第5話 最後の練習


 雑貨店を出た後も、私の心はさざなみのように揺れ続けていた。腕にかけたショッピングバッグの中には、淡いピンク色のブラウスが収まっている。その柔らかな生地の感触が、袋越しにでも伝わってくるかのようだ。和真の、あの屈託のない笑顔。私に似合うと言ってくれた時の、優しい声。それらが、私の胸に深く突き刺さったまま、鈍い痛みを放ち続けていた。復讐という、冷たく硬い決意の鎧は、彼のたった一度の優しさによって、もろくも崩れ去ろうとしていた。


 日が落ちて、街が宝石のような光を灯し始める。今日の「練習」も、そろそろ終わりが近づいていた。このままではいけない。このまま、ただの優しい幼馴染のままで、彼を解放してしまってはいけない。私の心を占めるのは、和真への愛情か、それとも涼子への憎しみか。もう、自分でも分からなくなっていた。ただ、ここで引き返せば、私はきっと、一生後悔する。そう、直感だけが告げていた。


 私は揺れる心を振り払うように、最後の提案をした。

「ねえ、和真。デートの締めくくりと言えば、やっぱり夜景じゃないかな」

 この街で一番高いビルにある展望フロア。そこへ行くことは、私の計画の最終段階における、重要な布石だった。和真は「いいな、それ」と、無邪気に賛成した。彼はきっと、涼子をそこに連れて行く自分の姿を想像しているのだろう。その想像が、私の最後の良心を完全に消し去った。


 高速エレベーターが、無音で私たちを地上から引き離していく。窓の外で、街の光がみるみる小さくなっていく様を、私は無言で見つめていた。隣に立つ和真の体温を感じる。もう、迷ってはいられない。私は、悪魔になるのだ。


 展望フロアは、静かな闇と無数の光で満たされていた。床から天井まで続く巨大なガラス窓の向こうには、星屑を地上に撒き散らしたかのような、圧倒的な夜景が広がっている。他の客たちも、皆その光の海に魅入られ、ひそやかな囁き声だけが、荘厳なBGMのように流れていた。私たちは、フロアの隅にある、人の少ない場所へと歩を進めた。


 和真はガラスに額を押し付けるようにして、眼下の景色に見入っていた。

「すげえな。こんなの、初めて見た」

 彼の横顔が、色とりどりの街の光に照らされて、美しく浮かび上がる。その瞳は、純粋な感動にキラキラと輝いていた。きっと、彼の心の中には、この美しい景色を一番に見せたいであろう、涼子の笑顔が映っているのだろう。その想像が、私の胸を鋭く切り裂いた。もう、我慢の限界だった。


 私は意を決し、彼の背後からそっと近づいた。心臓が、肋骨を突き破るのではないかと思うほど、激しく鼓動している。震える両手を、ゆっくりと持ち上げる。そして、彼の背中に、そっと触れた。シャツ越しに伝わる、彼の背中の筋肉の硬さと、確かな温かさ。


 和真が、驚いて振り返った。ガラスに映っていた夜景ではなく、すぐ後ろにいる私の顔を、彼の瞳が捉える。その驚きと、戸惑いに満ちた瞳。私は、その瞳から視線を外さずに、最後の引き金を引く。


「最後の練習だよ」


 吐息だけで紡いだその言葉が、二人の間の空気を震わせた。和真が何かを言う前に、私は彼の首に腕を回し、少しだけ背伸びをして、彼の唇に、自分の唇を重ねた。


 それは、計画を遂行するための、ただの打算的な行為のはずだった。彼を動揺させ、理性を奪い、次の段階へと引きずり込むための、冷たい儀式のはずだった。

 しかし、初めて触れた和真の唇は、想像していたよりもずっと柔らかく、そして温かかった。その感触が、私の全身を、まるで弱い電流のように駆け巡る。頭の中が真っ白になった。計画も、復讐も、涼子への憎しみさえも、すべてが溶けて消えていく。ただ、目の前にいる和真の存在だけが、世界の全てになった。

 これは、練習じゃない。これは、演技なんかじゃない。

 私がずっと、心の奥底で、心の底から望んでいた、本物の欲望なのだと、この瞬間、私は悟ってしまった。

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