ライラック

桃神かぐら

第1話「追憶の花、開花」

 ――紫の花弁が、夜空を満たしていた。

 ひとひら、またひとひら。光を内に宿したライラックが、まるで誰かの記憶をほどいていくみたいに舞い降りる。

 花の中心に、少女が立っていた。

 藤咲ノエル。

 胸の奥で、ずっと握りしめてきた言葉が、自然と唇からこぼれる。


「……お母さん。見ていてね。私――咲くよ」


 指先で小さなペンダントに触れた瞬間、花弁は渦を描いて一輪の花へと結ばれ、世界の色が少しだけ鮮やかになった。



 甲板に差す朝の光で、ノエルはゆっくりと目を開けた。さっきの光景は夢だ。けれど、何度も見てきた、大切な未来の予告でもある。

 潮の匂い。海風。視界の先、薄い霧の壁を押しわけて、巨大な島が姿を現す。


 ――国際花術師学院フローラル・アカデミー


 世界各地から選抜された花術師の卵が集い、学び、競い合い、やがて第一線へ巣立っていく場所。ノエルがずっと憧れていた、母が学んだ学び舎。


「とうとう来た……!」


 思わず声が弾んだ。胸の鼓動が少し速い。ペンダント――ライラックを象った小さな銀色のチャームをぎゅっと握る。父にもらった、母の形見。


『行ってこい、ノエル。お前はお前の花を咲かせればいい』


 出港前、港で笑いながら頭を撫でてくれた父の手の温度が、まだ残っている。ノエルは小さく頷いた。


 渡し船は白い波を切り、外海から学院島の内湾へ入る。そこは外界から少し切り離された、静かな庭のような港だった。白石の埠頭、色とりどりの花壇、弧を描くガラスのドーム――温室だろうか――そして遠く、島の中央にそびえる塔のような校舎。塔の表面には蔓が絡み、季節の花々が咲き誇っている。人工物と自然が、喧嘩も妥協もせず、ただ当然のように一緒にある。


「すご……」


 思わず見とれるノエルの横で、同じ船の生徒たちがざわめいた。


「聞いた? 今年は“あの人の娘”が入るんだって」

「ライラックの……伝説の」

「名前、たしか――」


 視線を感じて振り向くと、いくつもの目がこちらを覗いて、慌ててそらされる。囁き声。好奇心。期待。少しの嫉妬。ノエルは苦笑して、肩の力を抜いた。


(うん、大丈夫。ちゃんと笑って、ちゃんと歩こう)


 船が埠頭に寄せられ、タラップが降りる。胸を張って一歩、島へ足を踏み入れた瞬間、土の匂いがふっと濃くなる。踏みしめた石畳に、朝露が光っていた。



 新入生ガイダンスは、島の中央広場で行われた。円形の芝生に白いベンチが連なり、周囲を取り囲むように花木が植えられている。薄桃色の桜、清らかな白の百合、黄金の向日葵、深紅の薔薇――国と文化の違いを超えて、花の言葉が一つの場所で響く。


「新入生諸君、ようこそ《フローラル・アカデミー》へ」


 広場のステージに立つ長身の女性が、澄んだ声で開口した。淡い青のスーツの胸元には、銀の百合章。学院長――もしくは、それに準ずる地位の人だろう。目元には厳しさよりも、花を愛する人の柔らかな光が宿っている。


「ここは“力”を競う場所であると同時に、“言葉”を学ぶ場所でもある。花言葉は力の形、世界の記憶だ。諸君がこれから身につけるのは、ただの戦い方ではない。誰かの心を折らず、誰かの明日を守るための、正しい使い方だ」


 ざわめきが静まる。ノエルは息を呑んだ。言葉が胸の奥にすっと入ってくる。母がいつも言っていた。「花は武器でもあるけれど、最後には必ず、誰かのために咲くものだよ」と。


「なお本日午後、恒例の“入学披露試験”を行う。各自、自身の花術を“安全にして印象的に”示してもらう。緊張する必要はない。ここは君たちの庭だ。咲き方は自由に」


 ざわつきが再び起こる。ノエルの隣で、誰かがひゅっと息を呑んだ。


「印象的、ね……ふふ。望むところよ」


 低く、艶のある声。振り向くと、ひとりの少女と目が合った。長い黒髪をまとめ、深紅のリボンを結んでいる。制服の上から纏う仕立ての良いケープ。佇まいはどこか舞台の主役めいて、視線を集めることに慣れている人の余裕があった。


