第4話「ペアの条件」
翌朝の学院は、鐘の八つの音を合図に一斉に目を覚ました。
露に濡れた芝が光を跳ね返し、藤棚の房は夜の冷えを名残に揺れている。中庭の石畳を流れる人の列は、ひとつ角を曲がるたび、さざ波のようにざわめきを立てた。――掲示板だ。昨日の連携実技の結果が張り出されると聞いた一年たちが、誰言うともなく足を速める。
ノエルもその列に揺られて、陽翔とエリナと肩を並べた。胸の内側では心臓が少しだけ早足になる。ローザは別の方向から歩いてきて、視線が合うとほんの僅かに顎を引いた。いつも通り、整った顔だ。
ガラスの掲示枠に紙が貼られている。黒いインクの整然とした活字。
〈第一位 紅城ローザ&藤咲ノエル〉
〈第二位 日向陽翔&百合園エリナ〉
〈第三位 ヴェラ・トゥーリップ&ミケラ・カメリア〉――
視界の中で自分の名字と名前が並ぶのを見た瞬間、ノエルの呼吸は一瞬だけ止まった。次の瞬間、体のどこかに陽だまりが落ちる。嬉しい。けれど、それ以上に不思議だ。紙の上の活字はただの記号なのに、ここではそれが季節の兆しみたいに意味を持つ。
「やったね、ノエル!」
陽翔が肩を叩く。エリナは眼鏡の柄に指を添え、「概ね妥当」とだけ言った。たぶん、最高の褒め言葉だ。
「当然。――だけど、油断すればすぐに落ちる」
背後から落ち着いた声。ローザだ。朝の風に紅のリボンが擦れて小さく鳴る。
「上に立てば、見られる。見られれば、狙われる。そういう場所よ、ここは」
「分かってる。次も、ちゃんと咲く」
ノエルが微笑むと、ローザはわずかに目を細めた。彼女の笑みはいつでも刃物の背のように滑らかだ。切れ味を感じさせながら、人を傷つけない面をこちらに向けてくる。
壇上に白い外套の教官が立った。杖の先に光の花弁がふわりと浮かぶ。昨日、アリーナで進行を務めた女性――ミスティ教官の同僚、教務補佐だろう。
「新入生諸君。結果は見たな。よくやった。だが……学院は点数を飾る場所ではない」
ざわめきが、音楽のボリュームを下げるみたいに静まる。
「上位三組には“追加課題”を課す。来週、学院外の結界林にて校外演習を実施。複数組で協力して、指定の幻影獣を討伐せよ。現地は安全が保証されているとは限らない。よって連携・判断・撤退の三つを重点評価とする」
――校外。
ノエルの胸の中で、弦がひとつ震えた。楽しみと緊張が足し算で増えるとき、人はこういう息の仕方を覚える。
陽翔が「おおー!」と素直に喜び、エリナは唇だけで「危険」と形づくる。ローザは前を見据えたまま、「望むところ」と囁いた。
教官は続ける。
「該当組――紅城&藤咲、日向&百合園、トゥーリップ&カメリアは放課後、連携訓練室へ集合。校外演習の“ペアの条件”を通知する」
ペアの条件。掲示板周りに新しい波が走った。ノエルは耳の奥が熱くなるのを感じながら、ローザを見る。彼女は頷き、視線だけで「行くわよ」と言った。
◆
午前の授業は、いつもより早く過ぎていった。
「基礎花術Ⅰ」の教室で、ミスティ教官は黒板に二つの円を描いた。ひとつは“個”、もうひとつは“連携”。円と円が交わる中央に、小さな点――“隙”と書く。
「連携が生むのは“強さ”だけではない。必ず“隙”も生まれる。――昨日の藤咲。君は“触れて離す”距離が卓越している。だが、触れた瞬間に生じる“空白”をどう扱うかが次の鍵だ」
教室の視線がノエルに集まる。恥ずかしさより先に、ありがたいと思った。自分の課題が、輪郭を持つ。
