第5話「結界林の朝」
目覚ましが鳴るより先に、潮の匂いで目が覚めた。
窓を半分だけ開けて寝たままのカーテンが、海風に揺れるたび、布の擦れる音が耳の奥にやさしく落ちる。薄い空の色――夜の青と朝の白の境目――が、藤寮の窓辺に細く流れ込んでいた。
ノエルは起き上がって、ベッド脇のペンダントを手に取る。冷えた銀の感触が掌の熱を吸い、緊張の輪郭を少しずつ整える。
「……大丈夫」
小さく呟くと、胸の奥の鼓動が、ゆっくりと、いつもの拍に近づいていく。
洗面台で顔を洗い、鏡に向かう。頬についた寝癖を指で押さえ、制服の襟をきちんと整える。額の髪をピンで留めてから、ペンダントを襟の内側にしまった。細いチェーンが鎖骨に触れて、ひやりとする。
部屋の奥で、ロフトから陽翔が顔を出した。
「おはよー……って、もう準備できてる!?」
「おはよう。今日は早く目が覚めちゃって」
「さすがトップの人は違う……俺、五分で行けるから! エリナ、起きてる?」
「起きている。あなたが寝坊した場合の集合ルートも三本考え終えた」
「最初から信頼がない!」
笑う。笑うと、緊張は少しだけ自分の形を思い出す。
靴紐を結び、鞄の点検をする。応急符、予備の手袋、魔力補助の飴――甘すぎないミント味――小さい救急スプレー。母のノートは、今日だけは寮に置いておく。持っていくと手が伸びてしまうし、戦う時の手は空けておきたい。
寮の廊下はいつもより足音が多かった。窓から差す朝の白が、誰の制服の白とも混ざらず、別の清潔さで床を撫でていく。
寮の玄関前で、ローザが待っていた。赤いリボンが朝の光でわずかに透けて見える。
「早いのね」
「緊張して、起きちゃって」
「緊張はいい。丁寧になる。恐怖は――」
「視野を狭くする。桜庭先輩に昨日、教わった」
「なら、今日は大丈夫」
短い会話だけど、十分に血が巡る。
四人で藤棚の下を抜け、西庭から港へ向かう。藤の房は夜露を抱えて重く、歩くたびに滴が珠になって落ちた。それが石畳の上で丸く弾けて、朝の匂いに馴染んでいく。
「行ってきます」
誰に言うともなく言うと、庭のどこかで風鈴みたいな音がした。たぶん温室の換気扉の金具。それでも、返事が来た気がした。
◆
港には小型の結界船が三隻、規律のいい間隔で並んでいた。甲板は木で、縁には古い刻印。魔術師の名ではなく、植木職人の印が並んでいるのがこの島らしい。
上級生の護衛が点呼を取っていく声は、潮とよく馴染む。
「紅城、藤咲」「はい」「いるわ」
「日向、百合園」「はい」「います」
「トゥーリップ、カメリア」「オーケー」
ロープが解かれ、船が音もなく岸を離れる。外海へ出るのではなく、島の北側へ回り込む。海面がきめ細かな皺を寄せ、薄い虹色の膜が森の縁を包んでいるのが見えた。
「うわ、ほんとに光ってる……」
陽翔が欄干に寄りかかり、子どもみたいに目を丸くする。
「結界膜の外層よ。外界の“論理”を緩やかに拒む。中に入る私たちは、逆に“花の論理”に深く馴染む」
エリナは相変わらず平熱で説明する。
「つまり、ノエルは強くなるってこと?」
「馴染みすぎても危険。境界感覚が溶けると、外から来た“余所者”の論理に噛まれやすくなる」
“余所者”という単語が、ノエルの掌の中で小さく跳ねた。昨日の祠で見た黒い花弁――思い出すだけで温度が下がる。
ローザが言う。
「触れるのは君の役目。預かるのは私の役目。――役目さえ間違えなければ、余所者は噛めない」
「うん。二拍で薄くして、三拍目で戻る。戻れなかったら、ローザが灯で塞ぐ」
「それでいい」
波が船腹に当たり、一定のリズムで音を立てた。