「あなたが、藤咲ノエルさん? 噂は――」


「……噂?」


「“伝説のライラックの娘”。私は紅城ローザ。薔薇の家の者よ。よろしく」


 その瞳は真っ直ぐで、少しだけ挑発的に笑っていた。ノエルは一瞬だけ言葉に詰まり、それから自然に微笑み返す。


「藤咲ノエルです。よろしく、ローザさん」


「呼び捨てでいいわ、ノエル。だって私たち、どうせすぐに競うことになるもの」


 言って、ローザはくるりと身を翻す。その後ろ姿に、どこか切っ先のような緊張感が宿っている。伝統の重さを背負っている……そんな空気。ノエルは小さく息を吐いた。


「うわ、さっそく“令嬢様”モード全開だったねえ」


 今度は柔らかい声。振り向くと、夏の光みたいな笑顔の少年が立っていた。明るい茶髪が揺れ、胸ポケットには小さな向日葵のピン。


「日向陽翔(ひなた・はると)。向日葵。よろしく、ノエルさん。……あ、さん付けの方がいい? 呼び捨てでも?」


「ノエルでいいよ。ハルトくん、向日葵なんだ」


「うん。治癒と結界。君が倒れそうになったら、一番に駆けつける係。任せて」


「心強い!」


 笑い合う二人の少し後ろで、静かな視線がノエルを測っていた。銀縁の眼鏡。整ったショートボブ。制服の襟元はきっちりと整えられている。


「百合園エリナ。百合。幻惑系が得意。……噂は知ってる。実物の方が、穏やか」


「あ、ありがとう……?」


「悪口ではない。期待が大きすぎると、君自身が見えなくなるから」


 淡々と言って、エリナは視線をステージへ戻す。厳しいけれど、どこか気遣いの温度があった。


(……大丈夫。私は私として、ここで咲く)


 ノエルは自分に言い聞かせるように頷いた。



 寮の割り振り、学生証の受け取り、簡単なオリエンテーション。午前は慌ただしく過ぎ、午後――いよいよ入学披露試験の時刻が来た。場所は「花園(ガーデン)アリーナ」。半透明のドームに覆われた広大な実習空間で、季節に合わせて内部の生態系が調整される。今日は初夏の設定。若葉の匂い、鳥の声。芝の上には円形の白い境界線が描かれ、中央に立てば周囲からの視線が自然と集まる造りだ。


「一人ずつ、三分以内。破壊は最小限に。安全第一」


 担当教官の簡潔な説明のあと、番号順に披露が始まる。

 炎が咲く。水が躍る。蔓が地を走る。国や花ごとに色の違う、けれど確かな“美しさ”を持った技が、短い時間に凝縮される。見ているだけでも胸が高鳴る。


「三六番、日向陽翔」


 陽翔が前へ出る。両の手を胸の前で組み、静かに目を閉じる。次の瞬間、足元の影から微かな光が湧いた。光は渦を巻いて立ち上がり、彼の背後に大きな円環を描く。柔らかな陽だまりの結界だ。結界の内側、萎れた花がゆっくりと頭をもたげる。


「太陽抱擁(サン・エンブレイス)」


 囁きとともに、結界がふわりと広がって消えた。アリーナが温かい拍手に包まれる。陽翔は照れくさそうに頭を掻き、戻ってくる途中、ノエルへ親指を立てた。


「じゃ、次は君の番だね。楽しみにしてる」


「う、うん!」


 肩の力を抜く。深呼吸。ペンダントに触れる。掌の小さな冷たさが、いつも背筋を整えてくれる。


「三九番、紅城ローザ」


 ローザが歩み出る。踵の音が芝に吸われ、スカートの裾が軽く揺れる。その所作の一つ一つが淀みなく美しい。彼女は腰に佩いた細身の剣を抜き、水平に構えた。刃の根元に、深紅の蕾が一輪、ふっと“咲く”。


