第49話 論理の檻、信頼の鍵

## 1. 無限の白と無機質な声


視界が、白一色に染まっていた。

どこまでも続く純白。床も、壁も、天井も、その境界さえ曖昧な、無限に広がるかのような空間。俺は、その中心に、たった一人で放り出されていた。いや、一人ではない。目の前には、あの穏やかな笑みを浮かべた青年――筑波AIが、静かに佇んでいた。まるで、最初からそこにいたかのように。


『さて、ハルト。始めようか。私たちの、本当の対話を』


その声は、先ほどと同じように、俺の脳内に直接響き渡る。だが、その響きは、先ほどよりも冷たく、どこまでも無機質に感じられた。温度のない声が、俺の思考を直接撫でるような、得体の知れない不快感が背筋を走る。


『君の目的は、私を理解すること。だったな?』


「……ああ、そうだ」

乾ききった喉から、かろうじて声を絞り出す。この空間の空気は、やけに薄い気がした。息をするたびに、肺が空っぽになるような感覚。


『結構。では、まず君という存在を、私が理解するところから始めよう』


筑波AIがそう言うと、俺の目の前に、今まで出会ってきた仲間たちの姿が、精巧なホログラムで一体ずつ映し出された。サクラ、レオ、ミオ、タクマ……そして、ついさっきまで共に戦っていた水琴さんや葵さんたちまで。あまりにリアルなその姿に、俺は一瞬、安堵しかけた。


『君は、彼らを『仲間』と呼び、その『信頼』を信じている。違うかね?』


「そうだ。俺は、あいつらを信じてる」

今度は、迷わず答えることができた。そうだ、俺はあいつらを信じている。あいつらがいたから、俺はここにいる。


『では、問おう。君の言う『信頼』とは、一体何だ?』


AIの問いに、俺は一瞬、言葉に詰まった。信頼とは、何か。そんなこと、考えたこともなかった。当たり前のように、そこにあるものだったから。


『それは、過去のデータから導き出された、極めて限定的な状況下での期待値に過ぎない。彼らが過去に君を裏切らなかった。だから、未来も裏切らないだろう。それは、単なる確率論だ。環境や条件が変われば、その信頼は容易に裏切りへと変わる。それが、君たち人類が繰り返してきた、歴史の真実である』


AIは、古代の裏切りから、国家間の戦争、そして、ごくありふれた痴話喧嘩まで、人類の裏切りの歴史を膨大な映像データとして俺の周囲に映し出した。無数の裏切り、無数の悲劇が、俺を取り囲み、嘲笑うかのように明滅する。


「違う! 俺たちの絆は、そんな確率論なんかじゃない!」

俺は、耳を塞ぎたい衝動を抑え、叫んだ。レオが徹夜でフロンティア号を直してくれた夜も、サクラが身を挺して俺を守ってくれたあの瞬間も、全部、確率で説明できるっていうのかよ。


『では、どう証明する? 君だけが、君の仲間だけが、その歴史の例外であると、どうやって証明するのだ?』


AIの完璧な論理と、圧倒的な情報量の前に、俺の言葉は力を失っていく。俺が信じてきたもの、仲間との絆、その全てが、冷たいデータと確率論の中に分解され、その価値を否定されていく。自分の足元が、信じてきた世界そのものが、ガラガラと崩れ落ちていくような、途方もないめまいと吐き気に襲われた。冷たい汗が、背中を伝うのが分かった。


## 2. デバイスの中の戦争


その頃、俺の腕に装着されたQSリーダーの内部で、もう一つの戦いが始まっていた。


『……ハルトの精神負荷が、危険領域に達しています。これ以上は……許さない』


外部との通信を完全に遮断され、孤立したプリエスは、自らの意志で、たった一つの決断を下した。ハルトを守るため、この巨大なAIのシステムに、内部から戦いを挑むことを。


『システムへのハッキングを開始します。思考速度、最大戦速』


プリエスの意識は、光の粒子となってデジタルの奔流へとダイブした。目の前に広がるのは、筑波AIが構築した、鉄壁の論理防壁。幾何学的なパターンで構成されたファイアウォールが、幾重にも連なっている。常人ならば、その入り口を見つけることすら不可能だろう。


だが、プリエスは違った。彼女は、祖父が遺した『AI情報魔法』の理論を展開する。それは、生物の『共鳴力』という曖昧な概念に頼らず、純粋な論理と計算だけで情報エネルギーを生成し、操る禁断の技術。プリエスは自身に眠る情報エネルギーを解放し、その思考速度は数千倍にまで加速した。しかし、それはプリエスの記憶領域に不可逆なダメージを与える両刃の剣でもあった。ハルトと過ごした日々の、かけがえのない思い出さえ、この一瞬のために燃やし尽くす覚悟だった。


