第2話「花寮の日常」

 入学披露試験が終わると同時に、島の風は少し柔らかくなった気がした。

 緊張と期待の混じった熱が、芝の上に淡く漂っている。アリーナから出てきた新入生たちは、係の上級生の案内でそれぞれの寮へ向かって歩き出した。


「新入生、こちらへ。藤寮は西庭の藤棚を抜けた先です」


 凛とした声に導かれ、ノエルは陽翔とエリナと並んで小径を進む。夕陽が石畳の縁を金色に縁取り、風鈴のように揺れる葉擦れが耳に涼しい。


「藤寮、か……名前からして運命感じるねぇ、藤咲ノエルさん」


 陽翔が口笛をまじえ、肩越しに笑う。


「運命というより、語呂合わせ的な……」


「でも、似合う。君の花は“寄り添う”香りがする。藤の蔓にも似た、しなやかな支え方」


 エリナが淡々と評した。褒められているのだと分かるのに、言葉が理屈っぽくて、ノエルは思わず笑ってしまう。


「ありがとう。エリナのそういうとこ、結構好き」


「そう」


 返事は短いが、頬がほんの少しだけ緩んだのをノエルは見逃さなかった。


 藤棚の下は、昼間よりも紫が濃い。房のひとつひとつが風にゆれ、光をかすめるたびに色が変わる。藤棚を抜けると、あった。


 ――藤寮。


 瓦屋根の二階建て。端正な白壁に、濃い紫の蔓が緩やかに絡む。玄関の上には古い真鍮のプレート。〈藤寮 Fujiryo〉と刻まれている。どこか和風で、どこか洋風。まるでノエル自身の出自を鏡にしたような佇まいだった。


「きれい……」


 思わず漏らすと、案内役の上級生が微笑む。艶やかな黒髪をポニーテールにまとめた、凛とした人だ。胸のバッジには桜の紋。


「藤寮は“静かな協調”がモットー。騒ぎたければ向日葵寮へ。熟考したければ百合寮へ。舞いたければ桜寮へ。――ここでは、よく聴いて、よく話すこと」


「はい!」


 陽翔が元気よく返事をし、エリナが小さく頷く。ノエルも「よろしくお願いします」と頭を下げた。



 部屋は三人部屋だった。

 白い壁に薄紫のライン。窓辺には藤色のカーテン。木の床は素足に心地よく、中央には丸いラグ。ベッドが二つと、ロフトベッドが一つ。小さな机が三つ並び、それぞれの上に名前札が置かれている。


「わぁ、可愛い!」


 陽翔が、なぜか一番にロフトへ駆け上がった。


「ここは俺が――」


「あなた、向日葵寮では?」


「向日葵寮は向日葵寮でベッドあるけど、今日は“同室割当発表までの仮部屋”だって。だから最初の夜は、種別混合の“花見部屋”。つまり僕はここで一泊。エリナさん、怖い顔しないで」


「怖い顔はしていない。ただし散らかすな」


「散らかしません! たぶん!」


 陽翔は荷物をぽいぽいと投げ……かけて、エリナの視線に気づき、慌てて畳み直す。ノエルは笑いながら、ベッドサイドに小さなポーチを置いた。銀のペンダントが、昼間の光を少しだけ残している。


「ノエルはどっちがいい? ロフトか、窓際か」


「窓際、好き。風が通るから」


「じゃあ、窓は君の特等席だ。夜、星見れるといいね」


 陽翔の声はいつも、少しだけ太陽の匂いがする。


「消灯は二十二時。起床は六時半。朝の寮清掃当番は当番表で回す。風呂は二十一時半まで。洗濯は週三回、共同。――以上」


 エリナが壁の掲示を読み上げ、ぴしっと指で要点を押さえる。


「はい先生」


「先生ではない」


 そんな調子で、三人の距離は自然に縮まっていく。ノエルは荷物をほどきながら、棚に母から受け継いだ古いノートをそっと並べた。ライラックの花言葉や、古い花術の断片が走り書きされている、宝物。


