第3話仮の名、仮の寝床

 木柵の門をくぐると、ブレム村ぶれむむらの空気は焚き火と麦の匂いで満ちていた。

 助けた子――ロウろうが嬉々として走り、人だかりの中心にいる少女へ飛びつく。栗色の髪が揺れ、その少女は膝をついて抱きしめた。


「遅いよ、ロウ。心配したんだから」


「ごめん。でもこの人が助けてくれた!」


 少女の視線がこちらを射抜く。

 まっすぐで、嘘を嫌う瞳だ。俺は無意識に左手首の布を引き上げ、魔紋まもんの痕を隠した。あの印を見られたら、すべてが終わる。


「助けてくれて……ありがとう。私はミレイユみれいゆ。ロウの姉だよ」


「ア……」

 危うく本名を口走りそうになり、喉の奥で言葉を噛み殺す。

 ここで名を誤れば、どこかで辻褄の合わない綻びが出る。新しい名前を――。


レインれいんだ。流れの者だよ」


 少女――ミレイユは短く頷いた。

 疑っているのか、救助者への礼を尽くしたいのか、読み取れない静けさが瞳に宿っている。


「まずは怪我の手当てを。ロウ、桶と布を」


「うん!」


 案内されるまま、共同井戸のそばに腰かける。井戸枠に置かれた桶の水面が揺れ、俺の顔を細かく切り裂いて映す。

 ここにいるのは“元魔王軍もとまおうぐんの部下”ではない。“レイン”という名の流れ者だ。

 そう思い込ませろ。そう演じ切れ。


 傷は浅い。狼の牙も、今の耐久なら皮膚を裂くほどには届かない。

 だが力を誇示すれば余計な注目を浴びる。俺はわざとゆっくりと、痛がる素振りを足しながら腕を見せた。


「これくらいなら平気だ。少し休めば――」


「消毒はするよ」

 ミレイユの声は柔らかく、それでいて反論を許さない芯があった。布に薬草を絞り、手際よく傷口にあてる。

 その指先は節だらけだ。畑か、紡ぎか、日々の手仕事でできあがった固さ。


「礼を言う」


「礼を言うのはこっち。森でロウを見つけるのは、いつも一苦労だから」


 薄く笑って、彼女は視線を柵の外へ流した。

 そこには、森がある。必要なものの多くを与え、そして奪う、村の相棒であり敵だ。


「今日、見張り番みはりばんが一人いなくてね。柵板も割れてる。……直さなきゃ」


 言葉は独り言のようで、助けの提案を待っているようでもあった。

 俺は立ち上がる。身体は思った以上に軽い。

 ――だが出しすぎるな。死者強化デスブーストで底が変わったとはいえ、目立てば詮索が来る。


「板運びくらいなら、手伝える」


「助かる。ロウ、釘箱を持ってきて」


 村の端、破れた柵の前に立つ。

 打ち付けるべき板は濡れて重い。以前の俺なら二人がかりでも上がらない重さだ。

 わざと半歩遅い動きで肩に担ぎ、支柱に当てた瞬間――反対側から低い声がかかった。


「知らねぇ顔だな」


 振り向くと、灰髭の老人が腕を組んでいた。背は曲がっているが、両の目は刃物のように鋭い。


「村の長、《オルド》だ。お前、どこから来た」


「北の街道沿いです。仕事を探していました」


「装備が街道の流れ者にしては整いすぎてる。手入れも軍隊式だ」


 背骨をなぞる汗が冷たくなる。

 ミレイユが一歩、老人と俺の間に入った。


「お父さん。この人はロウを助けてくれたの。疑うなら、あとにして」


「疑っちゃいねぇ。ただ確かめる。……名前は」


レインれいんです」


 オルドの目が細くなる。

 無闇に言葉を足すな。余計な来歴は墓穴だ。


「仕事はできるか」


「板を持つ腕はある」


「なら働け。口より手を動かせ」


 釘と槌が渡された。

 俺は深く息を吸い、槌を振る。板の目を読み、釘の角度を数度で合わせる。

 軍で覚えた癖が――いや、“以前”の癖が身体から漏れる。

 打ち込みは正確で、静かで、速い。