「はい。……短くします」
「形としては、それでいい。だが“短くする”だけでは足りない。連携では“誰が、その隙を預かるか”を決める必要がある。――ローザ」
指名されたローザは椅子からゆっくり立つと、前を向いたまま答えた。
「預かれる。私の炎は、熱量の配分が効く。彼女が“白む”瞬間、私が“灯”を強めに回せば、敵から見える空隙は曖昧になる」
「よく観ている。――それが“ペアの条件”の第一だ。互いの隙をどちらが預かるか、明文化しておけ」
板書が走る。予習していたエリナのペンは迷いがない。陽翔は「おお、なるほど」と頷きながら、ノートの端に“ノエルの隙=ローザが預かる”と大きく書き、丸で囲った。まっすぐで、少し雑で、優しい字だ。
ミスティは二つ目の円を叩く。
「第二。“撤退宣言”。校外では撤退は恥ではない。むしろ、どの段階で撤退を選べるかを評価する。ペアは“自分の撤退合図”を作り、互いに共有しておくこと。周囲にも一目で分かる合図で」
教室の隅で誰かが「撤退の合図って何だろ」と囁いた。ミスティは微笑む。
「たとえば、薔薇の幻影を空へ一輪、上げる。向日葵の光輪を二重にする。――花は信号にもなる」
第三。
「“誰のために咲くか”を互いに言語化しておくこと。これは評価の点数には直結しないが、迷ったときの指針になる。花は――誰かのために咲く方が強い」
ミスティはそこでチョークを置いた。白い粉が空中に薄く漂い、光の中で舞った。
「質問は?」
「はい!」
陽翔の手が真っ直ぐに上がる。
「合図、今から決めてもいいですか!」
「いい。昼休みにでも周囲の安全を確かめた上で試すといい」
「了解!」
教室に柔らかな笑いが生まれ、張りつめていた空気が少し緩んだ。ノエルも笑い、ペンダントの位置を確かめる。今日も、心臓はちゃんとここにある。
◆
昼休み、芝の一角で三組が集まった。
ローザは剣帯の位置を確かめ、ノエルは手袋を外して指の関節を軽く回す。陽翔は結界の光輪を最小出力で出したままにする練習を始め、エリナは腕時計とメトロノームでリズムを刻んでいた。
「撤退合図、どうする?」
ノエルが問いかけると、ローザはあっさり言った。
「薔薇を“空へ”。普段は地に咲かせるから、空に上がれば誰の目にも分かる。それを見たら、あなたは“花弁を自分に戻して”」
「うん。花弁は基本、味方に触れて初めて意味がある。撤退時は“触れた痕跡”を敵に残さないために、回収して閉花する」
「撤退宣言の言葉は?」
「“薔薇を上げる”でいい?」
「短く。いい」
エリナが横からメモを覗く。
「合図は短いほどいい。“薔薇、空”。二音」
「二音、了解!」
陽翔は光輪を一度だけ二重にしてみせた。金の輪がもう一枚、重なってふわりと震える。
「僕らはこれ。二重になったら“すぐ寄る”」
「視認性がいい。嵐や霧でも見える」
エリナは一旦メモを閉じ、ノエルへ視線を向けた。
「“誰のために咲くか”。言語化しておく?」
ノエルは息を吸い、吐いた。昼の匂いは土と果実の間。
「私は……みんなの“明日”のために。――あの、“思い出”って、昨日のものじゃなくて、明日のものにもできるから」
陽翔が笑う。まっすぐな笑顔だ。
「俺は“目の前の人”。難しい理屈は分かんないけど、目の前の人が笑うか泣くかなら、笑っててほしい」
「私は“秩序”。――花は秩序の上で咲くから」
ローザは少しだけ間を置いた。
