第19話 踏み出す一歩と年下男子


「母が変わり始めたのは、父が会社を辞めてからです」


父親が退職してからは、マンションからボロアパートへ引っ越し、食事の内容がどんどん質素なものに変わっていった。


「もうイヤダァ」


弟が「カレーが食べたい」と泣き始めた。

ここ最近は、ずっと食パンに卵を挟んだものやインスタント麺などが出ていて、飽きてもくるし、育ち盛りの男の子には確かに足りない。

母が今度作ると言っても納得がいかないようで、頬を膨らませている。

そんな兄をみて妹もつられてお菓子が食べたいと騒ぎ出した。

母がなんとかなだめようと声をかけるが、今日はなかなか泣き止まない。

「いい加減にしなさい!」

母が手を振り上げた。


「…俺、高校辞めるわ」


気づいたらそうつぶやいていた。

このままでは家族が壊れてしまう。

稼ぐことができない自分が唯一できることは、出費を減らすことだけだ。

母は静かに手を下ろすと、何も言わずに俯いた。


悠真ゆうま…ちょっと来てくれるか」


奥の部屋で横になる父に呼ばれて、枕元に座った。


「父さんのせいですまない…お前にそんなことを考えさせてしまって…」

「仕方ないよ、父さんのせいじゃないだろ」

「お前はいつも周りに気遣って我慢しているだろう?ご飯だって弟たちの量増やして自分の量減らして…」


父の小さくなった手が、高瀬たかせの手をぎゅっと握った。


「悠真、お前はもっとお前のことを考えていいんだ。お前だって私の大切な息子だよ。父さんはお前にも幸せになってほしい」


「父さん…」


「俺のせいでこうなってるのにな、すまん。でも高校は行ってほしい」


父の手を包むように両手で握った。

それから1年後、父は亡くなった。

もうこれ以上の不幸はない。

そう思っていたが、ここから母の様子がさらにおかしくなっていった。

父を失ってからの母は、しばらくぼんやりしていて家事もせず、ただ仏壇の前に座っている日々が続いた。

それでも弟や妹の腹は減るので、高瀬が学校と家事を両立させながら必死に高校に通った。

途中で辞めることも考えたが、父親に続けた方がいいと言われたことを思い出し、なんとか耐えていた。

そんなある日母が3日間も突然家を空けた。

何かあったのではないか、もしかしてヤケになってなんて想像もした。

しかし、今このことを警察にいえば家族がバラバラになってしまうかもしれない。そう思うと、誰にも相談できず、ただ母の無事を祈りながら、必死に毎日を乗り切っていた。

そして3日後に母は何事もなかったように「 ただいま」と帰ってきた。


でもそこに立っていたのは、以前の母ではなかった。


派手な金色のロングヘア―、胸元が大きく開いた白のニット、黒のツイードのスカートを履いている。

酔っているのか足元もふらついているし、酒くさい。


「今までどこ行ってたんだよ!」

「別にいいでしょ?」

悪いことした感覚はないようで、椅子に座ると面倒くさそうにため息をついている。

「俺は高校生だけど、こいつらは小学生なんだぞ?」

「あんたがいるから大丈夫かと思ってさ」

弟や妹は、すっかり怯えて高瀬の後ろに隠れている。


「どうしたの?お母さんだよ」


母が優しい声をかける。

弟と妹は母だとわかると母の胸に飛び込んでいった。

子供見捨てていても母親でも、どんな母親でも恋しいのだ。

ほんの少し寂しさを感じつつ、「もういいよ」そう言って晩御飯の準備を始めた。

その様子を見ながら、「悠真がいれば家事は大丈夫ね」と母は嬉しそうに言った。


「母さんは夜のお仕事始めることにしたから」


「は?」

「お金が足りないのよ。だから早く稼げる仕事についただけ」

そこから家に帰らないことが増え、家事、育児の全てが高瀬にのしかかってきた。

母は男と別れると、へらへらしながら家に帰ってくる。

その度に生活が乱されるのも、弟や妹の気持ちが乱されるのも迷惑だった。


もうそこに大好きな母はいない。


「もうフラフラ出ていかないでくれ」

「どういうこと?一緒にいたいの?」

母は酔っているのかニヤニヤしながら、頭を撫でてくる。

「触らないでくれ!」

「悠真がいれば家事も育児も大丈夫でしょ」

「いや、俺は親じゃないし、ずっとここにいるとは限らないだろ」

母はハハハと笑い出した。

「何逃げようとしてんの?ずっと母さんと弟たちがそばにいるわよ」


「あの瞬間、自分の人生が終わるんじゃないかと怖くなって・・・しばらくして家を出ました」

「そっか」

まいは高瀬の隣に座ると、背中をそっと撫でた。

「頑張ってきたんだね」

高瀬はぶんぶんと首を横に振った。

「俺は逃げただけ」

「そんなことないよ、出来ることはやったと思うよ」

「でも弟と妹は・・・」

高瀬の目がにじんでいく。

「悠真は悪くないよ。でも弟くんと妹ちゃんが気になるんだよね?」

高瀬はコクリと頷いた。

「悠真はもう大人だし、私もいる。弟くんたちを助ける方法はあるから」

高瀬が顔を上げる。

「行こう」

舞は立ち上がると、高瀬に手を差し伸べた。

震えながら、高瀬は自分の手を重ねた。



高瀬の実家は、電車で2時間先の郊外にある。

電車に揺られている間も、高瀬は小さく震えていた。

よっぽどのトラウマや罪悪感があるのだろう。

高瀬の膝の上の手にそっと自分の手を重ねた。

高瀬の方を見て、大丈夫だよと頷いた。

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