 しまった、と思ったときには、柵の半分が元の形を取り戻していた。


「……ふぅ。上出来だ」


 オルドがわずかに目を細める。褒めているのか、値踏みしているのか。

 ミレイユは安堵の息を吐き、小さく拍手した。


「助かったよ、レイン。今日の宿はうちでいい?」


「世話になる」


 案内された家は、藁葺きの屋根に煙抜きがある素朴な造りだった。

 ミレイユの母は三年前の病で亡くなり、父のオルドは村の仕事が多い。

 この家は兄妹の手で回っているらしい。

 温いスープと硬いパン。麦の甘みが染みる。こんな味を――俺はいつから忘れていたのだろう。


「レインは何者?」


 ロウが椀を抱えたまま首を傾げる。

 問いに、スプーンが一瞬止まる。

 俺は笑って、肩をすくめた。


「ただの流れ者さ。森で道に迷って、たまたまそこにいた」


「でもあの狼、ひとりで――」


「ロウ」

 ミレイユが制した。

 その声はやわらかく、しかし鋭い。

 俺を見る目は、先ほどよりもさらに澄んでいた。問い詰めはしない。だが、見逃しもしない目だ。


「明日、共同畑きょうどうばたけの手伝いをしてくれる? 皆、人手が欲しいって」


「分かった」


 夜、屋根裏の藁床に横たわる。

 天井の梁に手を伸ばすと、そこに指の粉が落ちた。

 久方ぶりの、屋根の下。

 目を閉じて、ステータスを呼ぶ。

 薄く光の板が視界の内側に浮かび、数字が静かに息をしている。


――――――――――

レインれいん/(本名)アレン・ストラウドあれん・すとらうど

種族:人族ひとぞく

レベル:10

筋力:85/魔力:72/敏捷:63/耐久:90

特殊:死者強化デスブースト(死亡時自動発動・蘇生・能力増幅)

注記:発動中は短時間の過負荷・記憶霧散メモリ・フォグ(軽)

――――――――――


 “死ねば強くなる”。

 それは甘い救いであり、もっとも危うい誘惑でもある。

 ここで使うわけにはいかない。失敗すれば村を巻き込む。何より――誰かが泣く顔を、これ以上増やしたくない。


 藁の香りに包まれながら、耳を澄ます。

 床下でミレイユとロウの小さな会話がさざめく。


「……本当に大丈夫だと思う?」


「今は、助かったことに感謝しよう。明日は私が見る」


 見られている。

 そう、見られている方がいい。俺が、ここで変な動きをしない証明になる。

 “元”の過去を、村の暮らしで上書きする。

 それができるなら――俺は“レイン”でいられる。


 夜更け、屋根を鳴らす風が止んだ。

 目を閉じる直前、遠くで犬が吠える声がした。

 森の向こう。徴税官ちょうぜいかんの隊列が街道を進んでいるという噂を、門番が夕方にこぼしていた。

 領都から来る者は、たいてい余計なものを持ち込む。

 たとえば、識別石アイデンティア

 真偽を照らす小さな石。軍籍や所属の魔素の癖を拾う、それだけの道具。

 もしそれが、ここに来るのだとしたら――。


 眠りは浅かった。

 それでも明日が来る。

 俺は“レイン”だ。そう自分に言い聞かせ、藁の香りの中で目を閉じた。


____________________

後書き


 小さな集落に足を踏み入れ、偽りの名で最初の夜を迎える回になりました。

 力を誇示しすぎれば疑われ、隠しすぎれば居場所を得られない。境界の上で、さじ加減を測る日々の始まりです。

 次回は、畑仕事と柵の補修を通じて周囲との距離が少しずつ縮まる一方、街道からの来訪が静かな波紋を広げます。

 “名乗り”と“証明”をどう切り抜けるのか、見届けてもらえれば。

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