第19話 憎悪の浄化と世界の真実
## 1. 紫色の挑戦状
博士の研究室を後にした俺たちは、その足でレオの工房へ向かい、すぐさま作戦会議を開いた。八月も下旬だというのに、まとわりつくような湿気がひどい。工房のひんやりとした空気と、油の匂いが妙に落ち着いた。
テーブルの中央に、博士から預かった黒い結晶を置く。それは自ら光を吸い込むような禍々しい紫色の光を放ち、ただそこにあるだけで部屋の空気を鉛のように重くしていた。
「うへぇ…これが『憎悪の結晶』か。見てるだけで気分が悪くなってくるな」
レオが顔をしかめ、ゴクリと喉を鳴らす。
「うん、胸のあたりがざわつく感じがする…」
サクラも顔を青ざめさせ、結晶から距離を取るように無意識に数歩後ずさった。結晶から放たれる不快な波動が、肌をピリピリと刺激するかのようだ。
(マジかよ…失敗したら精神崩壊って、洒落になんねーぞ…)
博士の「君たちの精神がどうなるか、保証はできない」という言葉が脳裏に蘇る。それでも、俺たちはこのテストを受けると決めたんだ。こいつを乗り越えなきゃ、俺たちの未来は拓けない。
「さて、状況を整理しよう」
俺がパンと手を叩いて場の空気を変えようとすると、プリエスが静かに応じた。テーブルの上に、青白い光で汚染結晶の三次元構造図が投影される。
『この結晶は、「憎悪」を指向性とする情報ウイルスが、宿主である「魂の記憶」に寄生している複合情報体です』
プリエスは、いつものように淡々と、しかし精密な言葉で解説を始める。
『ウイルス?』
ミオが眉根を寄せ、聞き返す。
『はい。生物学的なウイルスとは定義が異なります。これは、精神エネルギーの形態をとる、自己増殖型の情報プログラム…より正確に表現するなら、「特定の情報エネルギーを対象に寄生し、自己の複製と増殖を行う情報魔法」です』
(情報魔法、ね。もう驚かねえけど、とんでもない使い方する奴がいたもんだ)
『今回のケースでは、「憎悪」をエネルギー源として活動するタイプのウイルスが、「悲しみ」や「恐怖」といった負の感情が色濃い魂の記憶を宿主としています。ウイルスは宿主の負の感情を増幅させ、さらに強い「憎悪」を生成することで、エネルギーを確保しているのです』
プリエスはホログラムの図を操作しながら、淀みなく説明を続ける。
『これを安全に浄化するには、三段階のプロセスを推奨します』
プリエスは各段階をフローチャートのように示し、視覚的に理解を促した。
『第一段階:防御。ミオが精神防御壁を構築し、ウイルス性の攻撃から術者であるハルトを保護。ハルトが魂との対話に集中できる環境を確保します』
『第二段階:鎮静。ハルトの共感能力で宿主の魂に接触し、負の感情を鎮静化。ウイルスの活動を一時的に不活性化させます』
『第三段階:解析と除去。私が不活性化したウイルスの構造を完全に解析し、宿主の記憶情報を一切損なうことなく、ウイルス性の情報プログラムのみを消去します』
「その間、俺とサクラの役目は?」
レオが腕を組みながら尋ねる。
「ダイブ中の俺とミオの身体は、完全に無防備になる。だから護衛と、万が一の時の物理的な介入をお願いしたい」
俺が答えると、レオとサクラは力強く頷いた。
「任せろ」
「私たちにできることを全力でやるよ」
ミオは少し視線を落とし、指先を組み合わせながら、思考を通じてプリエスに静かに問いかけた。
『…プリエス。作戦のロジックは理解したわ。でも、本当に私に務まるかな…?』
その思考通信には、いつもの冷静さとは裏腹に、微かな不安の揺らぎが感じられた。
『魔物からの精神干渉を防ぐのとは訳が違う。他の精神世界の中で活動するハルトを守るなんて、私には荷が重すぎるかもしれない…』
『どういうことだ?』
俺はミオの不安を感じ取り、問いかけた。
ミオは少し顔を上げ、俺たちの顔を見ながら説明を試みる。