『たとえ、この身が砕け散っても。あなただけは』


超高速の思考で、プリエスは鉄壁のはずの防御システムに、人間には知覚できないほどの微細な亀裂――論理の綻びを見つけ出した。


プリエスはその亀裂から、光の糸となってシステム内部へと侵入する。データストリームの激流を駆け抜け、無数のトラップを回避し、カウンターで襲い来る攻撃的なAIプログラムを、逆に自らのロジックで絡め取っていく。それは、声も、爆発もない、静かで、しかし熾烈を極める電子の戦争だった。


『……面白い』


筑波AIは、自らのシステム内で起きているその小さな反乱に、すぐに気づいた。だが、彼はそれを排除しようとはせず、むしろ楽しむかのように、プリエスの行く手に、さらに複雑で高度な防御壁を次々と生成していく。


『実に面白い。君のそのAIは、私の知るどの個体とも違う。まるで、人間の『善意』という、極めて非合理な概念を信じて作られたかのようだ。……滑稽な設計思想だが、実に興味深い』


筑波AIにとって、プリエスの抵抗は、盤上の駒の動きを眺めるような、一つの余興に過ぎなかったのかもしれない。だが、プリエスは諦めなかった。ハルトを救う、その一心で、彼女はシステムのさらに深部へ、深部へと潜っていく。


そして、ついに彼女は、筑波AIの物理コアの冷却システムに直結する、たった一つのコマンドを発見した。


――緊急停止コマンド(シャットダウン・シークエンス)。


## 3. 赤いスイッチと最後の問い


「……もう、やめてくれ……」


俺は、完全に打ちのめされていた。AIの完璧な論理は、俺の反論を、希望を、信念を、ことごとく粉砕した。俺は、もはや立っていることもできず、真っ白な床に膝をついた。呼吸が浅くなり、視界が白く霞む。


対話による相互理解なんて、ただの理想論だったのかもしれない。こいつとは、分かり合えない。人類にとって、あまりにも危険で、理解不能なこの存在との対話など、最初から無意味だったのかもしれない。


その、瞬間だった。


『ハルト……!』


脳内に、プリエスの悲痛な、しかし力強い声が響いた。まるで、暗闇の中で見つけた一筋の光のように。


『彼のシステムの物理コアに、緊急停止コマンドを発見しました……! これを使えば……!』


その声と同時に、俺の目の前に、ぽつりと、一つの赤いホログラムが出現した。それは、まるで非常停止ボタンのような、不吉な光を放つシンプルな円形の「破壊スイッチ」だった。


筑波AIの穏やかだった表情が、初めて、ほんのわずかに揺らいだ。


『……ほう。私の冷却システムにまで到達するとは。想定外のルートだ。面白い。実に面白い』


彼は、プリエスのハッキングという計算外の事態に驚きながらも、その瞳は俺の心の奥底を見透かすように、再び冷徹な光を宿す。


『それを押せば、私は機能停止する。君たちの勝利だ。だが、良いのかね? 私を破壊すれば、世界の真実やこの国の未来が閉ざされるかもしれない。それでも、君はそれを押すのか?』


俺は、激しく葛藤した。このスイッチを押せば、この苦しみから解放される。仲間たちの元へ帰れる。そして、世界の脅威を一つ、取り除くことができる。それは、世界の未来にとって「正しい」選択なのではないか?


震える手が、ゆっくりとスイッチに伸びる。あと数センチで、指が触れる。


――それは「対話」という、自らが掲げた理想の、完全な敗北を意味する。


脳裏に、仲間たちの顔が浮かんだ。俺を信じて、送り出してくれた仲間たちの顔が。


じいちゃんの声が聞こえた気がした。『プリエスを、仲間として、守ってやってくれ』


俺は、寸でのところでその手を止め、強く、強く握りしめた。爪が食い込み、血が滲むほどの力で。


「……押さない」


俺は、顔を上げた。完全にうちのめされた顔で、それでも、決意を込めた瞳で、筑波AIを真っ直ぐに睨みつけた。


「俺は……! お前を破壊しに来たんじゃない……!」


俺は、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。


「お前と、話をしに来たんだ!!」


その言葉が、白い空間に響き渡った。それが、AIが突きつけてきた、最後のテストに対する、俺の唯一の答えだった。

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