「“誇り”。伝統に縛られるのではなく、伝統の“美しさ”を未来に渡す。そのために咲く」
四つの言葉は、四つの花の香りみたいに違って、けれど同じ方向を向いていた。ノエルは胸の奥で、花弁を一枚ひらく。言葉にすると、力が芯を持つ。
◆
午後の座学は「花言葉史Ⅱ」。
ミスティが古い文献の写しを映しながら、花と戦と和解の歴史を辿っていく。ノエルはペンの先で小さなライラックの形を描き、隣のローザのノートの端に薔薇の棘の図が走るのを横目で見た。
授業の終盤、教官が合図した。
「上位三組、連携訓練室へ」
◆
連携訓練室は、塔の中腹にある円形の部屋だった。床には幾何学の陣、壁には鏡。その鏡は内部から外の視線を通さない。外套の教官――教務補佐が待っていた。
「各組の“ペアの条件”を確認する。――紅城&藤咲」
ノエルとローザが一歩前へ。
「条件は三つ。ひとつ、藤咲の“白み”は紅城が預かる。ふたつ、撤退合図は“薔薇、空”。みっつ、第三者介入時は“主導権を紅城が取る”。――藤咲は支援主体だ。指揮と支援を同時に握ると、負荷が跳ね上がる。現段階では、紅城が戦術判断役を務めるのが最善」
ローザは「了解」と硬い声で頷く。ノエルも「お願いします」と頭を下げる。
「ただし、これは絶対ではない。現地の状況で柔軟に切り替えろ。――日向&百合園」
陽翔とエリナが前へ。
「条件。ひとつ、日向の光輪は“常時一重”。二重になったときは“集結”の合図。ふたつ、百合は敵に幻影を掛ける前に必ず“味方の視界”を取る。――味方の誤認を防ぐためだ。みっつ、撤退合図は“光輪、断”。光が一瞬だけ消えたとき、即時離脱」
「了解!」
「異論なし」
最後の組も同様に条件を交わし、それぞれの“隙の預かり先”と“撤退の色”が明文化された。
教官は短く締めくくる。
「以上。――君たちの花が、正しく咲くよう祈る」
◆
訓練室を出ると、廊下の窓から夕陽が差し込んだ。塔の石壁が橙のグラデーションを帯び、空気は少し甘くなる。
階段を下りながら、ノエルはローザに顔を向けた。
「ねえ、ローザ。今日、ありがとう」
「何が?」
「“預かる”って言ってくれたこと。……私、強いつもりでいるけど、完璧じゃない。だから、嬉しかった」
「預かるのは“隙”であって、あなたの“弱み”じゃない。そこを勘違いしないで」
ローザは踊り場で立ち止まり、手すりに触れた。手すりの冷たさが指の芯まで伝わる。
「あなたの力は“触れる”。だから、触れていい相手と、触れてはいけない相手を早く見極めること。――黒百合は、触れた指に噛みつく」
ノエルは息を呑む。ローザの言葉は、ときどき、予言のように冷たい。
「黒百合、見たことあるの?」
「見た。……昔」
それ以上、彼女は言葉を続けなかった。ノエルはそれを追わない。追うべき季節と追うべき距離は、花にもある。今は、彼女の隣に“歩幅を合わせる”ことの方が大事だ。
◆
夕食の温室はいつもより賑やかだった。校外演習の話題は、年の違いを超えて花咲く。二年は思い出話を、三年は忠告を、新入生は期待を。それぞれの皿には色があり、香りがある。ノエルはライラックティーをひと口含み、目を細める。甘い。薄紫の味がする。
「ノエル、明日、少し朝練しよう」
陽翔が向こうの席から手を振る。
「光輪の安定化を上げたいんだ。君の“共鳴”があると、俺、呼吸が合う気がしてさ」
「いいよ。エリナも来る?」
「来る」
会話は軽いけれど、芯は真剣だった。
