第3話「初めての連携実技」
朝の海は、昨日よりもすこし青かった。
鳥のさえずりが結界の天蓋に沿って滑り、校舎の塔の鐘が八つの小さな音で応じる。寮の廊下には濡れた木の香りが漂って、まだ眠そうな一年たちの足音をやさしく包んだ。
「よし、行こう!」
陽翔が食堂で配られたパンを片手に、反対の手で窓の鍵を確かめる。口いっぱいに向日葵パンを詰め込みながらも、声は相変わらず明るい。
「飲み込んでから話せ」
エリナはトレーを重ねて棚に戻し、ハンカチで指先を拭いた。ノエルは二人の間で笑い、ペンダントを襟の内側へしまい込む。
「今日から本格的な授業なんだよね」
「うん。“基礎花術Ⅰ”と“連携実技”。午後は座学で“花言葉史”。配布表によると、担当は――」
「ミスティ先生だよ。百合の紋章の」
「正確には“白百合(マドンナ・リリー)”。幻惑系統の博士号持ち。厳しい」
「怖い?」
「事実を述べただけ」
三人で並んで花園広場へ向かうと、既に多くの新入生が集まっていた。制服の袖に走る色はそれぞれの寮の色――藤、向日葵、百合、桜、薔薇。噴水の縁に腰掛ける者、芝に寝転ぶ者、柔軟をする者。世界中から来た「花の卵」たちが、朝の光の中でそれぞれの癖を見せている。
広場の端、白い壇に教官が上がった。灰色のスーツに百合章、凛とした立ち姿。ミスティ=アン=ラングレー。昨日の入学式でスピーチをした学院幹部の一人でもある。
「諸君。今日から学院の“季節”が始まる」
低くよく通る声が、風の粒子を整えるように広場へ広がった。
「花は、一輪だけで咲くこともできる。だが、群生して季節を作ることもできる。本学が求めるのは後者だ。個の美しさと、連帯の強さ。――午前は“基礎花術の連携実技”。二人一組で、用意した幻影獣を制圧して見せよ。評価するのは“安全”“制御”“創意”の三点だ」
広場がわずかにざわめく。ミスティは視線を横切らせ、片手を挙げた。
「ペアは自由。が、こちらからの指定を優先する。……紅城、藤咲」
名前を呼ばれ、ノエルの背筋に微かな電気が走った。
ローザは人垣からすっと現れ、いつもの落ち着いた笑みを浮かべる。
「昨日の続き、というわけ」
「……うん。よろしく」
陽翔が「おおー」と感嘆の声をあげ、エリナは腕を組んで小さく頷いた。ミスティは他の組もいくつか指名し、手帳を閉じる。
「では、演習場へ移動」
◆
演習場「花園アリーナ」は、昨日の披露と同じドームだが、内部の景色は変わっていた。朝露を含んだ森、小さな丘、浅い川。透明な天蓋から落ちる光は、樹の葉を透かして揺れ、空気には土と水の匂いが満ちている。
「視界、良好。観客席に二年と三年がいる。……見物だ」
エリナが眼鏡のブリッジを押し上げ、観客席をちらりと見る。桜色のリボンが一つ揺れた。桜庭蓮司が、下級生の演習に目を向けている。ノエルは胸が少しだけ高鳴るのを感じた。
教官が説明する。
「幻影獣(ファントム)は学院の結界が造る人造の敵だ。実体は薄く、よほどの怪我にはならない。しかし、油断はさせない。今回の相手は“影狼(シャドウ・ウルフ)”。敏捷性が高く、連携の呼吸が合っていない組を食い破る。……さあ、最初の組」
名前が呼ばれては、ペアが出ていく。
水の花術と風の花術の連携、百合の幻惑で目を眩ませ薔薇の棘で足を止める連係、蓮の浄化で仲間のバフを上書きし向日葵が光の槍を撃ち出す構成――拍手と歓声が交互に起こり、観客席の上級生からも感嘆の口笛が上がる。
「……みんな、すごいね」
「初日とは思えない。だが、一つ一つの技は派手でも、呼吸はまだ浅い。君らの番では“呼吸”を見せるべき」
「エリナの言う通りだ。ノエル」
背後から声がして、ノエルは振り返る。ローザが肩の力を抜いた笑みで立っている。近くで見ると、赤のリボンは朝の光でほんの少し透明に見えた。
