第1章 農村の少年

風が畑を渡り、青々とした小麦が波のように揺れている。

 陽射しは強いが、澄んだ空気を吸うと胸の奥まで清められるようだった。


「アレン、手を止めないの!」


 父の声に振り返ると、逞しい腕で鍬を振るう姿があった。額には汗が光り、土の香りが一面に広がる。

 私は小さな体で必死に鍬を動かし、畝を整える。


 ――これが、私の新しい日常だった。



 十年が過ぎた。

 私は「アレン」として、農村で生きていた。


 母は優しく、食卓に並ぶ料理は素朴ながらどれも温かい。

 妹のリサはまだ七つで、私の後をちょこちょこと追いかけてくる。


「お兄ちゃん、また手伝い? えらいね!」

「リサも大きくなったら手伝うんだぞ」


 家族に囲まれた暮らしは、前世で失ったものだった。

 夜、囲炉裏を囲んで笑い合う時間は、何よりも尊かった。



 そして、私には特別な力が芽生えていた。


「――燃えろ!」


 掌に意識を込めると、小さな火球がぱっと生まれる。

 畑の端で妹のリサが歓声を上げた。


「わぁ! お兄ちゃん、やっぱり魔法使いなんだ!」


 火の玉はやがて消え、煙が空へ溶けていく。

 どうやら私は、火魔法の素質を持っていたらしい。村人の中でも魔法が扱える者は滅多にいないため、村の人々からは「頼もしいな」と言われるようになった。


 それは、前世で「何者にもなれなかった自分」にとって大きな救いだった。



「アレン!」


 元気な声が背後から響いた。

 振り向くと、弓を背負った少女が駆け寄ってくる。


 幼馴染のミラだ。

 栗色の髪をポニーテールに結び、日に焼けた頬を輝かせている。父親が狩人で、彼女自身も幼い頃から弓を学んでいた。


「また火の玉の練習してるの?」

「まあな。火を操れれば、村の役に立てるだろ」

「ふふん、私だって弓で兎くらいなら仕留められるんだから。今度、一緒に森に行こうよ!」


 そう言って笑う彼女は、眩しいほどだった。

 ただの幼馴染……のはずなのに、心臓が妙に速く打つ。

 ――でも、まだその感情の正体に気づけずにいた。



 夏、村は収穫祭を迎えた。

 小麦の山が広場に積まれ、子どもたちは走り回る。大人たちは酒を酌み交わし、楽師の奏でる笛が宵闇に響いた。


 私は焚き火の点火を任され、掌に炎を生むと人々から歓声があがる。

 「さすがアレン!」「これで村は安心だ!」

 頭を撫でられ、胸が熱くなる。


 前世では、こんな風に誰かから必要とされたことはなかった。

 今の私は、確かに“ここにいる”のだ。


「アレン! 一緒に踊ろ!」

 ミラが手を取ってきた。


「ちょ、ちょっと……!」

「いいから!」


 笑顔に押され、私は輪の中に引き込まれる。

 手を取り合い、歌い、踊る。

 炎に照らされるミラの横顔がやけに近くて、思わず目を逸らした。


 胸の奥で、言葉にできない温かさが広がっていく。



 その夜のことだった。


 祭りが終わり、人々が家路につこうとした時。

 森の奥から、不気味な咆哮が轟いた。


 獣とは違う。もっと荒々しく、底知れぬ気配。

 村人たちは青ざめ、扉を閉ざして震えた。


「魔物……!」


 誰かが叫ぶ。

 父は鍬を構え、母はリサを抱きしめて怯えている。


「アレン、家から出るな!」


 そう言われた瞬間、足が止まった。

 だが、心の奥で何かが燃え上がる。


 ――逃げてばかりの人生にはしたくない。

 ――一度きりの転生なら、今度こそ立ち向かうんだ。


 私は鍬を握る父の背中を見て、決意を固めた。


「行こう、ミラ。レオンも!」


 駆け出した先には、すでに剣を手にした少年が待っていた。

 村鍛冶の息子、レオン。強気な眼差しで私を見据える。


「やるんだな、アレン!」

「ああ。今度こそ俺は――守る」


 三人は走り出した。

 闇の森の奥、咆哮の主へと。



森は闇に沈んでいた。

 木々の間からは夜風が吹き抜け、ざわざわと葉が鳴る。その奥から、低く唸るような咆哮が近づいてくる。


 私は掌に炎を宿し、前を見据えた。

 隣には弓を構えるミラ、そして鉄片の打ち刀を握るレオン。三人は互いに息を整えながら進んだ。


「……いるぞ」

 レオンが低くつぶやいた。


 次の瞬間、茂みが弾け飛び、巨大な影が飛び出してきた。

 漆黒の毛並み、赤く光る瞳。牙を剥き出しにし、獣よりも大きな体躯が地面を抉る。


「ゴブリン……いや、これはオーガだ!」


 ミラが声を上げる。

 通常のオーガよりもさらに凶暴な個体なのだろう、肩幅は人間の二倍もあり、木をなぎ倒して迫ってくる。



「行くぞ!」

 レオンが真っ先に飛び出した。

 剣が閃き、オーガの腕に深く食い込む。だが、分厚い皮膚は刃を受け止め、血はわずかに滲むだけだった。


「硬ぇ……!」


 オーガが怒声を上げ、レオンを薙ぎ払う。少年の体は宙を舞い、地面に転がった。


「レオン!」

 私とミラが同時に叫ぶ。


 オーガが牙を剥き、倒れたレオンへ迫ろうとする。


「させるか!」

 私は掌を突き出した。

 炎の玉が空気を裂き、オーガの顔面に炸裂する。


「グオオォォ!」


 咆哮が夜の森に響き渡る。オーガは目を覆い、よろめいた。


「今だ、ミラ!」

「任せて!」


 彼女の矢が夜空を切り裂き、オーガの左目に突き刺さる。鮮血がほとばしり、巨体がのけぞった。


「アレン、もう一発!」

「うおおおっ!」


 両手で炎を練り上げる。これまでで一番大きな火球が生まれ、轟音とともにオーガの胸を焼いた。


 炎が爆ぜ、衝撃波が木々を揺らす。

 黒煙の中、オーガは断末魔の叫びを上げ、ついに大地に崩れ落ちた。



 静寂が戻る。

 私たちは肩で息をしながら、その巨体を見つめた。


「……やった、のか」

 レオンが剣を杖にして立ち上がる。腕は震えていたが、その瞳は確かに輝いていた。


「すごい……本当に倒しちゃった……」

 ミラが弓を下ろし、私を見た。

 その頬には汗と涙が入り混じり、しかし笑顔が浮かんでいた。


 胸の鼓動が高鳴る。

 私は息を吸い、静かに言葉を紡いだ。


「俺たちなら……できるんだな」


 三人は視線を交わし、うなずいた。

 それは恐怖に打ち勝った証であり、仲間としての絆が芽生えた瞬間だった。



 夜明け、私たちは村へ戻った。

 広場には心配そうに村人が集まり、私たちの姿を見て歓声を上げる。


「アレン!」「レオン!」「ミラ!」

「よく戻った!」

「村を守ってくれたんだな!」


 抱きしめられ、頭を撫でられる。

 その温もりの中で、私は確信した。


 ――この世界で生きる意味を、ようやく掴んだ。


 一度きりの転生。

 だからこそ、恐れずに前へ進む。

 仲間と共に。


 その決意は、朝日に照らされる村の景色と共に、私の心に深く刻まれた。

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