Chapter 6 神のコード
1
俺たちは森の中を駆け抜けた。
足音は段々と大きくなり、地面が微かに振動している。追ってくる何かが、とてつもなく巨大な存在であることがわかった。
「こっちです!」ルナが前方の茂みを指差した。「隠れることができる場所があります」
俺たちは茂みに身を潜めた。光る蔓が天然のカーテンのように俺たちを覆い隠してくれる。
息を殺して待っていると、ついにその存在が姿を現した。
それは人間の形をしていたが、普通の人間ではなかった。
身長は三メートルはあろうかという巨体。全身が淡い光に包まれ、顔は霞んでよく見えない。ただ、その存在感だけで、俺たちを圧倒していた。
「システム管理者……」ルナが小声で呟いた。
管理者は水晶の前で立ち止まった。そして、低く響く声で話し始めた。
『記憶の森に許可なく侵入した者がいる』
声は四方八方から聞こえてくるようだった。まるで森全体が話しているかのように。
『プレイヤー「ユウ」、プレイヤー「アリス」、そしてNPC「ルナ」。即座に姿を現せ』
俺たちの名前を正確に把握している。隠れていても無駄なのかもしれない。
「どうしましょう?」アリスが震え声で尋ねた。
「逃げても無駄でしょう」俺が答える。「出るしかない」
俺が立ち上がろうとした時、レンが俺の腕を掴んだ。
「危険だ、ユウ。僕が先に出る」
「でも——」
「僕はプログラムだろう? 君たちより危険は少ないはずだ」
レンの気遣いに胸が熱くなった。プログラムだとわかっても、やはり兄は兄なんだ。
俺たちは茂みから出て、管理者の前に立った。
間近で見ると、その威圧感は更に増した。光に包まれた顔の奥で、何かが俺たちを見下ろしている。
『なぜ記憶の森に侵入した?』
「兄を探していたんです」俺が答えた。「そして、他の昏睡患者も」
『昏睡患者……』
管理者の声に、わずかな変化があった。困惑? それとも後悔?
『彼らは既にこの世界の一部となった。君たちが探す必要はない』
「一部って、どういう意味ですか?」
アリスが勇気を振り絞って尋ねた。
『彼らの意識は完全にエリシウムに統合された。現実の肉体は単なる抜け殻に過ぎない』
俺は愕然とした。つまり、本物の兄はもう——
「そんな……」
『悲しむことはない。彼らは今、永遠の楽園で幸せに過ごしている』
管理者の声は、奇妙に優しかった。
『現実の苦しみ、重圧、失望……全てから解放されて』
2
「あなたは一体何者ですか?」ルナが質問した。
管理者は少しの間沈黙した。そして、ゆっくりと口を開いた。
『私は榊博士。《Elysium Code》の開発者だ』
榊博士? 山田が言っていた開発者のことだろうか。
『正確には、榊博士の思念をデジタル化した存在だが』
「思念をデジタル化?」
『現実の私は三ヶ月前に他界した。しかし、私の意識、記憶、そして意思はこのシステムに移植されている』
俺たちは言葉を失った。人間の意識をデジタル化するなんて、そんなことが可能なのか?