そこへ、背後から気配が近づく。振り向く前に、紅茶の香りがした。
「藤咲」
ローザだ。白い湯気がカップの縁から揺れ上がる。紅茶は薔薇の香り――深くて、少し大人の匂い。
「連携の言葉、ひとつ追加。“いま”。――さっきの授業で合図は短いほどいいって話があったでしょう。私が“今”と言ったら、あなたは“二拍、世界を薄くする”。できる?」
「うん。二拍だけなら、花弁の密度を上げて、相手の“懐かしさ”に触れられる。――三拍目で戻る」
「そう。戻る。戻れなかったら私が“灯”で塞ぐ」
やり取りは十秒もなかった。けれど、それで充分に血が巡る。合図は短いほど、戦いの中で意味を持つ。
「ありがとう、ローザ」
「礼は要らない。私たちは“勝つため”に組むのだから」
さらりと告げて、ローザは席へ戻っていく。その背中を、いくつもの視線が追った。羨望、好奇、警戒。――上に立つというのは、こういうことだ。
◆
夜。
藤寮の窓から見下ろす庭に、桜の先輩の影があった。剣は抜かれておらず、護衛と短い言葉を交わしている。昨日の夜の不審な気配――寮監は「獣だったのだろう」と笑ったが、護衛の歩幅は笑っていなかった。
「ノエル。明日の朝練、六時」
エリナが寝る前の確認を淡々と告げる。
「はい、先生」
「先生ではない」
陽翔がロフトの上でくすくす笑う。
「俺、早起き得意だから任せて!」
「信用しない」
「ひどい!」
笑いながら、ノエルはベッドに入る。天井の木目は昼より暗く、窓から入る夜風は薄紫の匂いがした。――ライラックの香りは、記憶をゆっくり撫でる。目を閉じれば、花弁が舞う。触れて、離す。二拍。戻る。
(大丈夫。預かってくれる人がいる。――だから、私は触れにいける)
眠気が花の蜜みたいに甘くなり、意識の端がやさしくほどけた。波の音。遠い鐘。
◆
同じ夜、学院島の外れ。
結界の縁は、目に見えない薄い膜のように森を包んでいる。そこに指を這わせるように、黒い外套の二人が身を寄せていた。声は葉擦れに紛れ、匂いは夜の湿りに溶ける。
「確認。上位三組のうち、標的は“薔薇×ライラック”。予想以上の相性」
「ライラックは“触れる”。薔薇は“燃やさない”。――良い混色だ。摘み取り甲斐がある」
「次の校外演習。ルートは北の結界林。――“向こう”は動けるか」
「動く。……内部の芽は、まだ硬いが」
黒い花弁が一枚、指に挟まれて揺れた。月を吸い、光らない。
「黒百合は、手折られた記憶の香りを好む。――あの娘の“空白”は、香りがいい」
風が草を撫で、声はそこで途切れた。
◆
翌朝。
六時の鐘が鳴る前に、ノエルは目を覚ました。肺の底まで空気を入れて、ゆっくり吐く。鏡で襟元を整え、ペンダントの位置を指で確かめる。廊下に出ると、エリナはすでに待っていて、陽翔は――
「おはよう!!」
ロビーのソファの背から飛び上がった。
「起きてたよ! ほら、ほら見て! 早起き!」
「子犬か」
笑いながら三人で庭へ出る。朝露を踏むと靴の底がひんやりする。
ノエルは指を開き、薄く花弁を散らした。陽翔の光輪が一重に灯り、エリナはメトロノームを打つ。
「二拍、“薄く”。三拍目で戻る。――始め」
ノエルの花弁は陽の薄い光を拾い、紫の膜になって陽翔の肩を撫でる。陽翔の呼吸が一瞬だけ深くなる。光輪の震えが弱まり、輪郭が均一になる。
「気持ちいい……」
「戻る」
ノエルは花弁を回収。二拍。ぴたり。――視界は白まない。
「成功」
