第20話 涼子の誘惑


 俺が放った「何でもない」という惨めな嘘は、公園の冷たい空気の中に虚しく溶けていった。涼子は俺の言葉を信じてはいなかった。当たり前だ。あんなにも思い詰めた顔で呼び出し、そして何も言えずに俯く男の言葉を誰が信じられるというのだろう。彼女はただ俺がそれ以上話すことを拒絶したのだと悟っただけだった。


 重い沈黙が再び俺たちを支配する。夕日はもう地平線の向こうにその姿をほとんど隠してしまっていた。残された茜色の光が、涼子の整った横顔を悲しいほど美しく照らし出す。彼女のいつも冷静沈着な表情の奥に、深い困惑と傷ついたような色が浮かんでいるのを俺は見て見ぬふりをした。


 俺は最低だ。彩香との約束を破った。そして、涼子の信頼を裏切った。この期に及んでまだ自分が傷つくことから逃げようとしている。この優柔不断さが、この卑怯な弱さが、事態を最悪の方向へと転がしていく。


 不意に涼子の冷たい指先が、俺の固く握りしめられた拳の上にそっと置かれた。俺はびくりと肩を震わせる。彼女の手は微かに震えていた。


「和真」

 彼女が俺の名前を呼ぶ。その声もまたいつもとは違うか細い響きを持っていた。「私、何かしたかな。和真を怒らせるようなこと」

 違う。違うんだ涼子。君は何も悪くない。悪いのは全部俺なんだ。そう叫びたかったが、俺の喉は鉛を飲み込んだかのように動かなかった。


 俺が何も答えられないのを見て、彼女は言葉を続けた。その声はまるで祈りのようだった。「もし私に足りないものがあるなら言ってほしい。私、直すから。和真の隣にいられるように頑張るから」そのあまりにも健気な言葉が俺の罪悪感を容赦なく抉った。俺は彼女のこの純粋な想いを受ける資格のない汚れた人間だ。


 彼女は俺の手を両手で包み込むように握りしめた。「私ね、和真のこと本当に好きなんだよ」その時、俺は見てしまった。彼女の大きな瞳から一筋の涙が静かにこぼれ落ちるのを。いつもクールで決して人前で弱さを見せない、あの椎名涼子が今俺の前で泣いている。


 その一粒の涙が、俺のなけなしの決意を完全に粉々に砕いてしまった。彼女は震える声で最後の、そして究極の提案を口にした。


「和真、私と一つになってほしい」


 俺は息を呑んだ。「もし私たちがもっと深い関係になれたら……そうしたら和真のその苦しみも少しは和らぐんじゃないかなって……。私、和真のためなら何でもできる。だから……」

 彼女は俺にその初めてを捧げたいのだと言っている。このどうしようもない袋小路の状況を打開するために。俺たちの絆を確かなものにするために。彼女は自分の最も大切なものを差し出そうとしているのだ。


 俺の心は激しく揺れ動いた。頭の中では彩香の泣き顔がちらつく。彼女との約束が重くのしかかる。しかし、目の前には涙を流し俺に全てを捧げようとしている涼子がいる。この純粋な願いをどうして拒絶できるだろうか。ここで彼女を断ることは、別れを告げること以上に彼女を深く惨めに傷つけることにならないだろうか。


 涼子の涙が俺の罪悪感をさらに深くえぐり、そして彩香への約束を鈍らせていった。俺はもう正常な判断などできなくなっていた。ただ目の前のこの悲しい顔をした少女をこれ以上傷つけたくない。その一点だけで俺の心は満たされていた。俺は震える彼女の手をゆっくりと握り返した。それが俺の答えだった。

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