Chapter 5 記憶の真実
1
記憶の森の奥へ進むにつれて、周囲の景色は更に幻想的になっていった。
光る木々はより高く、より太く、まるで古代から存在し続けているかのような威厳を放っている。そして空中に浮かぶ記憶の断片も、より鮮明に、より多く現れるようになった。
不思議なことに、現れる記憶は俺だけのものではなかった。アリスの記憶、そして恐らくレンの記憶も混じっているようだった。
「あ……」
アリスが突然立ち止まった。彼女の目の前に、小学生くらいの男の子が投影されている。人懐っこい笑顔で、アリスによく似た顔立ちだった。
「タクヤ……」
アリスが震え声で呟く。それは間違いなく、彼女の弟の記憶だった。
「かくれんぼしようよ、お姉ちゃん!」
記憶の中のタクヤが無邪気に呼びかける。アリスは思わず手を伸ばしかけたが、その瞬間、映像は消えてしまった。
「大丈夫ですか?」ルナが心配そうに声をかけた。
「ええ……でも、タクヤがこんなに小さかったのは、もう五年も前のこと」
アリスの表情に影が差した。
「彼は今、十二歳です。もうあんなに無邪気じゃない。最近は私に反発することも多くて……」
家族の複雑な関係。それは俺にも身に覚えのあることだった。
「兄弟って、難しいよね」俺が共感を込めて言った。
「ユウ君も?」
「ああ。僕の場合は……」
そこまで言いかけて、俺はレンの方を見た。彼は相変わらずぼんやりとした表情で、俺たちの会話を聞いているようないないような状態だった。
「僕も弟のことで悩んでいたんです」アリスが小声で続けた。「優等生の私に対して、タクヤはゲームばかり。両親も私ばかりを褒めて、タクヤには厳しくて……」
「それで?」
「ある日、大喧嘩したんです。『お姉ちゃんなんか大嫌いだ!』って言われて。その直後に、タクヤが《Elysium Code》を始めて……」
アリスの声が詰まった。
「もしかしたら、私から逃げるためにゲームの世界に来たのかもしれません」
2
俺たちは森を更に奥へ進んだ。道は段々と険しくなり、光る蔓が絡まって歩きにくくなってきた。
その時、前方に奇妙な構造物が見えてきた。
巨大な水晶のような透明な柱が、地面から天高くそびえ立っている。その周囲には、光る文字や記号が浮遊していた。
「あれが管理システムでしょうか?」俺がルナに尋ねた。
「おそらく。でも、近づく前に気をつけてください」
ルナの忠告通り、水晶に近づくにつれて異変が起こった。
俺の頭の中に、大量の映像が流れ込んできたのだ。しかも、それは明らかに俺の記憶ではない。
『お兄ちゃん、すごい! また百点だね!』
『レン君は本当に優秀ね。将来が楽しみだわ』
『君のような天才が羨ましいよ』
それは全て、レンが受けてきた賞賛の記憶だった。でも、そこに映るレンの表情は決して嬉しそうではない。むしろ、重圧に押し潰されそうな顔をしていた。
『また期待されてる……僕は期待に応えなければならない』
『完璧でいなければならない』
『みんなががっかりする顔を見たくない』
レンの内心の声が聞こえてくる。俺は衝撃を受けた。
兄は、ずっと苦しんでいたのか。天才という重圧に。
「これは……レンさんの記憶?」アリスが驚いた声を上げた。
「ええ」ルナが答える。「水晶は、記憶の森に蓄積された全ての記憶を管理しています」
更に映像は続いた。そして、俺自身の記憶も現れた。
『なんで僕は兄さんみたいになれないんだろう』
『またレンの弟って呼ばれた……』
『兄さんがいなければ、僕はもっと楽に生きられるのに』
俺の心の中の暗い部分が、赤裸々に映し出される。アリスやルナに見られて、俺は恥ずかしくなった。
「ユウ君……」アリスが同情的な目で俺を見る。
「みんな、いろいろな思いを抱えて生きてるのね」ルナが優しく言った。
そして、最も衝撃的な映像が現れた。
昏睡状態になる直前のレンの記憶だった。
3
『もう疲れた……』
画面の中のレンは、アパートの部屋でVR機器を装着しながら呟いていた。
『みんなの期待、プレッシャー、完璧でいることの重圧……全てから解放されたい』
レンの表情は、俺が今まで見たことのないほど疲れ切っていた。
『《Elysium Code》の世界なら、僕は僕でいられるかもしれない』
そしてレンはゲームにログインした。最初は楽しそうにプレイしていたが、段々と表情が変わっていく。
『なんて美しい世界だ……ここになら、ずっといたい』
記憶の森に辿り着いたレンは、そこで自分の美しい記憶だけを見続けた。辛い記憶、プレッシャーのある記憶は全て消えて、幸せだった頃の記憶だけが残った。
『ここが僕の居場所だ……』
そして、レンは現実に戻ることを拒否した。その瞬間、彼の意識は完全にゲームの世界に閉じ込められた。
映像が終わった時、俺は言葉を失っていた。
兄は逃げたんだ。現実の重圧から、みんなの期待から。
「兄さん……」
俺は振り返ってレンを見た。彼は相変わらずぼんやりとした表情で、まるで今の映像を見ていなかったかのようだった。
「レンさん」ルナが声をかけた。「今の映像、覚えていますか?」
