第18話 研究者の貌(かお)
## 1. 知の迷宮にて
ミオが起草した丁寧なメール――『先日の調査で得られた記録を再解析したところ、博士の研究に有益と思われる追加データを発見いたしました』――を送ると、驚くほど早く桜井博士から返信が来た。文面からは、こちらの想像以上の強い興味と期待が滲み出ている。週末に大学の研究室で会う約束は、すぐに取り付けられた。
そして約束の週末。八月下旬の太陽がアスファルトをじりじりと炙る昼下がり。俺たちは、どこか場違いな感覚を覚えながら、静まり返った清原大学の廊下を歩いていた。夏休み中のキャンパスは人の気配がなく、俺たちの緊張した足音だけがやけに大きく響く。
『ハルト、心拍数が上昇しています。リラックスしてください』
プリエスが冷静に俺のバイタルを指摘する。うるせえ、わかってる。わかってるけど、無理なんだって。これからやろうとしてるのは、虎の穴に首を突っ込むようなもんなんだから。
研究棟の奥、一番端にある「桜井研究室」という古びたプレートの前で、俺は一度ごくりと唾を飲み込み、深呼吸をしてから、重たい木製のドアをノックした。
「どうぞ」
中から聞こえた穏やかな声に促され、ドアを開ける。途端に、古い紙と、淹れてから少し時間の経ったコーヒーの香りが混じり合った、濃密な知性の匂いが鼻をついた。部屋は、壁という壁が床から天井までの本棚で埋め尽くされ、テーブルや床には資料の山がいくつも築かれている。まるで知の迷宮だ。
「やあ、よく来てくれたね」
資料の山の向こうから、桜井博士が顔を上げた。前回会った時と同じ、人の良さそうな温和な笑顔。だが、眼鏡の奥で光る瞳は、獲物を前にした鷹のように鋭い探究心に満ちているのを、俺は見逃さなかった。
「こんにちは、博士。お時間をいただき、ありがとうございます」
俺が代表して挨拶をすると、博士は手招きして、わずかにスペースが空いている年季の入った革張りのソファを勧めてくれた。俺たちがぎこちなく腰を下ろすのを見て、博士は満足そうに頷いた。
## 2. 交渉の切り札
挨拶もそこそこに、俺は本題を切り出した。下手に世間話をするより、単刀直入にいった方がボロが出ない。
「先日の足利総合病院の件ですが、持ち帰った記録を詳細に解析したところ、博士の研究に有益かと思われる、追加の重要データが見つかりましたので、ご報告に上がりました」
俺は持参したタブレット端末の電源を入れる。「博士、こちらをご覧ください」
画面には、複雑なグラフや数式が映し出されている。これは昨夜、プリエスが解析した生データを、一般的な画像フォーマットに変換し、俺のタブレットに転送しておいてくれたものだ。俺自身は、何が書いてあるかさっぱり理解していない。
『ハルト、落ち着いて。あなたはただのメッセンジャーです。自信を持って、私が教えた通りに説明すれば大丈夫』
プリエスの励ましを胸に、俺はよどみなく説明を始めた。
「こちらが、例の医師の情報体が、魔物へと変質する瞬間のエネルギー波形です。特にこの部分、情報構造が崩壊し、再構築される過程で、通常ではありえない特異なエネルギー遷移が観測されました」
博士は最初、穏やかに相槌を打ちながら聞いていた。だが、俺がスワイプして見せるデータのあまりの精密さに気づくと、次第に身を乗り出し、やがてその目は興奮の色を帯びていく。
「これは……信じられない……!情報体が実体化する瞬間のエネルギー遷移を、これほど正確に、ミリ秒単位で捉えたデータは見たことがない! 君たちの技術担当は、一体何者なんだね!?」
博士はソファから立ち上がると、俺が持つタブレットを覗き込み、食い入るようにデータに見入っている。その姿は、新しいおもちゃを与えられた無邪気な子供のようでもあった。
よし、食いついた!作戦通りだ!