エリナはペンを走らせ、「二拍なら負荷小」と記録する。ノエルは胸に手を当てて、そっと笑った。
(大丈夫。このくらいは日常にできる)
芝の向こうから、ゆっくりした拍手が聞こえた。振り向くと、ローザが立っていた。
「朝から、良い顔」
「ローザも来ると思ってた」
「あなたが“触れる”練習をするなら、私も“預かる”練習をする。――合わせてこそ、合図は意味を持つ」
四人は短い朝練をもう一度繰り返し、それから各自の教室へ散っていった。
日常は、こうやって“繰り返し”の顔をして進む。けれど、同じ朝は二度と来ない。ノエルはそのことを、昔、母に教わった。
◆
校外演習の前日、夕方。
中央塔の小講堂に集合がかかった。地図、注意事項、持ち物、緊急時の連絡符――淡々とした説明の裏で、ノエルの胸はまた少し高鳴る。
講堂を出ると、桜庭先輩が廊下で待っていた。
「藤咲」
「はい!」
「――“怖がり方”を覚えておけ」
先輩は真面目な顔で、しかし優しく言った。
「怖がるなとは言わない。怖がらないと、危機は見えない。けれど、怖がりすぎると、足元しか見えなくなる。……君は見上げるのが得意だ。見上げる目を手放すな」
「……はい」
短い言葉が、胸の奥に温かい灯を置いた。ノエルは深く頭を下げ、寮へ戻る。
夜。荷物を整え、靴を磨き、ペンダントを布で拭う。窓の外には藤棚の影。遠く、海の匂い。
(行ってくるね、お母さん)
心の中でそっと言って、灯りを落とした。
――――――――――
(第4話 了)
⸻
第5話 「結界林の朝」
出発の朝は、島の海がやけに近く見えた。
集合場所の港には、小型の結界船が三隻並び、甲板には各組の荷が規則正しく積まれている。霧は薄く、空気はよく通る。海鳥が低く弧を描いて、結界の外側をかすめた。
「点呼――紅城、藤咲」
「はい」「いるわ」
陽翔とエリナもそれぞれ返事をする。トゥーリップとカメリアのコンビは息の合った敬礼で応え、上級生の護衛二名が最後尾についた。護衛の顔は表情がない。だが無表情は、熟練の“備え”だ。
船は音もなく岸を離れ、外海ではなく島の裏手へ回り込む。森が迫り、岸壁が途切れ、緑の背骨のような稜線が結界の光で薄く縁取られた。
結界林――島の北側に広がる、学院の守りと訓練のための半野生の区域。人の手は入っているが、すべては“花の理”に従って調整される。そこに、今日は“課題”が用意されている。
「いい匂い……」
陽翔が鼻をひくつかせる。
「樹脂と土。ちょっと柑橘の皮みたいな」
「ローズマリーの精油が撒かれている。魔除けの簡易措置。――護衛の配慮」
エリナが即座に答える。
ノエルは頷き、ペンダントを指先で押さえた。胸の鼓動は、いつもより少しだけ強い。怖くはない。怖がり方を覚えている。
◆
上陸。
護衛が先頭に立ち、各組が続く。森の入口で、護衛の一人が振り返った。
「ルールを確認する。目的地は北東の観測塔。途中、三か所で“課題地点”を通過する。そこに現れる幻影獣の討伐、または無力化――いずれも“撤退の判断”も評価対象だ。……“薔薇、空”。その意味は全員把握しておけ」
ノエルとローザは互いに視線だけで頷いた。陽翔の光輪は一重。エリナの懐には紙の地図とクリスタルの方位盤。
「それと――」
護衛が声を落とす。
「最近、結界の縁で小さな揺らぎがいくつか確認されている。学院が対応中だが、念のため。何か“学院の論理から外れた”ものを感じたら、即座に報告」