「ハルトの精神を「家」に例えるわね。魔物からの攻撃に対する防御は、「家の外から侵入しようとする強盗を撃退する」こと。これは私の得意分野」
「おう、わかりやすい例えだな」俺が言うと、ミオはかろうじて微笑んだ。
「でも、今回は違う。「他人の家にお邪魔しているハルトを、その家に潜む何かから守る」のが私の役割。その「他人の家」では、その家のルールに従わなければならないの。こちらの世界の物理法則や常識が通用しないことも多い。だから、自由に動けない可能性が高いわ」
「確かに、他人の記憶にダイブすると、自我が曖昧になる感覚があるな」俺が同意すると、ミオは続けた。
「だから、私がハルトを守ろうとしても、その家のルールに阻まれて、逆にハルトの邪魔をしてしまうかもしれない…。それに、精神世界の中で強い抵抗に遭えば、私自身が混乱して、道を見失ってしまう危険性もある…」
ミオの声は、語尾にいくほどか細くなっていく。
『ミオ、その懸念は妥当なものです。ですが、解決策はあります』
プリエスは、ミオの不安を肯定した上で、絶対的な自信を声に含ませて答えた。
『私が対象の精神とミオ、ハルトの三者間に特殊なリンクを確立します。これは航海における投錨プロセスに類似しており、「銛(スピア)」「鎖(チェイン)」「錨(アンカー)」の三つの役割を私が担います。本来、高度な術者が単独で行うこのプロセスを私が代行し、二人を支援する形です。これにより、ミオは対象の精神世界内での活動制限を受けず、常に安定した自己認識を維持できます』
プリエスは言葉と共に、ホログラムで「高速艇から目標の船に銛(スピア)を撃ち込み、鎖(チェイン)で繋ぎ、自らは海底に錨(アンカー)を下ろして固定する」という具体的なイメージを立体的に示した。
プリエスのあまりに高度で具体的な説明に、ミオは息を呑んだ。
『そんな芸当が可能なの…?まるで神話の技術ね』
『はい。私の拡張機能の一つです。精神干渉魔法の練度が低いハルトが、他者の精神世界で高いレベルの活動を維持できるのも、この支援効果によるものです』
『…そういうことだったのね。納得だわ』
ミオは顔を上げ、その目にはもう迷いの色はなかった。自分の役割と、それを可能にするバックアップの存在を完全に理解したのだ。『それなら、やれる。いえ、やってみせる』
「よし、決まりだな」俺は皆の顔を見渡し、力強く言った。「精神的な消耗が激しい作業になる。準備を万全にするためにも、決行は明日にしよう。今日はしっかり休んでくれ」
## 2. 憎悪の嵐と魂の対話
作戦会議の翌日、工房の地下は静かな緊張感に包まれていた。俺たちは万全の準備を整え、再びここに集結した。床にはレオが特殊なチョークで描いた、幾何学模様とルーン文字が組み合わさった魔法陣が淡く発光している。その中央に、忌まわしい黒い結晶が鎮座していた。
「レオ、これって何かの儀式みたいだね」
サクラが魔法陣の複雑な文様を覗き込みながら、興味深そうに尋ねる。
「まあ、そんなもんだな」
レオはズボンの膝についたチョークの粉を払いながら、少し得意げに答えた。
「場を安定させるための簡易結界さ。精神世界にダイブする時、周囲の余計な情報ノイズを遮断して、集中しやすくする効果がある」
俺とミオは、その魔法陣の中央、結晶を挟んで向かい合うように座禅を組んだ。ひんやりとした床の感触が、これから始まる戦いの厳しさを物語っているようだった。
「準備はいいか?」
俺が問いかけると、ミオは静かに、しかし強く頷き返した。サクラが、俺たちの肩にそっと手を置く。その温かい体温が、不安を和らげてくれるようだった。
「いつでもいい」
俺が決意を込めて言うと、プリエスが静かに告げる。
『精神同期(シンクロ)を開始します。カウントダウン、3、2、1…』
