第18話 和真の決意


 街灯の頼りない光の下で、彩香はただ子供のように泣きじゃくっていた。そのむき出しの、あまりにも痛々しい魂の叫びを、俺はただ呆然と聞いていることしかできなかった。嘘。全部、嘘だったのだ。練習台という言葉も、涼子のためという大義名分も。俺の頭の中でバラバラだったピースが一つまた一つと恐ろしい速度で組み合わさっていく。喫茶店での提案も、展望フロアでのキスも、そしてホテルでのあの激しい情事も、全てが彼女の十七年越しの絶望的な恋心から生まれた、狂おしいまでの計画だったのだ。


 俺はなんて愚かだったのだろう。なんて鈍感で、残酷な人間だったのだろう。彼女の潤んだ瞳の意味も、震える声の意味も、俺は何も分かっていなかった。いや、分かろうとしていなかった。俺は自分に都合のいい「親友」という役割を彼女に無邪気に押し付けていただけなのだ。その仮面の下で、彼女がどれほど傷つき、苦しんでいたのかも知らずに。


 小学生の頃の記憶が蘇る。教室の隅でいつも一人で本を読んでいた小さな女の子。クラスの女子たちから仲間外れにされ、男子からはからかわれ、それでも彼女は決して泣き言を言わなかった。ある日、俺は彼女の上履きがゴミ箱に捨てられているのを見つけた。誰がやったのかはすぐに分かった。俺は頭にきて、その主犯格の男子と殴り合いの喧嘩になった。先生にこっぴどく叱られた。その帰り道、彼女が俺に追いついてきて、小さな声で「ありがとう」と言った。夕日に照らされたその横顔を、なぜか今でもはっきりと覚えている。


 俺にとってはただの正義感からきた些細な行動だった。しかし彼女にとっては、それが世界の全てを変えるほどの出来事だったのだ。俺は彼女のヒーローだった。その俺が、彼女の世界を壊した。涼子と付き合うことになったのだと、あの無邪気な笑顔で彼女に告げた、あの瞬間に。


 涼子のことは好きだ。彼女の知的でクールなところに惹かれた。しかし、彩香は。彩香のいない人生など、俺は想像したことさえなかった。彼女が隣にいることが当たり前すぎたのだ。空気のように。水のように。失って初めて、そのかけがえのなさに気づく。俺が本当に失いたくないのは誰だ。俺の本当の気持ちはどこにある。答えはもう、とっくの昔に出ていたはずだった。俺は自分の弱さと鈍感さから、ただ目を逸らしていただけなのだ。ホテルでのあの行為はただの過ちではなかった。十七年間ずっと心の奥底で燻り続けていた彼女への想いが、あの背徳的な状況で爆発したに過ぎない。


 もう、逃げるのはやめよう。これ以上彼女を、そして涼子を傷つけるのは、もうたくさんだ。俺はゆっくりと、まだ地面に蹲り泣き続けている彩香の前へと歩み寄った。


 俺は彼女の前に跪くと、その涙でぐしゃぐしゃになった顔を、両手でそっと包み込んだ。彼女がびくりと肩を震わせる。俺は彼女の濡れた瞳を真っ直ぐに見つめ返した。俺の瞳に、もう迷いはなかった。


「彩香」

 俺は覚悟を決め、そして告げた。

「涼子には、ちゃんと話す」

 それは俺が、俺自身の弱さと初めて向き合った、決意の言葉だった。

「だから、もう泣くな」

 街灯の光が、俺たちの新しい関係の始まりを、静かに照らしていた。

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