転生は一度きり、と思っていた
鳴神祈
序章 白の間
暗闇の中で、私は自分の名前を思い出せなかった。
記憶が霞んでいく。
ただ、胸の奥に重たい疲労感だけが残っていた。
最後に覚えているのは、夜遅くの帰り道。
雨に濡れたアスファルトの照り返し、横断歩道を急ぐサラリーマンたちの影。
そして、視界を埋め尽くすトラックのヘッドライト――。
衝撃はなかった。
痛みもなかった。
ただ、目を開けたときには、真っ白な空間に立っていた。
◆
「ようこそ、ここは白の間です」
声の主は、雪のように白い髪と長い髭をたくわえた老人だった。
簡素な椅子に腰掛け、私をまるで旧友のように見つめている。
「……ここは、どこですか」
「君の世界と、次の世界の狭間ですよ」
淡々と告げられた言葉に、私は息をのんだ。
次の世界?
「つまり、私は……死んだんですか」
「ええ。寿命より少し早かったですね。事故でした」
やはり。
心のどこかで薄々感じていた。
このままでは、いつか過労か事故で倒れる、と。
それでも、いざ言葉にされると、全身が冷たくなる。
死んだのだ、私は。
◆
「だが、君には転生の資格がある」
「転生……?」
「別の世界に生まれ変わることです。剣と魔法が息づく、君の知らない世界へ」
老人は淡く笑った。
まるで善意の使者のように。
「ただし、条件があります」
「……条件?」
胸の鼓動が速くなる。
老人は一拍置いてから、静かに言った。
「転生は一度きり。次はありません」
その言葉は、白い空間の中で重く響いた。
「君がその世界で死ねば、もう二度と生まれ変わることはできない。完全なる“無”です」
「……一度きり」
「ええ。だからよく考えなさい。次の世界で、どう生きたいのか」
◆
私は目を閉じ、考えた。
前の人生を振り返る。
長時間労働、終わらない書類、眠れぬ夜。
やりたいことなど考える余裕もなく、ただ日々を消費していただけ。
気づけば、胸を張って語れるものなど一つも残っていなかった。
――次こそは。
次こそは、後悔しない生き方をしたい。
「決めました」
私は顔を上げ、老人の瞳をまっすぐ見つめた。
「その世界で生きます。……今度こそ、本気で」
老人は深くうなずいた。
「いい覚悟です。では、どうか悔いなき人生を」
◆
視界が白に飲み込まれていく。
足元が溶けるように消え、身体は宙に浮かぶ。
次に目を開けたとき、そこは木造の天井だった。
小さな手、小さな身体。
母の腕に抱かれ、私は新しい名前を授けられた。
「アレン。……私の可愛いアレン」
その響きが、胸に深く刻まれる。
そうして私は、二度目にして最後の人生を歩み始めた。
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