第30話 新たな命の存在


 和真の葬儀が終わってから私の時間は完全に止まった。世界から色が音が匂いが消え失せた。私はただ呼吸だけを繰り返す抜け殻になった。生きる意味も目的も見失ってしまった。私を殺さなかったのは、ただ母親のその悲痛な顔をこれ以上見たくなかったからという、それだけの理由だった。


 私をこの無味乾燥な現実世界に繋ぎ止めているもう一つの楔。それが定期健診だった。母は半ば無理やり私の腕を引きずるようにして、私をあの産婦人科へと連れて行った。私にとってその場所は全ての元凶だった。私のこの腹の中にいる小さな命。それが和真を殺したのだ。そう思うと私は自分自身が許せなくてたまらなかった。


 診察室の冷たい内診台の上に横たわる。いつもと同じ無機質な天井。医師が私の腹に冷たいジェルを塗りエコーの機械を当てていく。モニターに映し出される白黒の影。私にはそれが何なのかよく分からなかった。ただ私の罪の証拠がそこにあるということだけを理解していた。


「順調ですね。赤ちゃん大きくなりましたよ」

 医師のその穏やかな声がひどく残酷に響いた。私は何も答えなかった。早く終わってほしい。早くこの忌わしい時間から解放されたい。その時だった。医師が何か機械のスイッチを入れたのは。


 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。


 静かな診察室に力強い音が響き渡った。それはあまりにも規則的で生命力に溢れた音だった。私の心臓の音ではない。もっとずっと早くそして力強い。

「心臓の音ですよ。ほら元気に動いているでしょう」

 医師が優しい声で言った。


 その音を聞いた瞬間、私の止まっていた時間がゆっくりと動き始めた。私の凍りついていた心がその熱い鼓動に溶かされていく。涙が私の頬を伝った。それは後悔や罪悪感の涙ではなかった。


 私の内側で確かに生きている命。和真が残してくれたたった一つのかけがえのない宝物。彼を死に追いやった元凶なんかじゃない。彼が確かにこの世界に生きていたという証なのだ。この小さな命は私を責めてなどいない。ただひたむきに生きようとしている。和真の分まで生きようとしている。その力強い心音は私にそう語りかけているようだった。


 失われた命への悲しみは消えない。しかし、それ以上に、これから生まれてくる、この、新しい命に対して、私にできることは、いくらでもあるはずだ。和真にしてあげられなかった、全てのことを、この子にしてあげよう。私が、この子の、未来を、作るんだ。


 私はそっと自分のお腹に手を当てた。まだその膨らみは小さい。しかし、その奥深くで和真の命が確かに息づいている。私は生きなければならない。この子を産み育て守り抜かなければならない。それが和真に対する私の唯一の、そして本当の贖罪なのだから。


 絶望の淵にいた私に一条の光が差し込んだ。それは和真が命と引き換えに私に残してくれた希望の光だった。私は診察室のベッドの上で声を上げて泣いた。それは私の新しい人生の始まりを告げる産声のようだった。

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