「私の炎は、侵略的よ。押す力が強い。だから、君のライラックで“焦燥”を削いで。私の刺は、君の花の上でなら、より深く“届く”」
「うん。相手の心の動きを鈍らせる。君の突きのタイミングに合わせて、花弁を重ねる」
「いいわね。――私の合図は『今』」
短い打ち合わせ。それだけで充分だった。
ローザの目の底で、炎はもう穏やかに燃えはじめている。ノエルはペンダントを指先で押さえ、深く息を吸った。
「藤咲ノエル、紅城ローザ。前へ」
◆
円形の草地へ二人が進む。観客席からざわめきが立ち、どこかから「伝説の娘だ」「薔薇の令嬢と組むのか」と囁きが風に乗る。ノエルは全部、手のひらから滑り落ちる砂のように流していく。今は、目の前の緑と光と、隣の赤だけ。
影狼が現れる。
黒い毛並みは光を吸い、目は琥珀色に光った。牙の形は脅すために美しく、四肢はしなやかに土を掴む。低く唸り、影が地面に溶けて伸びる。
「行くわよ」
「うん」
最初に動いたのはローザだ。軽やかな踏み込みで間合いを詰め、剣を半身で構える。刃の根元に小さな蕾が咲く。炎はまだつけない。薔薇の刺だけを伸ばし、影狼の足に絡める。
「刺す」
棘が土を裂き、影を縫う。影狼は後ろ足を引こうとしてわずかに躓き、怒ったように咆哮した。その瞬間、ノエルが指先を広げる。
――花弁。
薄紫の光がローザの背に沿って立ち、視界の縁にやわらかな霞をかける。ノエルは呼吸を一定に保ちながら、花言葉を胸の内でそっと撫でた。
(思い出は、焦りをほどく。友情は、力を重ねる)
花弁がローザの肩口に触れ、微かな鼓動を拾って共鳴する。
ローザの足さばきが、わずかに滑らかさを増す。剣の先は風を切り、棘は影の縁を刺し貫く。影狼が低く跳躍――ローザは半歩だけ外へ滑って、爪を紙一重で外す。
「今」
合図。
ノエルは花弁の密度を上げ、影狼の両目の前に二片だけ光を置いた。触れない。けれど、視界の奥で“懐かしさ”が瞬く。獣に懐かしさがあるのか? ある。生み出したのが結界だとしても、形を取ったものには必ず、どこかの「経験」の模写が宿る。影狼は一瞬だけ戸惑い、ローザの足元の棘がその隙を逃さず伸びた。
「――紅蓮薔薇(クリムゾン・ロゼ)」
蕾が開き、炎が一筋、剣の刃に沿って走る。
火は派手に爆ぜない。薄く、鋭く、棘の芯だけを焼き入れる。狙いは拘束の強度を上げ、逃げた影の輪郭を焼き固めること。ローザの炎は、見た目の華やかさほどに荒くない。鍛冶屋の火だ。必要なところだけに、必要な温度。
「ノエル」
「うん――“共鳴開花(レゾナンス・ブルーム)”」
ノエルは両手を胸の前で交差させ、花弁を一気に膨らませた。紫の薄膜がローザの背から腕へ、剣へ染み込み、熱と熱の調和をとる。観客席から、わっと歓声が上がる。花弁は次の瞬間、散って消えた。代わりにローザの足元の炎が一瞬だけ明るくなり、影狼の影が“影ではなくなった”。
逃げ場を失った狼が身をよじる。ローザは迷いなく踏み込み、刺す。
刃は喉元に届かない。届く寸前で止まり、炎だけがさっと走った。影はほどけ、狼は霧になり、朝の光の中に溶けて消えた。
沈黙。
そして、爆ぜる拍手。
「やった……!」
ノエルは喜びと同時に、胸の奥の糸をそっと緩めた。花弁の膜を回収する。呼吸を深くして、余韻を体の外へ流す。ローザが剣を納め、こちらに顎をしゃくった。
「悪くない」
「ローザがすごいから」
「否定はしない。けど、今のはあなたの“触れ方”が正確だった。私の“熱”に、あなたの“間”が合った」
ローザは一瞬だけ口角を上げ、それから視線を遠くへ向けた。観客席から陽翔が「ノエルー! ローザー!」と手をぶんぶん振っている。エリナは顔の前で軽く拍手し、口の形だけで「美しい」と言った。
(――あ)
ノエルの視界が、ふっと薄く白む。