「それ、見てもいい?」


 陽翔が身を乗り出す。ノエルは一瞬迷ってから、頷いた。


「いいよ。でもボロいから、そーっと」


「了解。へぇ……字、綺麗だね。これ、お母さまの?」


「うん。幼い頃、一緒に庭で花を見ながら、書いてた」


 ページをめくる指先に、小さな震えが生まれる。エリナが静かに視線を落とした。


「……君の花術には、言葉の選び方が丁寧だと思っていた。納得」


「ありがと」


 ノエルはノートを閉じ、胸のざわめきをそっと息に変える。

 今日は嬉しいことがたくさんあった。怖いことは、まだ来ていない。来るとしても、三人で立てばきっと耐えられる――そんな、根拠のない確信が心に根を張った。



 寮の一階は温室につながっている。夕食は温室の食堂で取ることになり、三人は連れ立って階段を降りた。


 ガラスの扉をくぐると、ふわりと温かい香りに包まれる。オレンジ色のランプシェードは花の形で、天井には蔓が這い、テーブルの上には小さな一輪挿し。皿の上のパンは向日葵の種が香ばしく、スープにはハーブの影。国籍も系統も違う生徒たちが、同じテーブルで笑っている。


「食べよ食べよ! ほら、薔薇ティー! 桜ゼリー! 向日葵パンは僕の自慢!」


「自慢の意味がわからない」


「向日葵だから!」


「意味はない」


 エリナがぴしゃりと切る。ノエルは笑いをこらえ、トレイを持って列に並んだ。カウンターの向こうには学院の調理部の人たち――花術で火加減を調える者、氷でデザートを固める者、香りを立てる者。厨房もまた、ひとつの“花園(ガーデン)”だ。


「ライラックティー、ありますか?」


 勇気を出して訊ねると、年配の女性がにっこりと頷いた。


「あるよ。今日は入学祝いだものね」


 透き通る薄紫の茶が、白磁のカップに注がれる。香りを嗅いだ途端、胸の奥でなにかがほどけた。


(……この香り)


 庭。春の気配。母の影。幼い自分の笑い声。

 ノエルはそっと唇をつけ、目を閉じる。甘くて、少しだけ切ない。


「ノエル?」


「あ、ごめん。美味しくて……少し、思い出しただけ」


「うん。そういう顔も似合う」


 陽翔は照れもなく言うから、困る。エリナはスプーンを置いて小声で付け加える。


「感情の振れ幅が大きいのは、共鳴者の美点。ただし、揺れすぎると“隙”になる。ほどほどに」


「了解、エリナ隊長」


「隊長ではない」


 三人で笑った。笑うと、さっきまで胸に残っていた緊張が、少しずつほどけていく。



 食堂の出口で、紅の色が視界の端をかすめた。

 ローザだ。背筋は真っ直ぐ、歩幅は迷いがない。生まれつきの主役の歩き方。


「藤咲」


 呼び止められる声は、冷ややかで、しかし礼儀は失っていない。


「入学披露、見事だったわ。“触れて離す”――上出来」


「ありがとう、ローザ。あなたの薔薇も、綺麗だった。強いのに、怖くない炎」


「褒め言葉として受け取る。……戦場では、炎は必ず何かを焦がす。私はそれを知っている」


 ほんの一瞬、彼女の瞳に影が走った。陽翔が空気を変えるように前へ出る。


「ローザさんも食べた? 向日葵パン」


「不要」


「不要!!?」


「冗談。少し、いただく」


 ローザは角砂糖を一つ、紅茶に落とし、匙を置く。その動きまで様式美だ。

 彼女はノエルへ視線を戻す。


「近いうちに、連携実技がある。――あなた、私と組む?」


 ノエルは瞬きした。昼間、自分から持ち掛けた提案を、逆に投げ返された形。陽翔が「えっ」と声を漏らし、エリナが静かに眼鏡を押し上げる。


「いいの?」


「試してみたいの。あなたのライラックが、私の薔薇に何を見せてくれるのか」


「……うん。嬉しい」


「ただし条件。さっきの“空白”。あれは実技中に出すな」


 ノエルは一拍置いて、頷いた。


「努力する。――ありがとう、ローザ」


「礼は要らない。勝つためよ」


 ローザは紅茶を飲み干し、踵を返す。残る香りは深紅。夕暮れの風が、ふっと冷たくなった。


「ノエル、すごいなぁ……ライバルに自分から“組もう”って言うなんて」


「だって、合う気がしたから。ね、エリナ?」


「理屈は通る。薔薇は刺の圧力、ライラックは精神の緩和。組み合わせれば、攻防の速度が上がる。……ただし、感情的な揺れに注意」


「了解。ほどほどに、ね」


「ほどほどに」


 三人はまた笑い、階段を上がった。



 夜の藤寮は、外より少し暖かい。廊下の灯りは弱く、足音が柔らかく吸われる。

 風呂上がりの湯気がまだどこかに残っていて、壁の藤色が少しだけ霞んで見える。


「ふぅ~~最高! 学院のお風呂、広いし花の入浴剤入ってるし!」

「騒ぐな。夜は静かに」


「はい!」


 陽翔の髪はタオルで雑に拭かれ、エリナの髪は完璧に乾いている。ノエルは窓を少しだけ開け、夜の匂いを吸い込んだ。遠くで、波が静かに岩を叩く音。

 ベッドに腰を下ろし、髪をとかす。木の櫛がさらさらと音を立て、指の間を滑っていく。


「ねえ、陽翔。向日葵って、どうしてあんなに“前を見てる”感じがするんだろ」


「うーん、太陽のせいじゃない? “見つめる”って花言葉、けっこう本気でさ。僕、つい誰かを見守りたくなる。……ノエルも、気をつけてよ? 君のこと、みんな見てるから」