ノエルは欄干の木目に指を置く。年輪の筋は温かく、潮風で少しざらついている。木は人より遅い時間を歩く。母はいつもそう言っていた。木の時間で深呼吸をする――昔、庭で教わったやり方を思い出し、肺の底まで空気を入れて吐き出す。
◆
上陸。
護衛の先導で森に入ると、世界の密度が一段、増した。湿った土の匂いは甘く、樹の幹は呼吸するみたいに冷たく、頭上の葉が光を細かくちぎって地面へ撒く。小さな虫の翅が陽を拾って揺れ、遠くでは水音が薄く響いている。
ノエルは足の裏に集中した。靴底越しに伝わる柔らかな弾力、苔の毛羽。踏みしめるたび、世界がこちらを見る。
「目的地は北東の観測塔。途中、三か所の課題地点。撤退も評価する。――“学院の論理”から外れた揺らぎを感じたら、即報告」
護衛の最後の注意が、森の肌に吸い込まれていく。
最初の課題地点は、緩やかな斜面の切り通しだった。両側を覆う苔の緑が、呼吸に合わせてかすかに膨らむように見える。
ローザが剣をわずかに傾け、気配を測る。
「来る」
苔が波打ち、そこから蔦が異様な速度で編まれていく。牙の形、耳の三角、背筋に沿う棘の列――“狼”の形が完成すると、空気が一段低く唸った。
「俺、前!」
陽翔は光輪を大きく展開し、三人を包む暖かい壁を作る。
「ノエル、二拍!」
「――うん」
ノエルは息を整え、掌を開く。ライラックの花弁は最初、風に紛れるほど軽い。二拍で密度を上げ、獣の“目”の奥に映る過去へ、触れる。
獣に過去はあるのか? ――ある。結界が作り上げた命にも、形のための記憶が抽出され、与えられる。その浅い水面にそっと指を差し入れる。
蔦狼の足が半歩、遅れた。
「今」
ローザの声が刃先の方角を決める。剣が地面すれすれに走り、棘の根元を束ねる節を焼き切る。炎は爆ぜず、鍛冶の火みたいに必要な温度だけで必要な場所を焼く。
エリナの幻影が背後に薄い壁を作り、逃走の意志をふっと別方向へ“錯覚”させる。蔦狼は自分の足を自分で絡め、体重の乗った拍で崩れ落ちた。
ノエルは花弁を回収。――二拍きっかり。世界は白まない。
「初戦、良。続行」
護衛の声はあくまで平板だが、目の端が少し柔らかくなったのをノエルは見た。
歩きながら、陽翔が息を弾ませる。
「やっぱ“呼吸”って大事なんだな。ノエルの二拍、俺の胸の鼓動と噛み合って、輪っかが安定する感じがする」
「データでもそう出ている。向日葵の光輪は脈動が揃うと“歪み”が消える」
「エリナはなんでも数式にする」
「あなたはなんでも感覚で言う。その差を埋めるのが連携」
「はーい」
軽口が森の緊張をちょうど良く散らす。ノエルは木漏れ日の粒を指で受けるみたいに、その会話を胸に集めた。
二つ目の課題地点は、沢に架かる木橋だ。
欄干に白い“花”が咲いている――ように見えた。近づくと、それは無数の白い羽虫の群れだった。ほとんど音を立てず、光の当たり方で築かれた“もう一本の橋”を、空中に作っている。
「幻惑型。私」
エリナは眼鏡を押し上げ、静かな声で告げる。
「味方、目を閉じないで。――“純白の誤認(ホワイト・ミスリード)”」
視界の端が、ほんのわずかにズレる。羽虫の列が一列だけ千鳥に組み変わり、偽の橋が“ほんの少し歪んだ影”になる。人の目は整合性の高いものを“本物”と認識する。歪みを故意に差し込むことで、正しい橋の輪郭が脳に“気持ちよい”線として浮かび上がる。
陽翔は光輪の外縁を極薄に延ばし、羽虫を焼かない温度で進路だけを遮る。ノエルは三人の肩口に花弁を軽く触れさせ、呼吸を合わせ続ける。ローザは最後尾で刺の柵を作り、後方からの不規則な突きを牽制する。
橋を渡り切った瞬間、羽虫は一斉に空へ散って消えた。
「撤退合図のテスト」
エリナの提案に、ローザが即座に剣を掲げる。
