第32話 未来への一歩
和真の死から数年が経ち、彩香は母親になっていた。私の隣には和真の面影を持つ男の子がいる。私は彼に「和樹」という名前をつけた。和真の「和」に、木々のように健やかに育ってほしいという願いを込めた。私は彼に和真のことをたくさん話して聞かせた。お父さんは優しくていつも私のことを守ってくれたヒーローだったこと。少し不器用だけど真っ直ぐな心を持った人だったこと。私はこの子に和真がどれだけこの世に生きたかったかを伝えていかなければならない。それが和真の命を繋ぐ唯一の方法だと信じていた。
ある晴れた日の午後、私は和樹の手を引いて近所の公園を訪れた。和樹は四歳になり、もう歩くのも走るのも一人でできるようになった。私から離れて砂場へと駆け寄っていく。そこで無邪気に砂遊びを始める和樹の姿を私は穏やかな眼差しで見つめていた。私の胸の中には罪悪感や悲しみが消えることはない。しかし和樹という新しい命がくれた光がその闇を少しずつ照らしてくれている。私は和真を奪ってしまった。だが和真は私にこの子というかけがえのない宝物を残してくれたのだ。この子の笑顔が私に生きる意味を与えてくれる。
その時だった。私の視界に、もう一人、和樹と同じくらいの男の子の姿が映った。その子の顔には和真の面影が色濃く残っている。そしてその子の隣に立つ女性に私は息を呑んだ。
椎名涼子。
数年ぶりに再会した彼女はあの頃と変わらずクールな美しさを保っていたが、その表情にはどこか穏やかな母親の顔が加わっていた。彼女の隣にいる男の子も和真の面影を持っている。彼女もまた和真の命を宿し、母親としてこの子を育てていたのだ。
私たちは言葉を交わすこともなくただお互いを見つめ合った。あの頃の私たちを包んでいたのは激しい憎しみと嫉妬心だった。しかし、今は違う。私たちを繋いでいるのは和真への想いだけではなく、彼が残してくれた二つの命という共通の絆だった。互いの瞳に映る子供たちの姿は和真が確かにこの世に生きていたという証だ。その事実が、私たちの心のわだかまりを、静かに溶かしていく。
砂場に目を向けると、二人の和真の面影を持つ男の子が、仲良く砂の山を作っていた。その無邪気な笑顔が、まるで和真の生前の笑顔と重なって見える。私たち二人はその光景をただ穏やかな眼差しで見つめていた。
やがて、涼子の視線が私に戻ってきた。彼女は戸惑いながらも、どこか懐かしいような、そして過去を乗り越えた清々しい表情で、私に小さく会釈を交わした。私もまた、彼女の会釈に小さく頷き返した。それはかつてのライバル関係ではなく、和真の残した二つの命をそれぞれが育む「母親」として、互いの人生を肯定し、未来への一歩を踏み出した二人の姿だった。
私たちの関係はもう友情ではない。ましてや敵対関係でもない。和真という存在がくれた、そして奪っていった、全ての記憶を共有する、かけがえのない家族。もう二度と会うことはないかもしれない。それでも、空を見上げればそこに和真がいるように、彼女もまたどこか遠い場所で和真の命を繋いで生きている。その事実が、私の心を、温かく、そして優しく包み込んでくれる。
完
私の未熟が彼を壊した 舞夢宜人 @MyTime1969
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