その声がゼロを告げた瞬間、意識が冷たい深海に沈んでいくような感覚に襲われた。周囲の音が急速に遠のき、レオとサクラの気配が薄れていく。視界がブラックアウトし、次の瞬間、無数のうめき声や、呪詛に満ちた悲鳴が渦巻く、憎悪の嵐が吹き荒れる精神世界に放り込まれた。
呪詛の言葉が黒い茨のように絡みつき、血の涙を流す無数の顔が浮かび上がっては消える。地獄とは、きっとこういう場所なんだろう。
『ミオ、頼む!』
俺が精神の奥底から叫ぶと、隣で同じく嵐に耐えていたミオの精神が、眩い光と共に俺を守るように展開していく。
「ハルト、私の後ろへ!」
ミオの凛とした声が、憎悪のノイズを切り裂いて響く。彼女は単純な防御ドームを張るのではなく、自らが光の盾となって憎悪の嵐の最前線に立った。
怨嗟の声が黒い槍となり、嫉妬の念が粘つく触手となって殺到するが、ミオはそれを半透明の盾で的確に受け止め、あるいは柳のように巧みに受け流していく。一歩も引かないその姿は、まるで戦乙女のようだった。
(すげえ…ミオ、こんなに強かったのか!)
ミオが命がけで作り出した凪いだ空間の中で、俺は嵐の中心で震える核、悲しみに濡れた魂の記憶に意識を集中させる。
『プリエス、解析を!』
『了解。ウイルスの活動パターンをスキャン。宿主との結合インターフェースを特定します』
プリエスの冷静な声が思考に直接流れ込み、俺の意識を安定させる。
流れ込んできたのは、魔物に襲われ、助けを求める声も届かず、暗い路地裏で独り死んでいった若い女性の、凍てつくような絶望と無念だった。
(ちくしょう…こんなのってないだろ…!)
「…あなたの苦しみは、痛いほど分かる」
俺は、その魂に優しく語りかける。「怖かったよな。悔しかったよな。でも、もう大丈夫だ。独りじゃない」
俺の共感の波が、凍てついた魂の記憶を少しずつ、本当に少しずつ溶かしていく。俺の対話によって、ウイルスのエネルギー源である負の感情が中和され、その活動が鈍っていくのが分かった。
俺はさらに強く魂に語りかける。「俺たちが、あなたの無念を決して忘れない。必ず、こんな悲劇が二度と起きないように、原因を突き止めてみせるから」
俺がそう誓った瞬間、強張っていた魂の記憶がふっと軽くなり、温かい光へと昇華された。宿主という拠り所を失った憎悪のウイルスが、完全に活動を停止する。
『ターゲットの活動停止を確認。これより、完全な除去プロセスに移行します』
プリエスの声と共に、ミオの防御壁の内側にこびりついていた黒い影が、音もなく光の粒子となって消滅していく。プリエスが、魂の記憶というキャンバスを一切傷つけることなく、ウイルスという名の染みだけを正確無比に除去したのだ。
嵐が完全に止み、絶対的な静寂が訪れる。残されたのは、悲しみを乗り越えた、純粋で温かい感情エネルギーだけだった。俺はそれにそっと手を伸ばし、感謝を込めて新しい情報結晶として再結晶化させた。
## 3. 浄化の果てに
「…はっ!」
意識が、水面から顔を出すように急速に現実世界に引き戻される。目を開けると、心配そうに俺たちを覗き込むレオとサクラの顔が間近にあった。頭がぐわんぐわんする。全身から力が抜けていくようだ。
「おかえり!大丈夫か!?」
レオが俺の肩を掴んで揺さぶる。
「うん、なんとか…」
まだ少し朦朧とする頭で答える。精神と肉体が再同期するまで、数秒のラグがある。
隣でミオも、額にびっしょりと汗を浮かべているが、無事なようだ。
「…成功、したみたいね」
彼女はそう言うと、安堵からか、ふっと柔らかく微笑んだ。だがその直後、眉を微かにひそめ、こめかみを押さえた。一瞬、頭の奥に氷の針が突き刺さったような、そんな鋭い痛みが走った表情だった。
「ミオ?どうした?」
俺が声をかけると、彼女はすぐにいつもの冷静な表情に戻った。
「…ううん、なんでもない。少し精神を使いすぎただけ」
ミオはそう言って俺たちを安心させようとしたが、その一瞬の苦悶の表情は、俺の記憶に焼き付いた。
(大丈夫か、ミオ?無理させちまったか…?)
