らせる**。
触れそうで、触れない。
線は“触れに来ない”。
“来ない”は“呼ぶ”の反対だ。
呼ばれないなら、こちらも呼ばない。
四人が同時に肩の力を抜いたとき、線は地面の下に音もなく沈んだ。
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◆共鳴の立ち上がり:封緘が自動で鳴る
次の瞬間、足元で封緘符が勝手に明滅した。
自動展開。森側からの共鳴。
「来る」
ローザが言い、陽翔の輪が厚みを得る。
エリナは座標を上書きし、結界の位相を“こちらの今”に固定した。
ノエルの耳に、声が届く。
『ノエル。――まだ、閉じられる』
母の声だった。
幼い日の庭の午前、手渡された言葉の温度そのままで。
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◆声の正体:出迎えと送り
「お母さん……?」
『そう呼ばれる資格は、もうないわ。けれど、送りはできる』
送り――出迎えの反対。
胸の奥で、“今”がひとりで鳴った。
母の声は香りではない。記憶の形でもない。
ノエルの内側にある“戻る道”が、母の“戻る道”と重なっただけ。
重なれば、距離が生まれる。距離は礼になる。
黒い筋が土の上に現れ、白い霜みたいに凝ってから砕けた。
音はない。
ただ“門になりかけた蝶番”の滑りが、一拍ぶんだけ悪くなった。
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◆撤退は刃:閉じさせる帰還
「撤退!」
護衛の声と、ローザの判断は同時だった。
エリナが**“道の上書き”を実行し、陽翔の輪が二歩先で受け止め**、ノエルは友情の側を強く、短く流してゼロ点で切る。
十歩。九歩。八歩。
戻る足は、逃げる足ではない。
閉じさせる足だ。
森の拍動が一拍、遅れ、もう一拍、遠のく。
視界の端で透明の花が咲き損ね、道の二重がべりと剝がれて一本に戻る。
白い光が一度だけ森全体を洗い、四人は観測塔の外周へ押し出されるように戻った。
⸻
◆帰還:数字と体温
研究局の医療班が走り寄る。
「脈、正常」「血中匂い因子、軽度上昇」「干渉記録、低位」
数字の上では大事はない。
だが、ノエルの膝はまだ微かに震えていた。
胸の奥で“今”が自動で鳴っている。
合図が自動になるのは、良い兆候だ。
エリナがノエルの手に触れ、小声で言う。
「今、合図が勝手に来てる。それは“戻るを身体が覚えた”証拠」
陽翔が親指を立て、ローザは短く「よくやった」と言った。
“よくやった”は、大きく言わない方が長持ちする。
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◆廊下の噂:名のない敬意
夕方の学院。
廊下では噂が早足で歩く。
「内層に入ったって」「ほんとに?」「門、開きかけたの?」「閉じたって」
名指しはない。だが、矢印はノエルの肩に乗ろうとして、乗らない。
“撤退が礼だ”という言葉が、廊下の空気の規則になりつつある。
ノエルは胸の中で**“今”**を一度だけ鳴らし、スープの湯気に顔を近づけた。
生活の匂いは、こちらの側にしかない。
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◆研究局の報告会:主観/客観/距離
夜、臨時の報告会。
投影盤に、呼吸波形が二本並ぶ。森の波と、四人の**“今”。
ずれていた二つが、一瞬だけ重なりかけ**、重ならずに戻っている。
灰衣の学匠が言う。
「合わせないことに成功した。重ねて戻るという新しい“礼”の形だ」
司馬教官が短く続ける。
「主観を外に置く報告、よくできている。――今日の“勝ち逃げ”は、学院全体の戻り道を太らせた。眠れ」
眠ることも訓練。何度聞いても、新しい。
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◆食堂の後、藤棚の影
遅い夕食。パンの皮は指先に軽い音を返し、スープは塩の安定で喉を撫でる。
「俺、冗談を一つ思い出した」
陽翔が言って、首を傾げる。
「でも、これは思い出さないほうが面白いやつな気がする」
「よろしい。冗談にも距離がある」
エリナが真顔で言い、ノエルは吹き出した。
藤棚の下で水を回し飲み、四人はいつものように手を重ねる。
「“今”」
四つの声が重なって、夜の風が味方の音になった。
⸻
◆温室:白百合の沈黙、黒百合の潜行
同じ夜、温室。
封緘の線は太く、呼吸は深く、巡回は二十刻で規則正しい。
黒百合の糸は焦らない。
目地と基礎石の裏に、薄皮を一枚だけ重ねる。
線が太るほど、線の外の薄さが目立つ。
目立つほど、そこに差が生まれる。
差は、境界になる。
境界は、ときどき、門になる。
門は――まだ開かない。
白百合は光をため、沈黙のまま咲く準備だけをしている。
封緘符が一枚、息を外し、すぐ戻った。
外したという事実だけが、石の裏に記憶の層として残る。