博士がデータに夢中になり、こちらへの警戒心が薄れた完璧なタイミング。ミオが、その一瞬を見逃さなかった。
## 3. 凍りつく空気
「博士」
凛とした、静かな声だった。
「実はこのデータを解析する中で、一つ奇妙な点が見つかりまして……。この魔物化パターン、崩壊前の文献で読んだ、ある理論に酷似しているんです。『自律進化型AIによる情報エネルギーの利用』…確か、そんなタイトルの論文でした。もちろん、あくまで理論上の話で、実現したとは聞いていませんが……博士は何かご存知ですか?」
その一言で、部屋の空気が凍りついた。まるで、真夏日から一瞬で真冬になったかのようだ。博士の顔から、研究者としての興奮が急速に消え去り、鋭い警戒心に満ちた、全く別の貌(かお)が現れる。
「……君たちは、どこでその論文を読んだのかね?」
博士の声は、先ほどまでの弾んだトーンとは打って変わって、低く、重くなっていた。
やべっ、踏み込みすぎたか!? 俺の背中に、嫌な汗が流れる。すかさず、フォローに入った。
「いえ、古いデータの中から偶然見つけただけです。あまりにパターンが似ていたので、専門家である博士なら何かご存知ではないかと思いまして。もし、ご迷惑でしたら…」
博士は俺の言葉を遮るように、静かに手を上げた。そして、長い沈黙が落ちる。彼は何も言わず、チームメンバー一人ひとりの顔を、何かを値踏みするように、じっと見つめている。その視線がやけに痛い。
『危険な領域に踏み込みました。ですが、後戻りはできません。覚悟を決めてください、ハルト』
プリエスの静かな警告が、俺の覚悟を固めさせた。
やがて博士は、重々しく口を開いた。
「腹の探り合いはやめよう。君たちが本当に知りたいことは、なんだね?」
俺は深呼吸を一つしてから、博士の目を真っ直ぐに見据え、静かに告げた。
「機械が...AIが魔法を使う可能性と、もしご存知なら"管理室"とは何かについて教えてください」
博士は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに落ち着きを取り戻し、静かに頷いた。
## 4. 試される覚悟
博士は、俺に向き直り、静かに、そして諭すように言った。
「ハルト君、君に一つ問うておきたい。君は、それがどれほど危険な領域か、理解しているのか? ただの知的好奇心なら、今すぐ忘れなさい。それが君たちのためだ」
その言葉は、俺たちの覚悟の深さを探る、静かだが鋭い刃のようだった。俺はゴクリと唾を飲み込み、博士の善意と警戒心を正面から受け止めて、自分の言葉で答えた。
「ご忠告、ありがとうございます。博士が俺たちの身を案じてくれているのは、よく分かります。好奇心だけじゃありません。博士、俺たちには……どうしても、この先に進まなければならない理由があるんです。その理由は、今はまだお話しできません。ですが、もう『知らない』では済まされない状況に、片足を突っ込んでしまっているんです」
俺は一度言葉を切り、仲間たちの顔を見渡した。サクラが固唾を飲んで俺を見守っている。レオは腕を組み、厳しい顔で博士を睨んでいる。ミオは、ただ静かに俺の言葉の先を待っている。こいつらのためなら、なんだってできる。俺は、博士に向き直った。
「だからこそ、知らなければならないんです。何が危険で、俺たちは何に備えるべきなのか。このまま何も知らずに活動を続けて、もし何かあった時……仲間や、俺の大切な家族を巻き込んでしまうかもしれない。それだけは、絶対に避けたいんです」
俺の答えに、博士は静かに頷き、次にチーム全体に視線を移した。
「君たちはどうだね? 彼の抱えたのっぴきならない事情に、命を懸けて付き合うというのかね? 君たちにも家族がいるだろう。もっと安全な道があるはずだ」
「ハルトだけの事情じゃありません!」
即座に声を上げたのはサクラだった。拳を強く握りしめている。
「私たち、もう仲間ですから。誰か一人だけ危険な目に遭わせるなんて、できません!」
「サクラの言う通りだ」
レオが、力強くサクラの言葉を引き継いだ。
「それに、ハルトが巻き込まれたこの問題は、もう俺たち全員の問題でもある。船が嵐に巻き込まれたんなら、船員全員で乗り切るしかねえだろ。船長一人に任せて、自分だけ逃げるなんて真似はできねえよ」
最後にミオが、冷静な、しかし揺るぎない声で締めくくった。
「感情論だけではありません、博士。私たち全員が、もう後戻りできない状況にいることを認識しています。この状況で最も生存確率が高い選択は、チームとして行動し、正確な情報を得て、危険を予測・回避することです。これは、合理的な判断です」
## 5. 紫色の挑戦状
全員の言葉を聞き終えた博士は、ふぅ、と長い息を吐いた。
「……覚悟は、言葉だけでは証明できん」
博士はおもむろに立ち上がると、研究室の奥にある厳重にロックされた保管庫へと向かった。やがて、金属製のケースを手に戻ってくる。それは、明らかに危険物を封じるための、物々しい装備だった。
「君たちの『覚悟』が本物かどうか、この石に問わせてもらう」
博士はケースをテーブルの上に置いた。カチリ、と重いロックを外すと、中から禍々しい紫色の光を放つ、歪な形をした情報結晶が現れた。見ているだけで精神がざわつき、不協和音のような微かな振動が空気を伝わってくる。
「これは、私が過去に準汚染遺跡で採取した、極めて危険な情報結晶だ。強力な憎悪の念に汚染されており、並の精神魔法使いが触れれば、たちまち精神を破壊されかねん」
博士は、俺たちの目をまっすぐに見据えた。
「依頼は、この結晶の“浄化”だ。汚染源となっている憎悪の感情データだけを安全に分離・抽出し、内部に眠っているはずの純粋な『元の情報』を回収してほしい」
無茶苦茶だ。それは、博士からの、あまりにも無謀な挑戦状だった。俺たちの持つ技術の限界と、そして、この危険な依頼にどう向き合うかという姿勢そのものを試すための、これはテストなのだと直感した。
「もし、これをやり遂げられた時、私が知る全てを話そう」
俺たちは、顔を見合わせた。サクラも、レオも、ミオも、その目には恐怖と、それ以上の強い決意の色が浮かんでいた。これを乗り越えなきゃ、何も始まらない。俺は、チームを代表して、博士に向き直る。
「……やらせてください」
俺の答えに、博士は初めて、満足そうな、それでいて全てを見透かすような笑みを浮かべた。
「では、健闘を祈る」
俺たちの前に、重く、しかし確かな光を放つ扉が、ゆっくりと姿を現したのだった。
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