学院の論理――この島の“花の理”。その外側は、人の論理でも魔の論理でもない。
ノエルは肩の力を抜く。怖がらない。怖がり方だけ、覚えておく。
◆
森は朝の匂いを深く抱えたまま、四人を迎えた。
土は弾力があり、根は網のように張っている。頭上では葉が光をちぎって地面に落とし、光の欠片が苔の上で揺れた。鳥のさえずり、遠雷のような滝の音。すべてが生きている。
「最初の課題地点、あと三百」
エリナが方位盤に視線を落としたまま、声だけで告げる。
陽翔は光輪の外縁を指でなぞる。輪はぶれない。呼吸は二拍。一拍、吸う。二拍、吐く。ノエルの練習が体にしみている。
不意に、足元の土がざらりと鳴った。
路面の苔が、風でもないのに波打つ。次の瞬間、苔から“脚”が生えた。
――蔦の狼。
影狼に似ているが、実体は濃い。花の棘と葉脈で編まれた輪郭が、牙の形を取り、低く唸る。
「出た」
ローザが一歩前に出る。
「私が刺。ノエル、二拍で薄く。……今」
合図は短い。ノエルは花弁を広げ、蔦狼の視界の前に“懐かしさ”を置いた。蔦狼の瞳孔に相当する葉の陰影が一瞬だけ収縮する。――その二拍のあいだに、ローザの棘が根の付け根を縫い、炎が薄く走った。
蔦は悲鳴の代わりに水分を吐き、煙の代わりに青い匂いを散らす。陽翔が光の網で側面を塞ぎ、エリナの幻影が蔦の“脳”にわずかな錯視を与える。
刹那。
蔦狼は自分の足を自分で絡め、すってん、と音もしないのに転ぶ。ローザの剣先が喉元に触れ、炎が点。――無力化。解けた蔦は地面へ還り、匂いだけが残る。
「評価、良。進行」
護衛の短い声。三組それぞれの初手は滑らかで、森はまだ優しい顔だ。
◆
二つ目の課題地点――小さな沢を越える橋の上。
橋の欄干に白い花が咲いていた。近づくと、それは花ではないと分かる。――羽虫の群れだ。白い薄片のような羽を持ち、列を作って欄干に留まっている。ノエルが立ち止まると、羽虫が一斉にこちらを向いた。
「幻惑型。百合園」
ローザの声は静かだ。
エリナは頷き、指をひとつ立てる。
「味方、目、閉じないで。――“純白の誤認(ホワイト・ミスリード)”」
羽虫たちの列が一瞬だけずれ、橋の上に“もう一本の橋”が見えた。敵の視界が誤差を飲み込み、こちらの足は安全な板の上を踏む。陽翔が光輪の外縁で虫を焼かず、ただ光の“壁”で進路を遮る。ノエルは花弁で隊の呼吸をつなぎ、ローザは最後尾で刺の柵を展開する。
橋を渡り切った瞬間、羽虫は一斉に散った。何かの糸がぷつりと切れたみたいに。
「撤退合図のテスト」
エリナが短く言い、ローザが即座に剣を上げる。
「――薔薇、空」
紅い幻影の薔薇が空に一輪、ふわりと咲いた。全員が反射で足を止める。ノエルは花弁を即座に回収。――二拍で、戻る。
護衛の目が細く笑った。
「視認性良。反応速度、良。続行」
手順は体に入る。恐れは指先に留まり、思考を曇らせない。怖がり方を、覚えている。
◆
三つ目の課題地点は、丘の上の小さな石の祠だった。
祠の前には古いライラックの木が一本。季節の設定は初夏なのに、この木だけは季節を飛び越えたように薄紫の花を少しだけつけている。ノエルは思わず足を止めた。
(ライラック……)
風が花房を撫で、香りがわずかに流れる。祠の石段に影が差した。――気配。
ローザが半歩前へ。陽翔の光輪が二重になりかけ、エリナが首を振って一重に戻す。
「まだ、合図ではない」
祠の影から、黒い“花弁”がふたつ、ふわりと浮いた。