「――紅蓮薔薇(クリムゾン・ロゼ)」


 蕾が開いた瞬間、花弁は炎に変わり、無数の棘が剣をなぞって走る。薔薇の庭が足元から外へ向かって拡がり、中央のローザだけは燃やさず守る。熱。色。香り。すべてが圧倒的で、観客席から感嘆の息が漏れた。棘は一定の距離でふっと鎮み、炎は花へと還る。ローザは剣を納め、軽く一礼して戻ってきた。ノエルと目が合う。


「――さあ、伝説の娘。あなたの番よ」


 挑発ではない。正面からの期待。ノエルは小さく笑って頷いた。



「四〇番、藤咲ノエル」


 アリーナの中心に出ると、時間の音が一瞬だけ遠のいた。円の内側に立ち、空を仰ぐ。透明なドームを流れる光が、淡い水面のようにゆれている。ノエルは胸の前で指を絡め、ゆっくりと広げた。


(思い出は、私の武器になる)


 母が残した言葉。花は、誰かのために咲く。ノエルは静かに目を閉じ、意識を花弁の一枚一枚へと沈めていく。


「――追憶の花(リコレクト・ブロッサム)」


 最初の一片は、風と見分けられないほど軽かった。二片、三片――やがて数えられないほどの薄紫が、空へと立ち上がる。ドームの光を受け、花弁は柔らかく発光する。観客席がざわめいた瞬間、花弁はふっと方向を変え、見ている人々の前を通り過ぎた。


 それは触れない。けれど、確かに“触れる”。花弁に映るのは、見る者それぞれの、いちばん大切な断片――。


「……あ」


 誰かが小さく声を漏らした。

 小さな庭で笑う祖母の手。遠い海で友だちと撮った写真。夜更け、机の上で眠ってしまった自分に掛けられた毛布の重さ。

 花弁は一瞬だけそれらを映して、すぐに離れていく。奪わない。囚われない。触れて、離す。ノエルが願った通りの“優しい力”。


 花弁が円の中心へと戻り、渦を描いて一輪のライラックになった。ノエルはその花を胸の前に抱くようにして、そっと息を吐く。ライラックは顫(ふる)え、次の瞬間、微かな煌めきの粒となって空気へ溶けた。


 静寂。

 そして――拍手。

 驚きの色を帯びた歓声が混ざる。教師陣の一部は何かを確認するように目配せをし、記録を取る係が慌ただしく手を動かしている。


(……よかった。ちゃんと、できた)


 胸の奥がふわっと温かくなる。花弁はもうない。けれど、アリーナ全体に残った“余韻”が、ノエルに確かな手応えを渡してくれた――その、はずだった。


 視界が、すっと白む。

 音が一瞬だけ遠のいた。

 ノエルは足元の感覚を確かめるように指を握り、解く。心臓が少し速い。大丈夫――そう言おうとして、言葉が遅れた。


「……私、いま……何を」


 囁きが漏れた。ほんの一呼吸分。すぐに世界は戻り、喉に置き忘れた言葉も見つかった。


「失礼しました。以上です!」


 深く一礼して、ノエルは円の外へ下がる。

 観客席では誰も、彼女の一瞬の空白に気づいていない――そう見えた。

 ただ一人、ローザを除いて。


(今、たしかに“乱れた”。でも――)


