第1章 農村の少年
風が畑を渡り、青々とした小麦が波のように揺れている。
陽射しは強いが、澄んだ空気を吸うと胸の奥まで清められるようだった。
「アレン、手を止めないの!」
父の声に振り返ると、逞しい腕で鍬を振るう姿があった。額には汗が光り、土の香りが一面に広がる。
私は小さな体で必死に鍬を動かし、畝を整える。
――これが、私の新しい日常だった。
◆
十年が過ぎた。
私は「アレン」として、農村で生きていた。
母は優しく、食卓に並ぶ料理は素朴ながらどれも温かい。
妹のリサはまだ七つで、私の後をちょこちょこと追いかけてくる。
「お兄ちゃん、また手伝い? えらいね!」
「リサも大きくなったら手伝うんだぞ」
家族に囲まれた暮らしは、前世で失ったものだった。
夜、囲炉裏を囲んで笑い合う時間は、何よりも尊かった。
◆
そして、私には特別な力が芽生えていた。
「――燃えろ!」
掌に意識を込めると、小さな火球がぱっと生まれる。
畑の端で妹のリサが歓声を上げた。
「わぁ! お兄ちゃん、やっぱり魔法使いなんだ!」
火の玉はやがて消え、煙が空へ溶けていく。
どうやら私は、火魔法の素質を持っていたらしい。村人の中でも魔法が扱える者は滅多にいないため、村の人々からは「頼もしいな」と言われるようになった。
それは、前世で「何者にもなれなかった自分」にとって大きな救いだった。
◆
「アレン!」
元気な声が背後から響いた。
振り向くと、弓を背負った少女が駆け寄ってくる。
幼馴染のミラだ。
栗色の髪をポニーテールに結び、日に焼けた頬を輝かせている。父親が狩人で、彼女自身も幼い頃から弓を学んでいた。
「また火の玉の練習してるの?」
「まあな。火を操れれば、村の役に立てるだろ」
「ふふん、私だって弓で兎くらいなら仕留められるんだから。今度、一緒に森に行こうよ!」
そう言って笑う彼女は、眩しいほどだった。
ただの幼馴染……のはずなのに、心臓が妙に速く打つ。
――でも、まだその感情の正体に気づけずにいた。
◆
夏、村は収穫祭を迎えた。
小麦の山が広場に積まれ、子どもたちは走り回る。大人たちは酒を酌み交わし、楽師の奏でる笛が宵闇に響いた。
私は焚き火の点火を任され、掌に炎を生むと人々から歓声があがる。
「さすがアレン!」「これで村は安心だ!」
頭を撫でられ、胸が熱くなる。
前世では、こんな風に誰かから必要とされたことはなかった。
今の私は、確かに“ここにいる”のだ。
「アレン! 一緒に踊ろ!」
ミラが手を取ってきた。
「ちょ、ちょっと……!」
「いいから!」
笑顔に押され、私は輪の中に引き込まれる。
手を取り合い、歌い、踊る。
炎に照らされるミラの横顔がやけに近くて、思わず目を逸らした。
胸の奥で、言葉にできない温かさが広がっていく。
◆
その夜のことだった。
祭りが終わり、人々が家路につこうとした時。
森の奥から、不気味な咆哮が轟いた。
獣とは違う。もっと荒々しく、底知れぬ気配。
村人たちは青ざめ、扉を閉ざして震えた。
「魔物……!」
誰かが叫ぶ。
父は鍬を構え、母はリサを抱きしめて怯えている。
「アレン、家から出るな!」
そう言われた瞬間、足が止まった。
だが、心の奥で何かが燃え上がる。
――逃げてばかりの人生にはしたくない。
――一度きりの転生なら、今度こそ立ち向かうんだ。
私は鍬を握る父の背中を見て、決意を固めた。
「行こう、ミラ。レオンも!」
駆け出した先には、すでに剣を手にした少年が待っていた。
村鍛冶の息子、レオン。強気な眼差しで私を見据える。
「やるんだな、アレン!」
「ああ。今度こそ俺は――守る」
三人は走り出した。
闇の森の奥、咆哮の主へと。
◆
森は闇に沈んでいた。
木々の間からは夜風が吹き抜け、ざわざわと葉が鳴る。その奥から、低く唸るような咆哮が近づいてくる。
私は掌に炎を宿し、前を見据えた。
隣には弓を構えるミラ、そして鉄片の打ち刀を握るレオン。三人は互いに息を整えながら進んだ。
「……いるぞ」
レオンが低くつぶやいた。
次の瞬間、茂みが弾け飛び、巨大な影が飛び出してきた。
漆黒の毛並み、赤く光る瞳。牙を剥き出しにし、獣よりも大きな体躯が地面を抉る。
「ゴブリン……いや、これはオーガだ!」
ミラが声を上げる。
通常のオーガよりもさらに凶暴な個体なのだろう、肩幅は人間の二倍もあり、木をなぎ倒して迫ってくる。
◆
「行くぞ!」
レオンが真っ先に飛び出した。
剣が閃き、オーガの腕に深く食い込む。だが、分厚い皮膚は刃を受け止め、血はわずかに滲むだけだった。
「硬ぇ……!」
オーガが怒声を上げ、レオンを薙ぎ払う。少年の体は宙を舞い、地面に転がった。
「レオン!」
私とミラが同時に叫ぶ。
オーガが牙を剥き、倒れたレオンへ迫ろうとする。
「させるか!」
私は掌を突き出した。
炎の玉が空気を裂き、オーガの顔面に炸裂する。
「グオオォォ!」
咆哮が夜の森に響き渡る。オーガは目を覆い、よろめいた。
「今だ、ミラ!」
「任せて!」
彼女の矢が夜空を切り裂き、オーガの左目に突き刺さる。鮮血がほとばしり、巨体がのけぞった。
「アレン、もう一発!」
「うおおおっ!」
両手で炎を練り上げる。これまでで一番大きな火球が生まれ、轟音とともにオーガの胸を焼いた。
炎が爆ぜ、衝撃波が木々を揺らす。
黒煙の中、オーガは断末魔の叫びを上げ、ついに大地に崩れ落ちた。
◆
静寂が戻る。
私たちは肩で息をしながら、その巨体を見つめた。
「……やった、のか」
レオンが剣を杖にして立ち上がる。腕は震えていたが、その瞳は確かに輝いていた。
「すごい……本当に倒しちゃった……」
ミラが弓を下ろし、私を見た。
その頬には汗と涙が入り混じり、しかし笑顔が浮かんでいた。
胸の鼓動が高鳴る。
私は息を吸い、静かに言葉を紡いだ。
「俺たちなら……できるんだな」
三人は視線を交わし、うなずいた。
それは恐怖に打ち勝った証であり、仲間としての絆が芽生えた瞬間だった。
◆
夜明け、私たちは村へ戻った。
広場には心配そうに村人が集まり、私たちの姿を見て歓声を上げる。
「アレン!」「レオン!」「ミラ!」
「よく戻った!」
「村を守ってくれたんだな!」
抱きしめられ、頭を撫でられる。
その温もりの中で、私は確信した。
――この世界で生きる意味を、ようやく掴んだ。
一度きりの転生。
だからこそ、恐れずに前へ進む。
仲間と共に。
その決意は、朝日に照らされる村の景色と共に、私の心に深く刻まれた。
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