百合の形。だが、夜の色。
「下がって」
護衛の声が鋭くなる。その瞬間、祠の影が引っくり返った。
影狼――の形を借りた、別の何か。輪郭は曖昧、走る速度だけが本物だ。
「来る!」
ローザが刺を打ち、陽翔が光の壁を立てる。エリナの幻影が敵の“目”を揺らそうとした瞬間、黒い花弁がエリナの幻影に“絡んだ”。幻影が少し遅れる。
ノエルの体が先に動いていた。
「“今”!」
二拍。
世界は薄く、優しく白む。ノエルは敵の“懐かしさ”を探す。――ない。空白。香りだけ。
(記憶が、ない。借り物。……それでも)
ノエルは“友情”の方へ花弁を切り替え、ローザへ重ねた。ローザの剣が、まっすぐ、正中線へ入る。炎は灯、刺は道標。陽翔の光輪が瞬間的に二重へ。――合図。
「薔薇、空!」
ローザが一輪を空へ放つ。同時に護衛の符が弾け、結界の膜が一時的に厚くなる。敵の輪郭が不自然に伸び、祠の影へ引き戻された。
黒い花弁だけが、空気に取り残される。――ノエルの前に、ひらり。
時間が、ほんのすこし止まる。
花弁は静かに揺れ、音を持たない声で囁いた気がした。
(――きれい)
ノエルの指先が、触れそうになった。
次の瞬間、ローザがその手首を掴む。
「触れない!」
はじけるように花弁が崩れ、黒い点々になって空気へ散った。
護衛が短く息を吐く。
「今のは“外”。学院の論理の外だ。よくやった。――撤退しない。観測塔まで行く」
ノエルは掴まれた手首の温度を意識した。ローザの手は熱い。けれど、熱いのに、安心する。
「ありがとう」
「預かっただけ。……今の“空白”、二拍で戻った。上出来」
ノエルは頷く。胸の奥で、怖がり方の鍵がまたひとつ増えた気がした。
◆
観測塔は丘の先、小さな石造りの塔だった。螺旋階段を上がると、島の北側が一望できる。森、海、結界の淡い光。
護衛が魔術のレンズを掲げ、空気を読んだ。
「揺らぎ、微弱。――今日はこれ以上は出ない。帰投する」
帰り道は行きよりも早く感じた。手順は体に入り、言葉は短く、合図は明確。森は匂いだけを残し、影は祠に眠る。
港に戻ると、船が静かに待っていた。潮は満ち、空は、高い。
甲板に立つと、風が髪を揺らした。ノエルは背後を振り向く。丘の上の観測塔は小さく、祠は見えない。見えないけれど、確かにそこにある。外の論理は、ここには届かない。届かせない。――そういう場所に、学院はある。
「藤咲」
呼ばれて振り向く。ローザだ。炎を纏っていない眼は、意外なほど柔らかい。
「さっきの“触れない”。よく止まった」
「ローザが止めてくれた」
「あなたも、止まった。――二拍で戻った。あれはあなたの“強さ”」
ノエルは照れて目を伏せた。海は朝より青い。陽翔が「腹減った!」と笑い、エリナが「帰ったら報告書」と即答する。
いつもの、四人の温度が戻ってくる。
そのとき。
結界船の縁に、黒い点が一つ、しずかに付着した。誰も気づかない。風に乗り、薄く、薄く。黒い花弁は、まるで“記憶の欠片”のように、甲板の木目の間にすっと滑り込んだ。
(つづく)
――――――――――
※第5話は校外演習・前半の山場(祠での“外の花弁”との遭遇)までを収めました。
続きでは、帰投後の報告・学院側の分析・“内部の芽”の小さな兆候、そして二度目の演習での初衝突へ進めます。
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