音が少し遠い。足の裏の感触が、一瞬だけ綿になる。
「藤咲」
ローザの声が、白の中で細い糸のように引っかかった。ノエルは瞬きをして、呼吸を一つ増やす。白は、潮のように引いていった。
「……ごめん。大丈夫」
「今のは三呼吸。次は二呼吸で戻して」
「うん」
観客席の歓声は続き、教官が短く評価を述べる。「安全。制御。創意。三項目、良」。短い言葉の中に、最大限の賛辞が含まれていた。
◆
演習は昼まで続いた。
各組の工夫は千差万別で、ノエルは観客席に移ってメモを取りながら見入った。陽翔とエリナは次の枠でペアを組み、向日葵の結界の内側で百合の幻影を走らせ、影狼の突進を空振りさせてから光槍で仕留めるという鮮やかな手を見せた。終わって戻ってきた陽翔は汗だくで、けれど満面の笑みだった。
「見た!? 見た!? 俺、ノエルの真似して“呼吸”ってやつ意識したら、けっこううまくいった!」
「真似じゃないよ。陽翔の向日葵、すごくしっかり“守ってた”」
「だろ? エリナが“守れ”って顔で見てくるからさあ」
「顔では言っていない。言葉で言った」
三人で笑う。そこへ、ペットボトルの水が差し出された。ローザだ。汗ひとつかいていないように見えるが、首筋の髪が少しだけ貼りついている。
「糖分。取っておきなさい」
「ありがとう、ローザ」
「別に。……午後は座学。寝るなよ、向日葵」
「寝ない寝ない! 俺、座学も得意! たぶん!」
「“たぶん”を消してから来い」
ローザは踵を返し、去っていく。その背中を見送りながら、ノエルは胸の中でひとつ息を長く吐いた。
そのとき、ふと視線を感じて振り向く。観客席の上段、桜庭蓮司がこちらを見ていた。彼は無駄のない仕草で親指を立て、ほんの少しだけ笑った。ノエルの頬に熱が差す。
「先輩、見てくれてた」
「見ていた。評価も、良」
「うん、嬉しい」
陽翔が「俺のも見てくれてたかな!」と身を乗り出し、エリナが「たぶん」とだけ返す。鐘が昼を告げ、演習はひとまず終了した。
◆
昼食は芝の上で、簡素なランチボックス。サンドイッチのレタスは瑞々しく、ハーブの香りがほんのりと鼻に抜ける。陽翔は二つ目をあっという間に平らげ、三つ目に手を伸ばしながら「座学、眠くなったら起こして」と宣言した。
「自分で起きろ」
「エリナ……君は僕の母か何か?」
「百合だ」
ノエルは笑いつつ、さっきの自分の“白”を思い出す。ほんの三呼吸の空白。
重くない。怖くもない。けれど、ローザの言う通り、実技の最中にあれが長引けば危険だ。
軽く首を振る。過剰に気にしない。気にしすぎると、視線が足元に落ちる。
「ノエル」
声をかけてきたのは、ミスティ先生だった。近くで見ると、瞳は薄い灰色で、光をよく映す。
「はい」
「午前の連携、良かった。特に“触れて離す”の距離感。君の花術の肝だ。忘れるな」
「はい」
「それから――」
ミスティは少しだけ声を落とし、周囲の雑音に紛れるように言葉を続ける。
「母君の記録は、必要なら閲覧を申請していい。ただし、今は演習を優先しなさい。真実は逃げない」
ノエルは、ほんの少しだけ目を見開いた。「はい」とだけ返す。ミスティはそれ以上何も言わず、次の生徒へと歩いて行った。
(学院は、やっぱり知ってる)
胸の奥の一角で、冷たい水が波紋を広げ、やがて消えた。ノエルはランチボックスを閉じ、午後の授業に向けて立ち上がる。
◆
午後の講義室は、石造りの半円形。段状の席から中央の演壇を見下ろす形式で、背面の壁には季節ごとの花のレリーフが並ぶ。百合、薔薇、蓮、菖蒲、桜、藤。ノエルは自分の席から藤のレリーフがよく見える場所を選んだ。
「“花言葉史”では、花がどのように言葉を宿し、力と結びついていったかを扱う」
ミスティの声は、午前よりわずかに柔らかい。授業の声だ。
