第31話 母親としての決意
和真の死から数ヶ月が経った。私の日常はあの日を境に完全に姿を変えてしまっていた。学校にはもう行っていない。友人たちからの連絡もいつしか途絶えていた。私はただ自分の部屋という小さな世界に閉じこもりお腹の中で育っていく新しい命と共に静かに日々を過ごしていた。その腹の膨らみは日に日に大きくなっていく。それは和真が確かにこの世に存在していたという動かぬ証拠だった。鏡に映る私の顔は以前の輝きを完全に失いまるで生気のない人形のようだった。目の下のくまは深く刻まれ唇は血の気を失いかさついている。かつて和真の隣で笑っていたあの頃の私とは似ても似つかない。私は鏡の中の私に問いかけた。お前は一体誰だ。どうして生きているんだ。その問いに答えはない。ただ胸の奥で重い鉛の塊がのしかかっているような苦しさが続くだけだった。
生きる意味も目的も見失ってしまった。私をこの無味乾燥な現実世界に繋ぎ止めている唯一の楔それが定期健診だった。母は半ば無理やり私の腕を引きずるようにして私をあの産婦人科へと連れて行った。私にとってその場所は全ての元凶だった。私のこの腹の中にいる小さな命。それが和真を死に追いやったのだ。そう思うと私は自分自身が許せなくてたまらなかった。診察室の白い壁。消毒液のツンとした匂い。それら全てが私の罪を告発しているように感じられた。
私はそっと自分のお腹を撫でた。その小さな命のぬくもりが私の手のひらに伝わってくる。生きなければ。この子を一人で育てていかなければ。和真が残してくれたこの子だけがこの世で唯一の和真なのだ。私はこの子に和真の温もりを伝えなければならない。和真の優しさを伝えなければならない。和真の笑顔を伝えなければならない。和真がどれだけこの子を愛していたか私がこの子に伝えていかなければならない。それが私にできる唯一のそして最後の償いなのだ。
私は机の引き出しから一冊の育児雑誌を取り出した。それは初めて産婦人科に行った日母が買ってきてくれたものだ。今まで開くことさえ躊躇していたそのページを私は初めてめくってみる。可愛らしい子供服の写真。育児に必要なグッズのリスト。それら全てが私には未知の領域だった。しかし私の心はその一つ一つに静かな希望を見出していく。まるで深い海の底で光を見つけた人魚のように。私はこの子を育てることで私自身も母親として成長しなければならない。和真を壊してしまった未熟な私ではない強く優しい母親に。
その頃涼子もまた私と同じように和真との子を宿していた。彼女もまた一人で子供を産むことを決意したのだという。偶然共通の友人から聞いたその話は私の心を奇妙なほど穏やかにした。かつて和真の隣を巡って醜い争いを繰り広げた私たち。しかしもうその戦いに意味はない。和真を失った今私たちは母親になるという同じ道を歩み始めたのだ。私たちを繋ぐのは和真への想いだけではない。和真が残してくれた新しい命への愛という共通の感情だ。その事実に気づいた時私の心に温かい光が差し込んだ。
私たちは母親になった。
互いににもう和真の隣の席を奪い合う必要はない。和真はもういない。でも彼が確かに生きていたという証は私たちの中に永遠に残り続ける。そして私たちはその命をこの手で守り育てていくのだ。
私はもう一度自分のお腹をそっと撫でた。
この子が新しい私のそして和真の生きる意味なのだ。
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