「――薔薇、空」
紅い薔薇の幻影が空へふわりと咲く。全員が反射で足を止め、ノエルは花弁を回収。二拍。静かな緊張が、合図として体に入る。
護衛が頷く。
「視認性良。反応速度良。続行」
森の匂いは少しずつ深くなっていった。土の甘さに、樹脂のほろ苦さが混じる。頭上の葉は濃い緑になり、光は少しだけ冷たくなる。
ノエルの掌の中で、ペンダントの位置がふと、気になる。襟の内側でチェーンが細く鳴り、銀の輪が鎖骨のくぼみを撫でる。胸の真ん中で、その冷たさは安心の印だ。
三つ目の課題地点は、丘の上にあった。
石の祠。鳥居はない。扉もない。古い石が四角く積まれて、上に小さな屋根。祠の前には、一輪だけ、季節外れのライラックが咲いていた。
ノエルはそこで立ち止まった。
香りが、届く。
初夏のはずなのに、この花は季節をまたいでしまったみたいに、ひそやかに匂う。ペンダントの銀が、不意に重くなった。
「止まるな」
ローザの声が、花を撫でる風みたいに一瞬だけ柔らかく、すぐ硬くなる。
「影が反転する」
祠の影が、こちらへ少し伸びた。太陽は背中側にあるのに、影の向きが、ほんのわずかに辻褄を裏切る。
黒い花弁が二つ、影から浮かび上がる。百合の形。夜の色。
「……“外”の匂い」
エリナの声はさらに薄く、低くなった。
影が裏返る。そこから、狼――いや、狼の“記号”が滑り出した。輪郭は曖昧なのに、速度だけが本物。足が地面に触れる前に次の足が空を蹴る、そんな矛盾の仕方で迫ってくる。
「今」
ローザの合図。
ノエルは二拍で花弁を広げた。世界が薄く白む。いつもなら、そこに“懐かしさ”の水面が見える。幼い日の庭、誰かの笑い声、手の温度。けれど――
(ない)
水面が、ない。
あるのは、香りだけ。冷たい香り。花の形をした“穴”みたいな匂い。
心臓が、ひとつ、乱れた。
ノエルは自分を叱る。――戻れ。戻る前に、繋げ。
花弁を“友情”の側へ切り替え、ローザの肩へ触れる。熱がすぐに返ってきた。ローザの踏み込みが紙一重で加速し、刃の芯に灯が入る。
陽翔の光輪が二重に重なる。合図が光で空に描かれる一瞬手前で、エリナの幻影が敵の足場を半寸ずらす。“速度”だけが本物の相手には、半寸のずれが致命だ。
「――薔薇、空!」
ローザの声。紅い花が空に咲く。護衛の符が弾け、結界の厚みがそこで一段、増した。影が折り返され、祠の中へ吸い戻されていく。
黒い花弁が一枚、空気に取り残された。
ひらり――
ノエルの前に落ちる。
指先が、無意識に、伸びた。
“綺麗”だ、と思ってしまった。冷たいのに、整っていて、悲しいほど綺麗だった。
手首を掴まれた。
強い力。熱。
「触れるな」
ローザの声は怒鳴りではなく、切っ先の鋭さでノエルの意識を切り返す。
黒弁はそれを見ていたみたいに、空中で粉になって、黙って崩れた。
息が戻る。肺が痛い。
護衛が近づき、祠の前に簡易の封印を施す。
「今のは学院の論理の外。記憶を持たない“借り物”だ。よく持ちこたえた。――撤退はしない。観測塔まで行く」
命令口調なのに、声の底に安堵があった。
ノエルは掴まれた手首を見下ろす。うっすら赤い指の跡。熱は、安心の温度だった。
「……ありがとう」
「預かっただけ。君は二拍で戻った」
「戻れた、かな」
「戻った。次は一拍半まで詰めなさい」
「無茶言う」
「目標は高いほどいい」
やり取りの軽さが、さっきまでの冷えを溶かす。ノエルは胸の真ん中に空気を入れて、また歩き始めた。
◆
観測塔は、丘の先に小さく立っていた。
石造りで、古い。螺旋階段を上がると、森の北側が一望できる。海は薄いガラス板みたいに平らで、遠くの結界膜は虹の端だけを持ち帰ってくる。