スクリーンに古い手稿の写真が映る。中世の修道院、東方の宮廷、砂漠の都市。花はどの時代にも、祈りと呪いの両方に寄り添っていた。
「たとえば、ライラック。諸説あるが、“初恋”“友情”“思い出”の意味を帯びたのは比較的近世だ。……君たちは意味を機械的に暗記する必要はない。重要なのは、意味が“誰かの体験”から生じて広がった、という事実だ。花は、人の心に住んでいる」
ノエルはノートにペンを走らせながら、視界の端で陽翔がまぶたと戦っているのを見た。エリナは教科書の余白に要点を簡潔にまとめ、時折、ノエルのノートの縁を指で“ここ”と示してくれる。
母のノートの筆跡が脳裏をよぎり、ノエルは胸が少し温かくなる。
「最後に、連携について一つ。花は混ざるとき、相互に意味を補完し、増幅する。午前の“薔薇×ライラック”は好例だ。薔薇の“情熱”は暴走の危険を孕むが、ライラックの“思い出”が間を置くことで、熱は刃物ではなく灯りになる。逆も然りだ。灯りは熱がなければ昇らない」
言葉は、ノエルの胸の真ん中に静かに置かれた。ローザの横顔も、同じくわずかに柔らいで見えた。
◆
授業が終わると、短い自由時間が与えられた。ノエルは教科書とノートを抱え、温室の隅へ足を向ける。昼の人のざわめきが引き、温室の奥は植物の呼吸の音だけになっていた。
ライラックの鉢植えがいくつか並び、窓からの光を受けて葉脈が鮮やかに透ける。ノエルは一番小さな鉢の前に座り、指先でそっと葉に触れた。
「ねえ、私は、どう? ちゃんとできた?」
葉は返事をしない。けれど、土の温度が彼女の体温に近く、世界はたしかにそこに在ると告げている。
「――伝説の娘が植物と会話?」
背後から軽い声。ノエルが振り向くと、ローザが柱にもたれて立っていた。
彼女はノエルの隣に腰を下ろし、きちんと折りたたまれたハンカチでベンチの木の屑を払う。
「さっきの講義、あなたの話だったわね」
「うん。ちょっと、照れた」
「照れてる顔も似合う」
「ローザは褒め上手だね」
「事実を述べただけ」
二人は少し笑い、ライラックの鉢を見つめる。
温室のガラスの向こうを、薄い雲が流れていく。日差しが少し陰り、葉の影が揺れた。
「……ねえ、ローザ」
「なに?」
「私、あなたと組めてよかった。すごく」
「私も。――ただ」
ローザは言葉を少し探し、視線をガラスに向けた。
「あの“空白”。次は短く。あなたが美しいほど、敵はあなたを狙う」
「分かってる。練習する」
「練習で治る類いかは分からない。でも、向き合えば短くはできる」
「うん」
ペンダントが胸の中で、やわらかく揺れた。
◆
夕方。
寮に戻る前、ノエルは書庫に寄った。学院の中央塔の一階、冷たい石の部屋に、紙と革の匂いが積み重なっている。受付の初老の男性が、微笑を深くした。
「新入生。何を探す?」
「母の記録……は、今はやめときます。授業の参考書を少し」
「賢明だ。若葉には、まず陽を」
貸出手続きの間、ノエルは部屋の隅にあるガラスケースに目を止めた。古い、色褪せた写真が収められている。若い女性が三人、肩を並べて笑っていた。
中央の女性の髪は淡い金で、目は少し笑いすぎて細くなっている。ライラックの枝を額に掲げ、子どもみたいに笑っている。
(……お母さんだ)
息が、すこしだけ止まった。
写真の下には小さなプレートがあり、〈第十二期 卒業記念〉と刻まれている。隣には、今の学院長の若い頃だろうか、同じ笑い方の女性がいた。
「貸出は二週間。延長は書庫の端末から」
「ありがとうございます」
ノエルは本を抱え、ガラスケースに小さく会釈して書庫を出た。胸に残った余韻は、甘くて、少しだけ痛い。
◆
夜。
藤寮の窓からは、今日も庭の灯りが見える。陽翔は机でペン回しの練習をし、エリナは明日の時間割をもう一度確認している。ノエルはベッドの上で、昼に借りた本をめくった。ページの端で、ライラックの花言葉の由来が静かに説明されている。