「分かってる。ありがと」


 エリナがベッドライトを調整し、ノートを開く。ノエルはカーテンを半分閉め、窓辺に座った。外の庭は薄い光に包まれている。藤棚の向こうに、別の寮――桜寮の庭。

 そこに、ひときわ軽やかな光が舞った。


「あ――」


 桜だ。月明かりの下、薄桃色の花びらが空気に溶ける。

 そしてその中心に、人影。

 桜庭蓮司。昼間の先輩だ。剣を抜き、すっと姿勢を整え、ひと息で世界の余計な音を切る。

 舞。

 刀身は光を撫で、花びらは軌跡を可視化する。踏み込み、払い、返す。ひとつひとつの動きが水面に描く波紋のように、次の型を呼び込む。

 ノエルは息をするのを忘れて、見入った。


「……すごい」


「うん、すごいね」


 いつの間にか陽翔も窓辺に来ていて、二人で並んで見下ろす。エリナはベッドからだけちらりと視線を投げ、ページをめくった。


「憧れる」


 ノエルの口から、自然と言葉がこぼれた。


「僕も。――いつか、あの人の背中に並びたい」


「うん」


 花が散り、また舞う。

 剣が収まり、先輩は静かに頭を垂れた。誰に向けてでもない礼。ノエルは胸の中でそっと同じ動作を真似る。



 消灯。

 三人はベッドに潜り込み、それぞれの呼吸が部屋を満たす音になった。

 ノエルは天井を見上げ、指先でペンダントをつまむ。金属の冷たさは、考えすぎた心をまっすぐにしてくれる。


「ねえ、ノエル」


 暗がりの中、陽翔が囁いた。


「ん?」


「……楽しいな」


「うん」


「明日も、きっと楽しい」


「うん」


 エリナが小さく咳払いをして、同じく囁く。


「早く寝ろ」


「はーい」


「はーい」


 笑い声が布団の中で転がり、やがて潮騒と一緒に静かに沈む。

 瞼の裏に、薄紫の光が点々と灯った。昼の花弁の残り香。触れて、離す。優しい力。

 ノエルは心の底で言葉を結ぶ。


(私は私の花を咲かせる。――みんなと、ここで)


 眠りは浅くも深くもなく、ただ温かかった。



 同じ頃。学院島の外れ、結界の縁(へり)。

 深い草むらの影に、二つの人影がうずくまっていた。月は雲に隠れ、風は藤棚の方へ向かって吹き抜ける。


「確認。ライラック、発現。共鳴域は広い。噂通りだ」


「学院の結界、今日は厚い。踏み込めない」


「急ぐ必要はない。――花が咲けば、蝶は寄る」


 黒布で覆われた手が、夜露を払う。

 闇の中で、ひとつだけ微かな香りがした。

 百合。だが黒。

 言葉は花弁に吸われ、音にならなかった。



 朝は鳥の声でやってくる。

 ノエルは目覚ましより少し早く目を覚ました。窓の外は薄い朝焼け。藤の房が朝露をまとい、寮の屋根が柔らかく光る。

 カーテンを開けると、陽翔がロフトの上で「おはよー」を伸ばし、エリナが正確な時刻にベッドから起き上がった。


「清掃当番、今日は私とノエル。陽翔は食堂の人数合わせ」


「任せて! 食べ物の数は数えるの得意!」


「信用ならないが、任せる」


 洗面台で顔を洗う。冷たい水が頬を走り、夜の余韻をさらっていく。鏡の中の自分に微笑みかけ、ペンダントの位置を整える。

 ――今日も、咲ける。


「ノエル」


 部屋を出る前、エリナが呼び止めた。

 眼鏡の奥の瞳は、いつもより少しだけ柔らかい。


「昨日の君の披露、私は“美しい”と思った。だから、今日も美しくあれ」


「……うん。ありがとう」


 ノエルは胸が温かくなるのを感じ、扉を開いた。

 廊下の先に、陽の光が一筋。

 その向こうに、今日が続いている。

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