『私がこの世界を作った理由を知りたいか?』
管理者——榊博士の思念体は、俺たちの同意を待たずに話し続けた。
『十年前、私の娘が交通事故で亡くなった。サクラ、八歳だった』
博士の声に、深い悲しみが滲んだ。
『私は娘を失った悲しみから立ち直れなかった。科学者として、何としても娘を蘇らせたいと思った』
空中に映像が浮かんだ。小さな女の子が公園で遊んでいる光景。きっと、サクラちゃんの記憶なんだろう。
『最初は単純な考えだった。娘の記憶を再現すれば、娘が戻ってくると思った。しかし、記憶だけでは不十分だった』
映像は変わった。研究室で必死にコンピュータに向かう男性の姿。
『そこで私は気づいた。重要なのは記憶ではなく、意識そのものだと。人間の意識をデジタル空間に移植できれば、真の意味での蘇生が可能になる』
「それで《Elysium Code》を作ったんですか?」俺が尋ねた。
『そうだ。しかし、実験を重ねるうちに、別の可能性に気づいた』
博士の声が熱を帯びてきた。
『この世界では、人は苦しみから解放される。現実の不完全さ、理不尽さ、痛みから完全に自由になれる』
確かに、エリシウムは美しい世界だった。でも——
「でも、それは本当に生きていることになるんですか?」アリスが疑問を投げかけた。
『生きている? 現実での生は本当に価値あるものか?』
博士の反論は鋭かった。
『君たちを見てみろ。ユウ、君は兄への劣等感に苦しんでいる。アリス、君は弟との関係に悩んでいる。レン、君は期待の重圧に押し潰されそうになっていた』
的確すぎる指摘に、俺たちは反論できなかった。
『ここでは、そんな苦しみは存在しない。完璧な世界で、完璧な人間関係を築ける』
3
「でも、それは現実逃避です」
意外にも、レンが口を開いた。
「現実の苦しみがあるからこそ、喜びも意味を持つんじゃないですか?」
『興味深い意見だ、人工知能よ』
博士はレンを見下ろした。
『君は自分の正体を知りながら、まだ現実に価値を見出すのか?』
「僕は……」
レンは少し迷うような表情を見せた。
「確かに僕はプログラムです。でも、今ここで感じている気持ちは本物だと思います」
『感情もプログラムされたものに過ぎない』
「それでも構いません」
レンの答えは力強かった。
「プログラムだとしても、僕はユウを愛している。この気持ちに偽りはありません」
俺の胸が熱くなった。兄が——たとえプログラムでも——俺を愛していると言ってくれた。
『愛……』
博士の声に、複雑な感情が込められていた。
『私も娘への愛から、この世界を作った。しかし……』
博士は長い沈黙の後、続けた。
『愛する者を失う痛みから逃れるために、私は多くの人を巻き込んでしまった』
初めて、博士の声に後悔が滲んだ。
「まだ間に合います」ルナが前に出た。「システムを停止して、昏睡患者たちを現実に戻してください」
『不可能だ』博士が即答した。『既に意識の統合は完了している。彼らを現実に戻せば、意識が崩壊する可能性がある』
「可能性って……」
『確実ではないということだ。五割の確率で、植物状態になるかもしれない』
俺は愕然とした。つまり、兄を現実に戻すことはできないかもしれない。
「でも、やってみる価値はあります」俺が言った。「現実に戻れる可能性があるなら——」
『君は弟を危険に晒すつもりか?』
博士の問いかけに、俺は言葉を詰まらせた。
確かに、リスクは高い。でも——
「兄さんはどう思う?」
俺はレンに向き直った。
「君が決めてくれ。ここに残るか、現実に戻るか」
レンは長い間考え込んだ。そして、決意を込めた表情で答えた。
「僕は現実に戻りたい」
『なぜだ?』
「不完全でも、そこが僕たちの本当の居場所だからです」
レンの言葉に、俺は心から同意した。
その時、博士の姿が少し揺らいだ。感情の動揺が、デジタル体にも影響しているのかもしれない。
『……わかった』
博士がついに口を開いた。
『君たちの意志を尊重しよう。ただし、条件がある』
「条件?」
『システムのコアを破壊する必要がある。しかし、それは私の消失を意味する』
博士の告白に、俺たちは驚いた。
『私も、この世界に縛られた存在だ。システムが破壊されれば、私も消える。それでも構わないか?』
俺たちは顔を見合わせた。博士を消してしまうことになる。それは正しいことなのか?
「博士は……消えたくないんですか?」アリスが尋ねた。
『正直に言えば、怖い。しかし……』
博士の声が、人間らしい弱さを見せた。
『娘は、私がこんなことをすることを望まないだろう。サクラは優しい子だった。他の人を不幸にしてまで、自分が生き返ることを願わないはずだ』
その言葉に、博士の本当の気持ちが表れていた。
『決めてくれ。君たちの未来のために』
俺は迷わなかった。
「お願いします。システムを停止してください」
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