第6話 ホテルへの一歩
唇が離れた後、世界から音が消えた。展望フロアの静寂の中で、聞こえるのはお互いの荒い呼吸と、警鐘のように鳴り響く私の心臓の音だけだった。目の前に立つ和真は、大きく目を見開いたまま硬直している。その瞳には、夜景の光が揺らめき、深い戸惑いと、そして私がはっきりと読み取れるほどの、抗いがたい欲望の色が浮かんでいた。彼は何かを言おうとして、か細く私の名前を呼んだ。「彩香……」その声は掠れ、熱を帯びていた。
計画通り。彼の理性のダムは、今、決壊寸前だ。私の仕掛けたキスという小さな衝撃が、彼の内側に眠っていた本能を呼び覚ましたのだ。あの夜、スマートフォンで読んだ記事の一節が脳裏をよぎる。「男は、一度火がつけば、もう自分では止められない」。まさに、今がその時。私はここで、最後の一押しをしなければならない。自分の欲望に火照る身体を、私は復讐のための道具へと変える。
私は彼から一歩も引かず、むしろ、さらに体を密着させた。彼の胸に、私の小さな胸の膨らみが押し当てられる。制服の生地越しに、彼の心臓の猛烈な鼓動が伝わってきた。私は彼の耳元に唇を寄せ、熱い吐息と共に、甘い毒を注ぎ込む。
「練習、このまま最後まで付き合ってくれない?」
その言葉は、私が用意した脚本の中で、最も重要で、最も残酷な台詞だった。「練習」という言い訳は、彼の罪悪感を麻痺させるための麻酔だ。彼は私の言葉に、びくりと体を震わせた。そして、まるで我に返ったかのように、私を突き放そうと腕に力を込める。
「駄目だ、彩香。俺には、涼子がいるんだ」
彼の声は、苦しげだった。涼子の名前を出すことで、かろうじて理性の欠片を繋ぎ止めようとしている。しかし、その瞳の奥で燃え盛る炎は、もう隠しきれていない。
私は、彼の腕を掴み、その抵抗を封じた。そして、潤んだ瞳で彼を見上げる。これもまた、鏡の前で練習した、最も男の庇護欲を掻き立てる表情。
「分かってる。だから、練習なんでしょ。涼子ちゃんとの本番で、和真が失敗しないための。涼子ちゃんを、世界で一番幸せにしてあげるための、最後の練習だよ」
私は彼の言葉を逆手に取り、彼の純粋な想いを、私の欲望を満たすための大義名分にすり替えた。涼子のため。その一言が、彼の最後の抵抗を、砂の城のように崩れさせた。彼の腕から、力が抜けていく。
私は、彼のその手を取ると、展望フロアを後にした。エレベーターの中、どちらも一言も発しない。気まずい沈黙の中、鏡張りの壁に映る私たちの姿は、まるで共犯者のようだった。地上に戻ると、夜の街の喧騒が私たちを迎えた。私は、彼の手を引いたまま、迷うことなく、ネオンが妖しく光る一角へと歩を進めていく。
そこは、私が今まで足を踏み入れたことのない、大人たちのための街だった。けばけばしい看板が、愛を囁き合う恋人たちを甘く誘っている。私たちはその一つ、比較的落ち着いたデザインのホテルの前で足を止めた。和真は、その建物を呆然と見上げている。彼の額には、脂汗が滲んでいた。
私は彼の手を離すと、彼の前に回り込み、その顔を両手で包み込んだ。
「大丈夫。全部、私が教えてあげるから」
そう囁くと、彼はまるで魔法にかけられたかのように、こくりと頷いた。私は彼の手を再び取り、重厚なガラスのドアへと導く。ドアノブに手をかけるのは、彼でなければならなかった。彼自身の意志で、この禁断の扉を開けさせること。それが、私の復讐の儀式における、最後の仕上げだった。
和真は、震える手で、ゆっくりとドアを押した。重く軋むような音を立てて、扉が開かれる。一歩足を踏み入れると、むわりとした生温かい空気と、甘ったるい芳香剤の匂いが、私たちの体を包み込んだ。外界の喧騒が嘘のように消え、しんと静まり返った空間。
私たちの背後で、重いドアが、ゆっくりと、しかし決定的な音を立てて閉まった。
バタン。
その音は、もう後戻りはできないという宣告だった。この扉の向こう側とこちら側とでは、世界の法則が違う。私は、計画が最終段階に至ったことへの歓喜と、未知なる領域へ足を踏み入れた恐怖で、全身が震えるのを止められなかった。
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