と、そのとき、窓の外で影が動いた。
「……?」
ノエルはそっと立ち上がり、カーテンの隙間から覗く。
藤棚の下、薄闇が少しだけ濃くなる。目が慣れると、遠くの生垣の向こうで、人影二つが低く身をかがめた。
「エリナ」
囁くと、エリナは即座に顔を上げ、眼鏡を指で押さえた。陽翔はペンを落とした音で事態を察し、「忍び足モード」を勝手に発動する。
「不審者?」
「外套。動きは訓練されている。学院の生徒ではない」
「黒百合?」
「断定はできない」
三人は声を最小限にしながら、廊下へ出た。寮監へ連絡。寮監から護衛へ通報。手際は滑らかで、誰かが走る音が階下で重なった。
「ノエルは部屋に。危険」
「でも――」
「でも、は無し」
エリナの目は真剣で、冷たいわけではなかった。ノエルは唇を噛み、首を縦に振った。
「分かった。……気をつけて」
護衛が外へ走り出る。結界の縁に沿って人影が動き、ほどなくして気配は消えた。寮監は「獣の可能性もある」と苦笑して、その夜の巡回を二倍に増やすと告げた。
部屋へ戻っても、胸の中のざわざわはすぐには収まらなかった。窓の外に目をやると、桜寮の庭で蓮司が護衛と話し、頷いていた。目が合うと、彼は「大丈夫」と口の形で告げ、指で円を作って見せた。
ノエルは胸の奥の糸をそっとほどき、深く息を吸う。
「大丈夫だよ。結界もあるし、護衛もいるし」
陽翔が言い、エリナが短く「大丈夫」と重ねる。声の温度が、同じだった。
◆
島の外れ、結界の外。
背の高い草の中で、黒い外套の二人が身を伏せる。海の風は冷たく、湿った土は音を吸う。
「近い」
「近すぎる。学院の護衛の反応が早い」
「だが、確認は取れた。ライラックは“触れる”。薔薇は“燃やさない”。――組み合わせの妙」
「計画を前倒しに?」
「焦るな。花は、焦らせると香りを落とす」
ひとりが草を撫で、葉先の露を落とした。
もうひとりが掌を開く。そこには黒い花弁が一枚、音もなく揺れていた。
百合の形。だが、夜の色。
「黒百合は、手折られた記憶の香りを好む。……あの娘の“空白”は、美味だ」
「次の校外実習で、接触の機会がある」
「“向こう”とも連携を取れ。学院の内部は、まだ――」
言葉は、海の風にちぎれた。
◆
消灯の少し前。
ノエルはシャワーを浴び、熱を鎮め、髪を乾かし、ベッドに身を沈めた。天井の木目がぼんやりと流れ、窓の外の灯りが網戸の目を通って柔らかく滲む。
「ねえ、ノエル」
陽翔がロフトの上から囁く。
「ん?」
「今日、かっこよかった。……なんか、さ。君が花弁を広げた瞬間、世界が“よくなる”感じがした」
「ありがと。陽翔の光も、世界をあったかくする感じだよ」
「へへ」
「寝ろ」
エリナの声は短いが、優しい。
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
「おやすみ」
静かな夜。
瞼を閉じると、朝のアリーナの風がまた頬を撫でた。花弁。炎。呼吸。合図。
白い空白が、端の方で小さく光っている。ノエルはそこに指を伸ばし、そっと触れる。冷たくも熱くもない。触れたら、少しだけ輪郭が分かった。
(大丈夫。短くできる)
言葉は、呪文だ。
自分を定義し、明日に続けるための、やわらかな呪文。
(私は、私の花で守る。――みんなを)
眠りは、海の音に似ていた。
遠くで、鐘がひとつ、遅れて鳴った。
――――――
※次回予告
第4話「ペアの条件」――校内ランキングの発表、ノエル&ローザに科せられる“追加課題”。そして、近づく校外実習の影。
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