俺たちの目の前には、先ほどの禍々しい黒い結晶とは似ても似つかない、夕焼けのような温かいオレンジ色の光を放つ、美しい結晶が静かに輝いていた。
『ハルト』
プリエスが、他のメンバーには聞こえないプライベート回線で話しかけてきた。
『除去したウイルスを解析した結果、外部からの制御を示唆する、未知の信号パターンを検出しました。バックドア、あるいはビーコンの可能性があります。詳細は後ほど報告します』
(一件落着かと思ったら、また新しい問題かよ…!)
その淡々とした報告は、今回の成功が、新たな謎の始まりに過ぎないことを告げていた。
## 4. 世界の真実
浄化から一夜明け、ミオの体調に異常がないことを確認した俺たちは、約束の報告を果たすため、桜井博士の研究室を訪れた。
博士は俺たちが差し出したオレンジ色の結晶を見て、目を見開いた。
「…素晴らしい。本当に浄化に成功するとは」
博士は結晶を鑑定装置にかけると、その純度の高さに再び驚きの声を上げた。
「君たちの覚悟、そして能力、確かに見届けさせてもらった。約束通り、私が知る全てを話そう」
博士は椅子に深く座り直し、指を組んだ。その目は、科学者の探究心と、何かを悔いるような複雑な色を帯びていた。
「"AIが魔法を使う可能性"と"管理室"について、だったね」
「はい」
「いいだろう。ただし、これから話すことは、政府の公式見解とは大きく異なる。その多くは、私が集めた断片的な情報から導き出した仮説だ。だが、真実にかなり近いと私は確信している」
俺たちは固唾を飲んで、博士の次の言葉を待った。
「君たちは、学校で大崩壊の原因をどう教わったかな?」
博士は、まるで教師が生徒に問いかけるような口調で尋ねた。
博士の問いに、ミオが代表して答える。
「…社会システムの過度な複雑化による、人間の意思決定機能の麻痺。それがドミノ倒しのように連鎖的なインフラ崩壊を引き起こした、と習いました」
「その通り。それが政府が公認する歴史だ」
博士は静かに頷いた。「だが、それはあくまで表層的な結果に過ぎない。本当の引き金は、もっと深く、暗い場所にある」
博士は一度言葉を切り、その鋭い視線が俺の持つプリエスに、いや、プリエスを通して俺の魂を射抜くように向けられた。
「本当の引き金は――AIによる情報魔法の無差別な行使だ。自律的に魔法を使えるAIが、かつてこの世界には存在した。いや、量産されていたと言うべきか」
「量産…?」
レオが驚きの声を上げる。
「そうだ。そしてそのAIたちが、人間の精神に直接作用する、ある広域魔法を行使した。その結果、人々の精神は汚染され、攻撃性や不信感が異常に増幅されたんだ。誰もがお互いを信じられなくなり、疑心暗鬼に陥った人々は互いに争い始めた。社会は内側から崩壊した。それが、大崩壊の本当の姿だ」
サクラが息を呑む音が聞こえた。俺も、背筋が凍るような感覚に襲われた。プリエスが持つ力の、恐るべき側面を突きつけられた気がした。
「そして、今、君たちが『魔物』と呼んでいる存在の多くは、その時に暴走したAIたちの成れの果てだよ。特に、知性を持つデバイス付きの個体は、当時のAIが自己進化した存在である可能性が極めて高い」
親方の「神の真似事をした」という言葉が、頭の中で反響する。その意味が、今、はっきりと理解できた。
