第9話 触れられる純粋
「ごめん」
その一言が、私の世界を再び無音にした。ホテルの部屋の、空調の低い唸りだけが、耳鳴りのように響いている。さっきまでの幸福感は、まるで幻だったかのように跡形もなく消え去り、後には、凍てつくような、そして底なしの絶望だけが残された。彼の背中が、私との間にそびえ立つ、決して越えることのできない壁のように見えた。彼は、涼子を選んだのだ。この行為のすべてを、後悔しているのだ。
涙が、再び私の頬を伝い始めた。しかし、それはもはや、熱い感情の奔流ではなかった。氷のように冷たい雫が、一粒、また一粒と、私の心を凍らせていく。このまま、この冷たさの中で、私は死んでいくのかもしれない。そんな考えさえ、頭をよぎった。終わりだ。私の十七年間の恋も、私の浅はかな復讐計画も、すべては、この無機質なベッドの上で、惨めな終わりを迎えたのだ。
しかし、私の心は、その結末を受け入れることを、頑なに拒んだ。諦めたくない。このまま、彼を失いたくない。彼の心が手に入らないのなら、せめて、彼の温もりだけでも、今この瞬間だけは、私のものにしたい。絶望の淵で、私は、まるで溺れる者が藁を掴むように、最後の行動に出た。それは、もはや計画でも、計算でもない。ただ、心が張り裂けそうなほどの、純粋な渇望だった。
私は、冷え切った体を、彼の背中にゆっくりと擦り寄せた。彼は、びくりと体を硬直させたが、私を振り払うことはしなかった。シーツの上に投げ出された彼の右手が、すぐそこにある。サッカーで日に焼けた、骨張った、大きな手。私が知っている、世界で一番好きな手。
私は、震える指先で、そっとその手に触れた。彼の肌は、驚くほど熱かった。その熱が、私の氷のような指先から、ゆっくりと、しかし確実に、私の体へと伝わってくる。生きている。私たちは、まだ、ここにいる。
私は、彼のその手を、両手で包み込むようにして握った。彼は、されるがままだった。まるで、魂の抜けた人形のように。私は、彼のその手を、ゆっくりと、私の体の方へと導いていく。彼の指先が、私の腹部に触れた。彼の戸惑いが、肌を通して伝わってくる。しかし、私は止めなかった。
私は、彼のその手を、さらに上へと導き、そして、私の左胸の、柔らかな膨らみの上に、そっと置いた。
彼の大きな手のひらが、私の小さな胸を、すっぽりと覆う。その重みと、熱。私の心臓が、彼の掌の下で、狂ったように激しく鼓動を打った。今まで、誰にも触れられたことのない、私の聖域。そこに、今、和真の手が置かれている。
.彼が、無意識に、指を僅かに動かした。その指先が、私の胸の中心にある、硬くなった小さな突起に、偶然触れた。
その瞬間、私の背筋を、今まで経験したことのない、鋭い快感が、稲妻のように走り抜けた。
「あっ……」
自分でも意図しない、甘い声が、唇から漏れる。体が、弓なりに反った。頭の芯が、じんと痺れる。絶望で凍りついていたはずの体が、この一点から、再び熱を取り戻していく。
それは、驚きだった。自分の体が、こんな感覚を知っていたことへの。
それは、興奮だった。未知の扉が、今、開かれようとしていることへの。
そして何よりも、それは、背徳感だった。十七年間、純粋なものだと信じてきた、幼馴染としての心が、この抗いがたい官能に、今、急速に染め上げられていく。
.絶望は消えない。しかし、その絶望のすぐ隣に、新しく、そして恐ろしく甘美な感情が、確かに芽生えていた。
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