護衛が魔術レンズを覗き、空気の流れを読む。
「揺らぎ、微弱。――本日の演習はここまで。帰投する」
塔の手すりに肘を置き、ノエルは森を見下ろした。祠は木々に隠れて見えない。けれど、たしかに“外”はそこに触れた。触れようとした。
(怖い)
はっきり思って、胸の内で頷く。怖いと認めると、視界は逆に広がる。木の葉の光、鳥の影、風の段差。全部が少し鮮やかになる。
桜庭先輩の声がよみがえった。“怖がり方を覚えろ”。――今、少し分かった気がする。
階段を降りる途中で、陽翔が振り向いた。
「ノエル、さっきの……大丈夫だった?」
「うん。ローザが止めてくれたし、私も戻れた」
「えらい。えらい!」
「褒め方が犬」
「ひどい!」
「犬は褒め言葉」
「それはそれで複雑!」
笑い声が塔の石壁に柔らかく跳ね返る。笑いは生きている証拠だ。傷ではなく、筋肉で響いてくる。
◆
帰り道は、行きより短く感じた。
手順が体に入り、合図は短く、視線は共有され、足音は揃う。森は相変わらず密だったが、敵意は薄かった。祠のあたりだけ、風の流れが少し違って、そこを過ぎると空気の味が変わった。
港へ戻ると、結界船が静かに待っていた。甲板の木は昼の熱をほんの少し吸い、足裏に柔らかく返してくる。
出航。
海風が制服の布を撫で、髪に塩を運ぶ。ノエルは欄干にもたれ、森を振り返った。
ローザが隣に立つ。
「二拍。よくやった」
「ローザが掴んでくれたから」
「あなた自身が、止まろうとしたから掴めたのよ」
彼女の声は、珍しく、柔らかかった。
「……ありがとう」
「礼は要らない。勝つためにしているだけ」
陽翔が甲板の中央で大の字になって伸びをした。
「うおー、腹減った! 戻ったら食堂直行! カレーあるかな!」
「報告書が先」
エリナに即座に切られ、陽翔は板の上でのたうった。
「報告書カレー味にならないかな!」
「ならない」
「厳しい!」
ノエルは笑いながら、欄干の木目をまた指で撫でた。
木は、人より遅い時間を歩く。今日の木の時間は、きっと穏やかだ。
――そのとき、木目の隙間で、黒が細く光った。
ほんの針の先ほどの、黒い欠片。
誰も気づかない。潮の光に紛れ、木の影に溶ける。
黒い花弁の微かな切れ端は、甲板の隙間にするりと滑り込み、そこでじっと息を潜めた。
◆
学院の港に戻ると、温室から甘い匂いが流れてきた。焼いたパンの香り、ハーブの蒸気。人の声が風に乗って行き交い、島はいつもの、少し騒がしい午後を始めるところだ。
護衛の点呼が終わる。
「各組、荷の整理と報告の準備。怪我の申告がある者はこの場で」
誰の手も上がらない。小さな擦り傷はそれぞれの符とスプレーで処置済みだ。
ローザがノエルの手首を顎で示す。
「赤い」
「うん、でも……残っててほしい」
「なぜ」
「“触れない”って、忘れないために。痛い方が、忘れにくいから」
ローザは少しだけ目を細め、そして頷いた。
「なら、夕方まで残っていれば十分」
「うん」
寮までの道を歩く。藤棚の下は昼の熱で香りが立つ。花の房の影が石畳に落ちて、風が通ると影だけが先に揺れる。
「ノエル、食堂」
「報告書」
「報告書の下書き、食べながらできる」
「できない」
「じゃあ俺が口で喋るから、エリナが入力して」
「私の指はあなたの口の速度に対応していない」
「悲しい!」
そんな他愛のないやり取りの向こうで、島の空は少し高くなっていく。結界膜は相変わらず、虹の端だけを返してくる。
ノエルはふと、胸の中で言葉を結んだ。
(私は、私の花で守る。――みんなを)
呪文。
自分を定義し、明日に続けるための、やわらかな呪文。
◆
