第四十話 英雄たちの憂鬱(後編)
『…ああ、もう…! 面倒くさい…! なんだって俺が、そんな演劇の心配までしなきゃならないんだ…!』
だが、その声は、すぐに冷静さを取り戻した。いや、怒りを通り越して、冷徹な「ゲーマー」の思考へと切り替わった。
『…いや、待てよ』
(神様…?)
『国王直々の命令だ。断ることはできない。下手にプロの脚本家などに任せれば、奴らは余計な取材を始めて、必ずボロが出る。…ならば、答えは一つだ』
その、あまりにも嫌な予感に、アイリスは背筋が凍るのを感じた。
『―――脚本は、俺が書く』
その日の午後。
アイリス分隊が暮らす豪華な居住区画の、一番大きな談話室に、分隊員全員が、渋々ながらも集められていた。
アイリスは、震える手で、
「…これより、国王陛下ご命令の演劇に関する、第一回、脚本読み合わせ会議を、開始します」
彼女が読み上げたタイトルは、こうだった。
「―――『聖女伝説 ~魔王城に咲いた希望の光~』。作・演出、神」
「神!?」
仲間たちが、一斉に、素っ頓狂な声を上げた。
「姉御! 神とは、いったいどなたでありますか!?」
「フン、僕を差し置いて、演出家を名乗るとは、いい度胸だね」
「…その『神』って旦那は、脚本料をいくら取りやがるんだ…?」
アイリスは、仲間たちの疑問を全て無視して、それぞれの役が書かれた羊皮紙を配っていく。
こうして、地獄の読み合わせが、始まった。
最初に、声にならない悲鳴を上げたのは、ギルだった。
彼に与えられた役は、『沈黙の魔人、ギル』。
その台詞は、脚本の最初から最後まで、ただ一言、「…」と、三点リーダーが書かれているだけだった。
「あ、姉御! 俺の台詞が、ありやせん! 俺は、ただ、黙って立っているだけでありますか!?」
『その通りだ。お前が喋ると、ボロが出る。黙って、背景に徹しろ』
シルフィに与えられた役は、『森の神秘、シルフの乙女』だった。
彼女の台詞は、たった一言だけ。
アイリスが促すと、彼女は、おずおずと、震える声でその台詞を読み上げた。
「あ、あの…『森が…囁いています…』…で、す…?」
神秘的な預言者の台詞が、ただの自信のない少女の呟きと化した瞬間だった。
『却下だ! お前はもう、黙って微笑んでいろ!』と、ノクトの怒声がアイリスの脳内で炸裂した。
次に、反旗を翻したのは、ジーロスだった。
「ノン! なんだね、この台詞は!『おお、聖女様! その輝き、まるで太陽のようだ!』…なんて、陳腐で、比喩表現に乏しい! 僕の役は、もっとこう…詩的で、哲学的な台詞であるべきだ!」
『お前の台詞は、一言でも長いと、観客が寝る。簡潔に、分かりやすく、聖女様を褒め称えることだけを考えろ』
テオは、自分の台詞を、鼻で笑った。
「『我が神は、常に、我らと共にある』…ねぇ。ひひひ…! いいぜ、やってやるよ。これなら、教会にいた頃を思い出して、いくらでも、それっぽく演じられるからな」
彼は、この茶番を、心の底から、楽しんでいるようだった。
そして、最大の被害者は、アイリス本人だった。
彼女の役、『救国の聖女、アイリス』の台詞は、彼女が一生、口にすることのないであろう、清廉潔白で、慈愛に満ちた、気恥ずかしい言葉で埋め尽くされていた。
「…わ、私は…ただ、この世界の、全ての命が、平和でありますようにと、祈るばかりです…」
彼女が、蚊の鳴くような声で、最初の台詞を読み上げた瞬間、ギルが「おお、姉御!」と号泣し始め、ジーロスは「素晴らしい! それこそが、真の美だ!」と叫び、テオは腹を抱えて、床を転げ回った。
まさに、地獄絵図だった。
『…なってない。全員、なっていない!』
『お前たちには、役者としての、基礎が、致命的に欠如している! これより、演技の、特別訓練を開始する!』
(え、演技の、訓練…!?)
『そうだ! まずは、発声練習からだ! 新人、全員に、腹から声を出すよう、命令しろ!』
「み、皆さん! 腹式呼吸です! お腹から声を!」
「おおー!」
「ノン!」
「へっ!」
「は、はいぃ…」
アイリス分隊の、新たな、そして、最も不本意な試練が、幕を開けた。
その日の夕方。
王城の東棟からは、一日中、奇妙な声が響き渡っていたという。
それは、魔王を討伐した英雄たちの、栄光の声ではない。
「あ・え・い・う・え・お・あ・お!」
聖女にさせられる、屈辱的な発声練習の声だったり、
「ノン! 僕の役は、もっとこう、苦悩を背負った、アンニュイな表情であるべきだ!」
ナルシスト魔術師の、演技指導への、抗議の声だったり、
「…だから! お前は、黙っていろと言っているだろうが!」
聖女の口から発せられる、およそ聖女らしからぬ、監督の怒声だったりした。
アイリスは、ぐったりと、ベッドに倒れ込んだ。
平穏な日常。
そんなものは、この分隊にいる限り、永遠に訪れないのだと、彼女は、心の底から、悟った。
その頃、
「ギル、感情表現が過剰。ジーロス、アドリブが多すぎる。シルフィ、存在感が無さすぎる。新人、主役の自覚が足りない」
彼は、すっかり、鬼演出家の顔になっていた。
最高の枕を手に入れたはずの、彼の安眠は、まだ、当分、訪れそうになかった。
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