転生は一度きり、と思っていた

鳴神祈

序章 白の間

暗闇の中で、私は自分の名前を思い出せなかった。

 記憶が霞んでいく。

 ただ、胸の奥に重たい疲労感だけが残っていた。


 最後に覚えているのは、夜遅くの帰り道。

 雨に濡れたアスファルトの照り返し、横断歩道を急ぐサラリーマンたちの影。

 そして、視界を埋め尽くすトラックのヘッドライト――。


 衝撃はなかった。

 痛みもなかった。

 ただ、目を開けたときには、真っ白な空間に立っていた。



「ようこそ、ここは白の間です」


 声の主は、雪のように白い髪と長い髭をたくわえた老人だった。

 簡素な椅子に腰掛け、私をまるで旧友のように見つめている。


「……ここは、どこですか」

「君の世界と、次の世界の狭間ですよ」


 淡々と告げられた言葉に、私は息をのんだ。

 次の世界?


「つまり、私は……死んだんですか」

「ええ。寿命より少し早かったですね。事故でした」


 やはり。

 心のどこかで薄々感じていた。

 このままでは、いつか過労か事故で倒れる、と。


 それでも、いざ言葉にされると、全身が冷たくなる。

 死んだのだ、私は。



「だが、君には転生の資格がある」

「転生……?」

「別の世界に生まれ変わることです。剣と魔法が息づく、君の知らない世界へ」


 老人は淡く笑った。

 まるで善意の使者のように。


「ただし、条件があります」

「……条件?」


 胸の鼓動が速くなる。

 老人は一拍置いてから、静かに言った。


「転生は一度きり。次はありません」


 その言葉は、白い空間の中で重く響いた。


「君がその世界で死ねば、もう二度と生まれ変わることはできない。完全なる“無”です」


「……一度きり」

「ええ。だからよく考えなさい。次の世界で、どう生きたいのか」



 私は目を閉じ、考えた。

 前の人生を振り返る。


 長時間労働、終わらない書類、眠れぬ夜。

 やりたいことなど考える余裕もなく、ただ日々を消費していただけ。

 気づけば、胸を張って語れるものなど一つも残っていなかった。


 ――次こそは。

 次こそは、後悔しない生き方をしたい。


「決めました」


 私は顔を上げ、老人の瞳をまっすぐ見つめた。


「その世界で生きます。……今度こそ、本気で」


 老人は深くうなずいた。


「いい覚悟です。では、どうか悔いなき人生を」



 視界が白に飲み込まれていく。

 足元が溶けるように消え、身体は宙に浮かぶ。


 次に目を開けたとき、そこは木造の天井だった。

 小さな手、小さな身体。


 母の腕に抱かれ、私は新しい名前を授けられた。


「アレン。……私の可愛いアレン」


 その響きが、胸に深く刻まれる。

 そうして私は、二度目にして最後の人生を歩み始めた。

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