「映像?」レンが首をかしげる。「何のことだい?」
やはり、記憶が混乱しているのか。
「あなたは現実の重圧から逃れるために、この世界に来たんです」
「重圧? 僕に重圧なんてあったかな?」
レンの反応に、俺は更なる違和感を覚えた。
さっきの映像は確かにレンの記憶だった。でも、目の前のレンはそれを覚えていない。まるで、都合の悪い記憶だけが消されているような——
「おかしいですね」ルナが首をかしげた。「通常なら、自分の記憶は認識できるはずなのに……」
その時、水晶の中で新しい文字が浮かび上がった。
『記憶再構成プログラム作動中』
『対象:レン・桐島』
『進行状況:87%完了』
「記憶再構成プログラム?」俺が声に出した。
「何ですか、それ?」アリスも困惑している。
ルナだけが、何かを理解したような表情を見せた。
「まさか……」
「何かわかるんですか?」
「これは……人工知能の記憶学習システムです」
ルナの言葉に、俺の背筋が凍った。
「人工知能?」
「レンさんの記憶を学習して、レンさんそっくりに振る舞うAIプログラムです。つまり……」
ルナは俺の方を見て、申し訳なさそうに続けた。
「目の前にいるのは、本物のレンさんではありません」
4
世界が崩れ落ちる音がした。
少なくとも、俺にはそう聞こえた。
「本物じゃない……?」
「はい。おそらく、本物のレンさんの意識は既にこの世界から消失しています。残っているのは、彼の記憶を元に作られた人工知能だけです」
俺は混乱した。じゃあ、俺は一体何のためにここに来たんだ?
「でも、外見も声も、性格だって兄さんそのものです」
「記憶を完全にコピーできれば、本人と区別のつかないAIを作ることは可能です。《Elysium Code》の技術なら……」
ルナの説明を聞きながら、俺は偽物のレンを見つめた。彼は俺たちの会話を理解していないような顔をしている。
「僕は……偽物なのか?」
突然、レンが口を開いた。その声には、困惑と恐怖が混じっていた。
「偽物って何だい? 僕は僕だろう?」
「あなたの記憶は本物です」ルナが優しく説明した。「でも、あなた自身は人工知能として作られた存在です」
レンの顔が青ざめた。
「人工知能……僕は……僕は機械なのか?」
「そんなことありません」俺が慌てて言った。「兄さんは兄さんです。偽物だなんて——」
でも、俺の言葉も途中で止まった。
本当にそうだろうか。記憶だけをコピーしたAIは、本人と同じと言えるのだろうか。
「ユウ」レンが俺を見つめた。その目に、深い悲しみが宿っていた。「君は僕を、本物の兄だと思うか?」
俺は答えられなかった。
確かに、目の前にいるのは兄そのものだ。でも、それがプログラムだと知ってしまった今、同じように接することができるだろうか。
「答えられないのか……」
レンは小さく笑った。それは、俺が今まで見たことのない、とても寂しい笑顔だった。
「そうだよな。偽物の兄なんて、必要ないよな」
その時、アリスが前に出た。
「偽物だなんて言わないで」
「え?」
「あなたがプログラムだとしても、今ここにいるのは事実でしょう? ユウ君を心配し、私たちと一緒に歩いている。それは偽物の行動かしら?」
アリスの言葉に、レンは驚いた表情を見せた。
「でも、僕は人工的に作られた——」
「それがどうしたの? 大切なのは、あなたがどう思い、どう行動するかよ」
アリスの言葉は力強く、確信に満ちていた。
「私も偽物かもしれない弟を探しているの。でも、たとえプログラムでも、タクヤはタクヤ。私の大切な弟には変わりない」
俺はアリスの言葉に心を動かされた。
そうだ。本物も偽物も、そんなことに意味があるのだろうか。目の前にいるのは、兄の記憶を持ち、兄のように考え、兄のように俺を心配してくれる存在だ。
「兄さん」
俺はレンに向き直った。
「確かに君はプログラムかもしれない。でも、僕にとっては兄さんだ」
「ユウ……」
「本物の兄さんがどこにいるのかわからない。でも、今ここにいる君が、僕を心配してくれているのは本当だろう?」
レンの目に、涙が浮かんだ。プログラムにも涙を流すことができるんだろうか。
「ありがとう、ユウ」
レンが俺の肩に手を置く。その温かさは、確かに本物だった。
その時、水晶から新しいメッセージが現れた。
『警告:システム管理者が接近中』
『全プレイヤーは直ちに退避してください』
「システム管理者?」俺が尋ねた。
「この世界を管理している存在です」ルナが緊張した表情で答えた。「とても強力で、我々では対抗できません」
森の向こうから、重い足音が聞こえてくる。何か巨大な存在が、こちらに向かってくるようだった。
「逃げましょう」ルナが促した。
俺たちは慌てて水晶から離れた。しかし、足音は段々と近づいてくる。
このまま逃げ続けるしかないのか。
それとも、システム管理者と対峙して、この世界の真実を知るのか。
俺は走りながら決意を固めた。
兄を——たとえプログラムでも——守るために、俺は戦う。
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