第8話 和真の告白と後悔


 部屋の静寂を破ったのは、和真だった。彼は、まるで磁石に引かれる鉄のように、私に向かって一歩、また一歩と距離を詰めてくる。その瞳に宿る熱は、もはや理性では制御できない段階にまで達していた。幼馴染という最後の薄皮を、彼の欲望が焼き尽くしていく。彼は私の前に立つと、震える手で、私の頬に触れた。その指先は、火傷しそうなほど熱かった。


 次の瞬間、彼の唇が、私の唇を塞いでいた。展望フロアでの、あの不意打ちのようなキスとは違う。それは、もっと深く、もっと貪欲で、お互いの魂ごと喰らい尽くそうとするかのような、激しいキスだった。私は彼の首に腕を回し、その全てを受け入れる。彼の熱が、私に伝染していく。もう、計画も、復讐も、どうでもよくなっていた。ただ、この男が欲しい。心の底から、そう思った。


 どちらからともなく、私たちはベッドへと倒れ込む。シーツの擦れる音、乱れる互いの呼吸、それら全てが、背徳的なBGMとなって部屋に響いた。私の体に巻き付いていたタオルが、彼の手によって、いとも簡単にはだけさせられる。十七年間、誰にも見せたことのない私の肌が、薄暗い照明の下、彼の視線に晒された。恥ずかしさよりも、言い知れぬ高揚感が、私の全身を支配した。


 和真の唇が、私の首筋を、鎖骨を、そして胸の膨らみを、ゆっくりと旅していく。その感触の一つ一つが、私の体に、今まで知らなかった種類の快感を刻みつけていく。甘く、蕩けるような感覚。頭の芯が痺れ、思考が働かなくなる。私はただ、彼の名をつぶやくことしかできなかった。


 その時だった。私の肌に顔を埋めたまま、和真が、掠れた声で囁いたのは。


「彩香、好きだ」


 その言葉は、雷鳴のように、私の全身を貫いた。

 好きだ。今、彼は、確かにそう言った。

 歓喜の波が、私の体の内側から、激しく湧き上がってくる。ああ、私は、勝ったのだ。涼子から、彼を奪ったのだ。彼の体だけではない。彼の心も、今、確かに私のものになった。復讐は、完璧に達成された。涙が、頬を伝う。それは、悲しみや悔しさの涙ではない。十七年間の想いが、ようやく報われたことへの、歓喜の涙だった。私は、この上ない幸福感に包まれながら、彼との初めての結合を受け入れた。


 どれくらいの時間が過ぎたのか、分からない。激しい嵐が過ぎ去った後のように、部屋には静寂が戻っていた。乱れたシーツの上で、私たちは、隣り合って横たわる。彼の背中が、すぐそこにある。私は、幸福感の余韻に浸りながら、その背中に、そっと指先で触れようとした。新しい関係の始まりを、確かめるために。


 しかし、彼は、その背中で、私を拒絶していた。ぴくりとも動かない、硬直した背中。先程までの熱が嘘のように、冷たく、そして頑なに、心を閉ざしているように見えた。私の伸ばしかけた指が、空中で止まる。嫌な予感が、心臓を鷲掴みにした。


 長い、耐え難い沈黙の後、彼が、ぽつりと呟いた。その声は、ひどくか細く、そして絶望の色を滲ませていた。


「ごめん」


 たった一言。

 そのたった一言が、私の幸福の絶頂を、一瞬で地の底へと叩き落とした。

 ごめん?何に対しての謝罪なの。私を抱いたこと?それとも。

 答えは、聞かなくても分かっていた。彼は、涼子を裏切ったことを悔いているのだ。私に「好きだ」と囁いた、あの甘い言葉は、欲望に負けた一瞬の過ちでしかなかったのだ。


 全身の血が、急速に凍りついていく感覚。さっきまであれほど熱かった体が、今は氷のように冷たい。

 私は、彼を奪ったのではなかった。私は、彼の欲望の捌け口にされただけだった。

 結局のところ、私は、最後まで「練習台」でしかなかったのだ。

 勝利に浸っていた自分が、ひどく惨めで、滑稽に思えた。歓喜の涙の跡が残る頬を、今度は、それとは比べ物にならないほど冷たく、そして重い、絶望の涙が静かに伝っていった。

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