第3話仮の名、仮の寝床
木柵の門をくぐると、
助けた子――
「遅いよ、ロウ。心配したんだから」
「ごめん。でもこの人が助けてくれた!」
少女の視線がこちらを射抜く。
まっすぐで、嘘を嫌う瞳だ。俺は無意識に左手首の布を引き上げ、
「助けてくれて……ありがとう。私は
「ア……」
危うく本名を口走りそうになり、喉の奥で言葉を噛み殺す。
ここで名を誤れば、どこかで辻褄の合わない綻びが出る。新しい名前を――。
「
少女――ミレイユは短く頷いた。
疑っているのか、救助者への礼を尽くしたいのか、読み取れない静けさが瞳に宿っている。
「まずは怪我の手当てを。ロウ、桶と布を」
「うん!」
案内されるまま、共同井戸のそばに腰かける。井戸枠に置かれた桶の水面が揺れ、俺の顔を細かく切り裂いて映す。
ここにいるのは“
そう思い込ませろ。そう演じ切れ。
傷は浅い。狼の牙も、今の耐久なら皮膚を裂くほどには届かない。
だが力を誇示すれば余計な注目を浴びる。俺はわざとゆっくりと、痛がる素振りを足しながら腕を見せた。
「これくらいなら平気だ。少し休めば――」
「消毒はするよ」
ミレイユの声は柔らかく、それでいて反論を許さない芯があった。布に薬草を絞り、手際よく傷口にあてる。
その指先は節だらけだ。畑か、紡ぎか、日々の手仕事でできあがった固さ。
「礼を言う」
「礼を言うのはこっち。森でロウを見つけるのは、いつも一苦労だから」
薄く笑って、彼女は視線を柵の外へ流した。
そこには、森がある。必要なものの多くを与え、そして奪う、村の相棒であり敵だ。
「今日、
言葉は独り言のようで、助けの提案を待っているようでもあった。
俺は立ち上がる。身体は思った以上に軽い。
――だが出しすぎるな。
「板運びくらいなら、手伝える」
「助かる。ロウ、釘箱を持ってきて」
村の端、破れた柵の前に立つ。
打ち付けるべき板は濡れて重い。以前の俺なら二人がかりでも上がらない重さだ。
わざと半歩遅い動きで肩に担ぎ、支柱に当てた瞬間――反対側から低い声がかかった。
「知らねぇ顔だな」
振り向くと、灰髭の老人が腕を組んでいた。背は曲がっているが、両の目は刃物のように鋭い。
「村の長、《オルド》だ。お前、どこから来た」
「北の街道沿いです。仕事を探していました」
「装備が街道の流れ者にしては整いすぎてる。手入れも軍隊式だ」
背骨をなぞる汗が冷たくなる。
ミレイユが一歩、老人と俺の間に入った。
「お父さん。この人はロウを助けてくれたの。疑うなら、あとにして」
「疑っちゃいねぇ。ただ確かめる。……名前は」
「
オルドの目が細くなる。
無闇に言葉を足すな。余計な来歴は墓穴だ。
「仕事はできるか」
「板を持つ腕はある」
「なら働け。口より手を動かせ」
釘と槌が渡された。
俺は深く息を吸い、槌を振る。板の目を読み、釘の角度を数度で合わせる。
軍で覚えた癖が――いや、“以前”の癖が身体から漏れる。
打ち込みは正確で、静かで、速い。
しまった、と思ったときには、柵の半分が元の形を取り戻していた。
「……ふぅ。上出来だ」
オルドがわずかに目を細める。褒めているのか、値踏みしているのか。
ミレイユは安堵の息を吐き、小さく拍手した。
「助かったよ、レイン。今日の宿はうちでいい?」
「世話になる」
案内された家は、藁葺きの屋根に煙抜きがある素朴な造りだった。
ミレイユの母は三年前の病で亡くなり、父のオルドは村の仕事が多い。
この家は兄妹の手で回っているらしい。
温いスープと硬いパン。麦の甘みが染みる。こんな味を――俺はいつから忘れていたのだろう。
「レインは何者?」
ロウが椀を抱えたまま首を傾げる。
問いに、スプーンが一瞬止まる。
俺は笑って、肩をすくめた。
「ただの流れ者さ。森で道に迷って、たまたまそこにいた」
「でもあの狼、ひとりで――」
「ロウ」
ミレイユが制した。
その声はやわらかく、しかし鋭い。
俺を見る目は、先ほどよりもさらに澄んでいた。問い詰めはしない。だが、見逃しもしない目だ。
「明日、
「分かった」
夜、屋根裏の藁床に横たわる。
天井の梁に手を伸ばすと、そこに指の粉が落ちた。
久方ぶりの、屋根の下。
目を閉じて、ステータスを呼ぶ。
薄く光の板が視界の内側に浮かび、数字が静かに息をしている。
――――――――――
【
種族:
レベル:10
筋力:85/魔力:72/敏捷:63/耐久:90
特殊:
注記:発動中は短時間の過負荷・
――――――――――
“死ねば強くなる”。
それは甘い救いであり、もっとも危うい誘惑でもある。
ここで使うわけにはいかない。失敗すれば村を巻き込む。何より――誰かが泣く顔を、これ以上増やしたくない。
藁の香りに包まれながら、耳を澄ます。
床下でミレイユとロウの小さな会話がさざめく。
「……本当に大丈夫だと思う?」
「今は、助かったことに感謝しよう。明日は私が見る」
見られている。
そう、見られている方がいい。俺が、ここで変な動きをしない証明になる。
“元”の過去を、村の暮らしで上書きする。
それができるなら――俺は“レイン”でいられる。
夜更け、屋根を鳴らす風が止んだ。
目を閉じる直前、遠くで犬が吠える声がした。
森の向こう。
領都から来る者は、たいてい余計なものを持ち込む。
たとえば、
真偽を照らす小さな石。軍籍や所属の魔素の癖を拾う、それだけの道具。
もしそれが、ここに来るのだとしたら――。
眠りは浅かった。
それでも明日が来る。
俺は“レイン”だ。そう自分に言い聞かせ、藁の香りの中で目を閉じた。
____________________
後書き
小さな集落に足を踏み入れ、偽りの名で最初の夜を迎える回になりました。
力を誇示しすぎれば疑われ、隠しすぎれば居場所を得られない。境界の上で、さじ加減を測る日々の始まりです。
次回は、畑仕事と柵の補修を通じて周囲との距離が少しずつ縮まる一方、街道からの来訪が静かな波紋を広げます。
“名乗り”と“証明”をどう切り抜けるのか、見届けてもらえれば。
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