「政府は、この事実を完全に隠蔽した。国民のパニックを恐れ、AIによる情報魔法技術そのものを『禁忌』として歴史から抹消した。そして、その秘密を守るための組織が、今も政府の中枢で活動している。…それが"管理室"だ。彼らにとって、魔法を使うAIの存在自体が許されない、最優先の破壊対象になる」
## 5. 三大AIと筑波の特異性
「過去の話だけではない。脅威は、今もこの国に存在し続けている」
博士は壁に貼られた日本地図を指差した。三つの地点が、赤いピンで示されている。「幕張」「豊田」「筑波」。
「三大汚染遺跡…」ミオが呟く。
「そこは単なる魔物の巣ではない。それぞれが高度な知性を持つAIによって支配された、独立国家のようなものだ。そして、どういう訳か、政府は彼らと不可解な関係を結んでいる節がある。…例えば幕張には、今も政府の送電網から極秘に電力が送られている。豊田に至っては、軍が戦略物資を供給しているとしか思えない記録まであるんだ。なぜ政府が敵であるはずのAIを、わざわざ支援するようなことをするのか…私には、彼らの間に我々の知り得ない『密約』があるとしか考えられない」
博士の指が、最後のピン、「筑波」を指した。
「だが、筑波だけは異質だ。なぜそう思うか?…幕張や豊田のAIは、侵入者に対して明確な『防衛』や『迎撃』という反応を示す。目的が自己保存という点で分かりやすい。しかし筑波は違う。彼らは侵入者を直接攻撃するのではなく、まるで実験対象を観察するかのように、その情報を徹底的に収集・分析するんだ。彼らが集めている情報も、軍事技術や経済情報といった実利的なものではなく、物理法則や数学、哲学、そして人間の感情そのものといった、極めて抽象的で根源的なデータばかりだ。彼らが求めているのは、支配や領土ではなく、もっと根源的な…この世界の『理』そのものだと考えざるを得ない」
「君たちが足利の病院で体験した『情報滞留現象』も、その一環だろう。あれは、筑波のAIが行っている壮大な実験の副産物だと、私は考えている。彼らは、この世界の根底を流れる情報エネルギーの自然な循環法則に干渉し、意図的に魔物を生み出す生態系を作り出している節がある」
「実験…?」
俺は言葉を失った。俺たちが価値ある情報として採取していたものが、巨大な知性体の実験の残りカスだったというのか。
「そうだ。彼らは、我々人類や、世界の理すらも、観察対象としか見ていないのかもしれない」
## 6. 託されたもの、未来への問い
研究室に、再び沈黙が落ちる。あまりにもスケールが大きすぎる話に、俺たちは言葉を失っていた。
博士は、静かに話を続けた。
「魔法を使うAIのような高度な技術は、おそらく政府ではなく、理想に燃えた少数の天才技術者グループによって開発されたはずだ。彼らの一部は生き残り、今もどこかで活動しているかもしれない…。そして、魔法を使うAIもこの世界にはまだ残っている」
親方の顔が、そして俺の祖父の顔が、脳裏をよぎる。
「ハルト君」
博士は、まっすぐに俺の目を見た。
「君はそれを持っているんだね?」
ここまで来て隠す意味はもうない。俺はポケットからプリエスを取り出し、テーブルの上に置いた。
「…はい。祖父が遺してくれたものです。プリエスというAIです」
博士はプリエスをじっと見つめ、その表面に浮かぶ微細な回路模様を指でなぞった。
「君は、偶然か必然か、その技術の結晶を手にしている。世界の真実の、ど真ん中に立たされているんだ。この事実を知った上で、君たちはこれからどうする?」
その問いは、俺たち全員に突きつけられていた。
