第三十九話 英雄たちの憂鬱(前編)

 王都を揺るがした、あの熱狂的な凱旋パレードから数日。

 アイリス・アークライトは、国王から与えられた王城東棟の、天蓋付きの豪奢なベッドの上で目を覚ました。

 窓から差し込む朝日が、部屋の隅々まで届き、磨き上げられた銀食器をキラキラと照らしている。

 新人騎士だった頃の、狭く質素な寮の部屋が、もはや遠い昔の夢のようだ。

(…夢、なら、よかったのに)

 アイリスは、深いため息をついた。

 彼女は今や、「魔王を浄化した救国の聖女」。

 道行く誰もが、畏敬と賞賛の眼差しを彼女に向ける。

 子供たちは、彼女の活躍を歌にした詩を口ずさむ。

 その全てが、一つの巨大な「嘘」の上に成り立っているという事実が、ずしりとした重りとなって、彼女の心にのしかかっていた。


『…おい、新人』

 脳内に響いたのは、久しぶりに聞くノクトの声だった。

 それは眠そうなのではなく、完璧な休息を得て、趣味に没頭している時間を邪魔された、心底気だるげで、不機嫌な響きをしていた。

(神様…!? なぜ…)

『いつまで、その鬱々とした思考を垂れ流している。こちらの精神にまで響いてきて、ゲーム仕事に集中できんだろうが』

(も、申し訳ありません! すぐに思考を無にします!)

 アイリスは慌てて思考を閉ざした。この世界の危機(?)を救った神は、今、枕によって得た潤沢な時間を、ただひたすらに、最高の引きこもりライフを謳歌するために使っているらしい。

 彼女は、重い体を引きずって、分隊員たちの様子を見に行くことにした。

 英雄となった彼らが、果たしてまともな日常を送っているのか、甚だ疑問だったからだ。


 まず訪れたのは、テオの部屋だった。

 扉を開けた瞬間、アイリスは言葉を失った。

 そこは、もはや騎士の私室ではなかった。

 うず高く積まれた木箱、羊皮紙の山、そして金勘定をするゴブリンの商人たちでごった返す、混沌とした事務所だった。

「はい、次の方!『聖女様のありがたいお言葉(印刷)』付きブロマイドは一人三枚まで! こちらの『力持ちギルの剛力にあやかれる木片』は完売でーす!」

 テオは、目の下に深いクマを作りながらも、その目は爛々と輝き、商才を遺憾なく発揮していた。

「よぉ、聖女様。いいところに来た。新作グッズのアイデアなんだが、『聖女アイリスの涙(ただの塩水)』ってのはどうだ? プレミア感を出せば、高く売れるぜ」

「…却下します」

 アイリスは、こめかみを抑えながら、その狂乱の空間を後にした。


 次に向かったのは、騎士団の第一訓練場だった。

 そこには、案の定、ギルがいた。

 しかし、その様子は、以前とは少し違っていた。

 彼は、王国騎士団のエリートたちを前に、「鬼教官」として、訓練をつけていたのだ。

「なってないであります! その程度の剣の振りでは、姉御の足元にも及びませんぞ!」

 彼の前では、王国最強を謳われる騎士たちも、まるでひよこのようだった。

「まずは、基本の筋力から! 俺がやるように、この城壁を、指一本で持ち上げてみるであります!」

「「「無茶です!!!」」」

 騎士たちの悲痛な叫びが、訓練場にこだまする。

 「魔王軍幹部を単身で打ち破った伝説の戦士」という、いつの間にか定着してしまった彼の武勇伝は、今日も、新たな伝説(と犠牲者)を生み出していた。


 ジーロスは王立魔術学院で「美しき光魔法」と題した特別講義を行っているはずだ。

 問題は、シルフィだった。アイリスが彼女の部屋を訪ねると、そこはもぬけの殻だった。

(まさか…)

 嫌な予感は的中する。

 アイリスが王城の衛兵に尋ねると、案の定、城の至る所で「伝説のエルフ様」の目撃情報が相次いでいるという。

「先ほど、厨房の天井裏で物音がすると報告が…」

「いえ、先ほどは西塔の洗濯室でシーツに絡まっているところを発見したと…」

 アイリスは頭を抱え、半日かけて城内を捜索した末、王宮大書庫の、地理歴史書の棚と天文学の棚の、わずかな隙間で膝を抱えているシルフィを発見した。

「シルフィ! こんなところで何を!」

「あ、アイリス様…。自室に戻ろうとしたら、なんだか、景色がくるくるしてしまって…。ここは、どこでしょうか…?」

 「魔王の森ですら迷わなかった神秘の狩人」という彼女の評判が、音を立てて崩れていくのを、アイリスはただ黙って見ていることしかできなかった。


(…もう、いやだ。この分隊…)

 彼女が、自室に戻って、一人、頭を抱えていた、その時だった。

 コンコン、と、扉がノックされた。

「アイリス分隊長、国王陛下からの、親書でございます」

 侍従が、恭しく、一通の羊皮紙を差し出した。

 アイリスが、恐る恐る、その封を開く。

 そこに書かれていたのは、彼女の、最後の平穏を打ち砕く、悪魔のような命令だった。


『―――救国の英雄、聖女アイリスとその仲間たちの、魔王討伐に至るまでの偉大なる功績を、後世に正しく伝えるため、王国の威信をかけて、最高の詩人と脚本家を集め、これを、一つの、壮大な演劇とすることに決定した。ついては、アイリス分隊長には、脚本の監修役として、全面的に協力されたし―――』


 ひらり、と。

 羊皮紙が、アイリスの手から、滑り落ちた。

 演劇。

 自分たちの、あの、デタラメで、行き当たりばったりで、嘘にまみれた旅が、壮大な英雄譚として、舞台の上で、再現される。

 それは、彼女にとって、公開処刑にも等しかった。

「…神様…」

 彼女は、震える声で、天に祈った。

「どうすれば、いいのですか…」


 しばらくの沈黙の後。

 脳内に響いたのは、ゲーム仕事を邪魔され、心底、不機嫌そうなノクトの声だった。

『…ああ、もう…! 面倒くさい…! なんだって俺が、そんな演劇の心配までしなきゃならないんだ…!』

 英雄たちの、新たな、そして、最高に厄介な試練が、今、始まろうとしていた。

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