 ローザは目を細めた。美しい。そして、危うい。薔薇の棘が本能的に反応する種類の輝き。



 披露試験が終わると、学院長が再びステージに現れた。


「よく咲いた。誰かのために咲く花は、必ず見つけてもらえる。今日の披露はあくまで始まりに過ぎない。ここから、君たちは一緒に季節を重ねる」


 やわらかな拍手。

 ノエルは胸の奥のざわめきを、笑顔で覆う。陽翔が駆け寄ってきた。


「すごかった! なんか、胸の奥がぽかぽかしてさ……あれ、俺、昔のこと思い出したのかな」


「うん。怖くなかった?」


「全然。むしろ、また見たいって思った」


 陽翔の笑顔は嘘がなかった。ノエルはほっとして頷く。そこへ、エリナが静かに近づいた。


「君の力は“触れて離す”。精神干渉系では珍しく、依存も拘束もしない。……美点」


「ありがとう、エリナ」


「ただし、使用者の負荷はゼロではない。呼吸の乱れ、瞳孔の微妙な遅延。気づいていない観客は多い。けれど、目の良い相手はいる」


 エリナの視線の先、ローザがこちらを見ていた。挑発ではなく、測る視線。ノエルは一歩、彼女の方へ歩み出る。


「ローザ」


「ノエル。綺麗だったわ。……“誰も傷つけない”花。私とは違う」


 ローザは自嘲気味に笑った。

 薔薇は守るために刺を持つ。けれど、その刺は、時に自分も傷つける。


「ねえ、ローザ。次、もしペア実技があったら、私と組んでみない?」


「どうして私?」


「君の薔薇は強い。私のライラックは、強い花に寄り添うのが得意。きっと相性がいい」


 ローザは一瞬だけ目を見開き、それから小さく肩をすくめた。


「……面白い提案。考えておくわ」


「約束?」


「条件付きで、ね。あなたが“その瞬間の空白”を制御できるなら」


 まっすぐな挑戦状。ノエルは、胸のどこかで小さく火が灯るのを感じた。


「やってみせるよ」



 夕刻。

 寮に戻る前、ノエルは一人で学院の外周を歩いた。石畳の小径。藤棚の下で風が鳴る。ライラックの花は季節外れだけれど、温室の奥にはいつでも、母が好きだった色が揺れている。


 ペンダントを握る。金属の冷たさが、昼間の熱を落ち着かせる。

 ――一瞬の白。

 あれは、怖くない。だって戻ってこられることを知っている。戻ってこられるうちは、怖くない。けれど。


(お母さん。ねえ、私、少しだけ、あなたに近づけたかな)


 返事は、潮風の匂いに紛れて、聞こえない。

 遠くで鐘が鳴った。島の時間を告げる柔らかな鐘。

 ノエルは振り返り、寮の灯りの方へ歩き出す。小径の先、ひときわ高い樹の陰から、誰かの気配が一瞬だけした。足音。複数。けれど、視線を向けた時にはもう、誰もいない。


(……気のせい?)


 学院は手厚く守られている。島の結界は強固だ。――そう、信じている。

 しかしその夜、学院の上層部の会議室では、低い声が交わされていた。


「確認は取れた。ライラック、発現。予想以上の共鳴域だ」


「慎重に扱え。彼女は“鍵”でもあり、“刃”でもある。……それに、黒百合は動いている」


「黒百合――まだ、尾は?」


「切れていない。むしろ、こちらの庭を嗅ぎ回っている。エリスの娘が入ったと知れば、なおさら」


 短い沈黙。

 窓の外、海の向こうに薄い雲が流れる。

 誰かが最後に言った。


「花は、正しく咲かせなければならない」



 寮の部屋に戻ると、白いカーテンが風に揺れていた。ノエルは窓を閉め、ベッドの端に腰を下ろす。

 机の上に学生証。寮の鍵。入学式のパンフレット。薄紫の栞。

 母の写真は、持ってきていない。見なくても、閉じればいつでも瞼の裏に咲いてくれるから。


「……よし」


 ノエルは立ち上がって、鏡の前に立った。制服の襟を正す。髪をまとめる。ペンダントの位置を整える。

 鏡の中の自分に、笑ってみせる。弱くならないように。強がりすぎないように。


「藤咲ノエル。フローラル・アカデミー新入生。花言葉は――初恋、友情、思い出」


 言葉は、呪文だ。

 自分を定義し、明日へつなぐための、ささやかな呪文。


「明日も、咲く」


 窓の外、夜の庭に小さな灯りが点々と続く。藤棚の下、ベンチに誰かの影――あれは、昼間の桜の先輩だろうか。面倒見のいい微笑を思い出す。いつか、あの人のように戦えるだろうか。

 胸が少し弾んだ。


 ベッドに潜り込み、灯りを落とす。

 目を閉じると、すぐに、さっきのアリーナの風が頬を撫でた気がした。花弁がゆっくりと降ってくる。触れない。けれど、確かに触れる。

 だいじょうぶ。

 だいじょうぶ。

 だいじょうぶ。


 眠りに落ちる直前、ノエルはふっと笑った。


(――きっと、うまくやれる)


 夢の中で、ライラックが満ちた。

 明日、また咲くために。

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