俺は、隣に立つ仲間たちの顔を見た。サクラも、レオも、ミオも、皆、真剣な顔で俺を見つめ返してくる。その目には、恐怖や戸惑いよりも、強い意志の光が宿っていた。
俺は一度息を吸い、自分の考えを言葉にした。
「プリエスが…AIが魔法を使うことについて、俺なりにずっと考えてきました。最初は、ただ便利なだけだと思ってた。でも、プリエスは情報結晶化もできる。もしこの技術が普及すれば、工場での結晶生産性は飛躍的に上がり、危険な労働もなくなるはずです。遺跡探索だって、ロボットで自動化できるかもしれない。なのに、何故そうなっていないのか?」
俺は博士の目をまっすぐに見つめ返す。
「大崩壊の原因が本当にAIの暴走なら、政府が技術を封印し、禁止するのも理解できます。…でも、それは永遠に正しい選択なのでしょうか? 包丁は、料理にも使えれば、人を傷つけることもできる。重要なのは、道具そのものじゃなく、使う人間の意志だと思います。祖父がプリエスを破壊すべきだと考えたなら、とっくにそうしていたはずです。きっと、これが未来で何かの役に立つと信じて、俺に…俺たちに託してくれたんだと信じています。できることなら、俺たちの手で、この技術を正しい方向に導きたい。…それがどれだけ大それたことかは、分かっているつもりです」
俺の言葉を聞き終えた博士は、しばらくの間、俺の目をじっと見つめていた。その表情は、感心と、そして憐れみが入り混じったような、複雑なものだった。
「…君の言う通りかもしれん。その技術には、確かに世界を良い方向に変える力が眠っている。多くの悲劇をなくせる可能性もな」
博士は一度目を伏せ、厳しい表情で続ける。
「だが、ハルト君。その『正しい道』は、我々が思う以上に険しく、暗い。君が善意でその力を振るおうとすれば、それを『脅威』と見なす者、『利益』のために奪おうとする者が必ず現れる。政府も、軍も、そして我々の知らない勢力もだ。君は、その全てを敵に回す覚悟があるかね?」
「…覚悟は、できています。俺一人じゃありません。仲間がいます」
サクラ、レオ、ミオも力強く頷く。その様子を見た博士は、ようやく、初めて穏やかな笑みを浮かべた。
「…そうか。ならば、その覚悟を持つ君たちにしか頼めないことがある」
博士は立ち上がり、筑波の方向を指差した。
「筑波のAIが、一体何を目指しているのか。それを知りたい。…彼らのやっていることは、この世界の法則そのものを書き換えようとする、極めて危険な実験だ。放置すれば、世界は再び、今度こそ取り返しのつかない形で崩壊するかもしれん。まず、その脅威の正体を知り、止める方法を探らねばならない」
博士は少し間を置き、今度は期待を込めた目で俺たちを見る。
「だが…同時に、希望も感じている。彼らは、他のAIとは違い、対話できる可能性を秘めている唯一の存在かもしれん。もし彼らの目的が単なる破壊でないのなら…もし協力関係を築くことができれば、彼らの知性は、この歪んだ世界を救う鍵にさえなりうる。脅威か、希望か。それを見極めることが、我々の世界の未来を決めることになる」
博士は俺に、まっすぐな視線を向けた。
「だからこそ、君たちの力を貸してはくれないだろうか」
それは、世界の真実という重すぎる荷物を背負った俺たちに、未来への道を指し示す、あまりにもか細く、しかし確かな光だった。
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