報告は淡々と進んだ。連携の評価、撤退合図の確認、祠での“外”の揺らぎの記録。黒い花弁に直接触れなかったことを告げると、教官は短く頷いて「良」と記した。
「明日以降、祠の周辺は上級班が再調査する。君たちは通常授業に戻れ。ただし、藤咲」
「はい」
「二拍を維持できている間は良い。だが、相手が“記憶の形を持たない”場合、君の花は“香り”だけで触れることがある。香りは境界の外へ届きやすい。そこに気をつけろ」
「……はい」
香り。――たしかに、あの黒弁は“香り”だけだった。
香りは目に見えない。けれど、世界の裏側に薄く染み込む。触れたことのないものにも、触れられてしまうことがある。
教室を出ると、廊下の窓から夕方の光が入っていた。塔の陰が長く伸び、芝生はまだ熱を抱いている。
ローザが肩を並べる。
「夕練、少しだけ」
「うん」
温室の裏手、小さな芝の一角。陽翔は食堂で山盛りの皿と格闘中らしく来なかったが、エリナはノートを持って付き合ってくれた。
「二拍で薄く、“香り”に寄りすぎない。――それを繰り返す」
「香りに寄りすぎない、って?」
「香りは“懐かしさ”への最短路。でも、匂いは時に“別の誰かの記憶”を呼ぶ。君が呼びたいのは“敵の懐かしさ”か、“味方の友情”」
エリナの言葉は一本、細い糸みたいに真っ直ぐだ。
ノエルは頷き、花弁を散らす。二拍。戻る。二拍。戻る。
ローザが時折、「今」と短く合図する。その度にノエルは花弁の密度と“触れ方”を微調整する。隣でエリナのペンが紙の上を走り、データが取られていく。
夕焼けは熱を失い、芝に夜が薄く降り始めた。
「今日はここまで」
ローザが剣を納める。
「ありがとう」
「礼は――」
「勝つため」
「そう」
短い笑いが重なって、三人は寮へ戻る。温室の灯りが一つ、また一つ、暮色の中に浮かぶ。
ノエルは廊下を歩きながら、ふと足を止めた。
――木の床の、きしみ。
いつもの音。なのに、一拍だけ、遅い。
気のせい? 耳を澄ます。
……何もない。
けれど、胸の中で昨日の黒い花弁が、ひゅ、と細く揺れた。
◆
夜。
ベッドに横たわり、天井を見上げる。木目は昼より濃く、海の音は昼より近い。眠気はある。今日の体の疲労は、爽やかで、痛みの質が練習後の筋肉と同じだ。
目を閉じると、花弁が降る。二拍で薄く、三拍目で戻る。ローザの手の熱。陽翔の光の輪。エリナの静かな筆圧。
(大丈夫)
言葉は呪文。心はゆっくり深く、海の底へ落ちていく。
眠りの縁で、ペンダントが胸の上で小さく鳴った気がした。銀の音。母の庭の音。
――そのころ、港の暗がりで。
昼間、甲板の木目へ滑り込んだ黒い欠片が、じわ、と形を変えた。
花弁は花弁のままではいられない。誰かの記憶に触れられなかった“香り”は、別の形を探す。
黒い点は、木の汁と塩の結晶を舐め、夜露を吸い、やがて見えないほど細い糸になって、船縁の釘の隙間から港の板へ落ちた。
風がそれを拾い、温室の排気口の影へ運ぶ。
温室のガラスは固い。だが、香りはガラスを通らないと、誰が決めた?
黒い糸は、ガラスの縁をなぞり、パッキンの奥へいったん身を潜め、そして――
ただ、待った。
◆
朝が来れば、また鐘が鳴る。
けれど、今は夜。島は大きな花の蕾みたいに、静かに閉じている。
ノエルは夢の中で、薄紫の庭に立っていた。
花弁は触れない。けれど、確かに触れる。
遠くで、誰かが呼んだ気がする。
母の声ではない。
でも、知っている響き。
ノエルは振り向く前に、二拍で薄くした。
香りは、流れ、遠ざかる。
次の瞬間、目覚ましが鳴るより早く、潮の匂いで目が覚めた。
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