⸻
◆夜、寮の廊下:怖さの整頓
風呂の湯気が廊下の木に染み、床板は人の温度を覚えている。
四人は部屋の前で短いミーティング。
「今日の怖さ」
ローザの問い。
「“二重道”で遅刻が二回。回避」
陽翔。
「“鳴らない鈴”に名前を付けたくなる衝動が一回。抑制」
エリナ。
「“出迎え”への足の一歩。止まれた」
ノエル。
ローザは頷く。
「全部、道具にする。――眠れ」
扉が閉じる。
廊下のきしみは、今日も鳴らなかった。
鳴らない音が、いちばん長い安心になる。
⸻
◆夢:母は出迎えず、送りだけをする
眠りは早く、夢ははっきりしていた。
温室の通路。白百合はまだ蕾。黒百合は見えない。
母が立っている。過去の姿ではない。今の夜の温度の中に、現在形の立ち方で。
「ノエル」
「お母さん」
「私は、出迎えはしない。出迎えると、あなたは来るから」
「うん」
「だから、送りだけをする。――戻りなさい。“今”で」
胸の内で合図が自分より先に鳴り、二拍で薄く、一拍半で戻る。
母の輪郭は崩れない。消えもしない。
ただ、距離だけが正しいままに保たれた。
「黒百合は悲しみの根。でも、それも記憶の一部。拒めば“門”になる。戻してごらん」
ノエルが頷くと、夢の温室に朝の匂いが一筋、差し込んだ。
⸻
◆暁前:体の中に戻ってくる朝
鐘の前、潮の匂い。
ノエルは目を開け、起き上がる。
ペンダントに触れ、**“今”**を胸で置く。二拍。戻す。
ロフトから陽翔が顔を出し、エリナがノートを閉じ、ローザが短く言う。
「食べろ」
食べる。笑う。行く。戻る。
戻れる朝は、強い。
⸻
◆朝の掲示:臨界の宣言
研究局の掲示板に、新しい紙。
昨日の淡い青よりも、線は太い。
『黒百合因子、臨界値。明日、最終封緘を実施。
学院全域、段階的結界を展開。温室周辺、終日立入禁止。
認可班は本日、最終調整と“戻る”の確認を行うこと。』
ざわめきは起きなかった。
起きないのは、諦めではない。
準備だ。
ノエルは紙から目を離し、胸の中で**“今”**を一度。
(行く。――終わらせるために、戻る)
⸻
◆午前:十歩の精度を磨く
校庭の端。芝は露を吸って重く、影は輪郭を濃くしている。
“撤退→再構築”。十歩を五本。成功三、失敗二。
成功は昨日より静かで、失敗は昨日より短い。
陽翔は「遅刻」を先に口に出す練習をし、エリナは“出さない錯視”の切りを速くし、ローザは最後の二歩で礼の角度をきっちり入れる。
ノエルはゼロ点の“幅”を広げた。幅は戻る場所の広さ。広いほど、仲間が迷わない。
「よし。勝ちのまま切る」
ローザの一言で、練習は止まる。
勝ち逃げは、次の勝ちにしか使えない贅沢だ。
⸻
◆午後:灰衣の学匠、二つの語
短い面談。投影盤に二つの語が浮かぶ。
楽と守る。
「君は夢で『楽と守るは違う』と言った、それで良い。楽は悪ではない。だが“忘れて楽になる”は守ると両立しない。――明日、君は戻し続けることになる」
学匠の目は厳しく、温かい。
ノエルは頷き、言葉を胸骨の裏へ置いた。
置けるのは、戻る場所があるからだ。
⸻
◆黄昏:藤棚の約束
夕方、藤棚の下で四人は水を回し飲む。
「明日は最終封緘。私たちは“開かせない距離”を維持する。――守るために逃げる準備をする」
ローザ。
「俺、“遅刻”を先に笑う」
陽翔。
「錯視は“一拍刃”。出す/出さないの切り替えを私が合図で出す」
エリナ。
「私は……送りを覚える。出迎えない」
ノエル。
四人の言葉は輪になり、藤の蔓みたいに固く、しなやかに結ばれた。
「“今”」
四つの声。
輪は、夜の風にほどけなかった。
⸻
◆夜:温室は息を合わせ、島は外す
夜の温室。
封緘の息と、島の息が、一瞬だけ重なり、すぐ外れた。
黒百合の糸は焦らず、一枚だけ薄皮を重ね、それ以上はしない。
蝶番は、今日もほんの少し滑らかになった。
その“ほんの少し”が、明日の単位になる。
⸻
◆消灯前:手の温度、言葉の位置
寮の廊下。
四人は手を重ねる。掌の温度が、脈の場所を教える。
「“今”」
声が重なり、ほどける。
「明日、勝つ」
勝つの定義は、閉じさせて戻ること。
扉が閉じ、鳴らない廊下が残る。
鳴らない音は、こちらの側の音だ。
⸻
◆夢:最後の稽古
眠りは浅くも深くもない、正しい眠り。
温室の通路。白百合は半分だけほころび、黒は見えない。
母がいる。今夜も出迎えない。
「ノエル。送りは、言葉を短くすること」
「“今”」
「もう、十分」
母の微笑みは、懐かしさではなく現在の光でできている。
ノエルは胸の中で合図を置き、夢の外側へそっと戻った。
⸻
◆暁:終わらせるための朝
鐘の前、潮の匂い。
ノエルは起き上がり、ペンダントを胸に当てる。
“今”。二拍で薄く、一拍半で戻す。
ロフトから陽翔が顔を出し、エリナがノートを閉じ、ローザが短く言う。
「食べろ」
食べる。笑う。行く。戻る。
最終封緘の朝が、静かに始まった。
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