Chapter 4 偽りの兄
1
記憶の森は、想像以上に奇妙な場所だった。
光る木々の間を歩いていると、突然目の前に映像が浮かび上がる。まるでホログラムのように空中に投影される記憶の断片。幼い頃の誕生日パーティー、初めて自転車に乗った日、母に怒られて泣いた夜——全て俺の記憶だった。
「これは……僕の記憶ですね」
「はい」ルナが振り返る。「記憶の森では、その人の心に深く刻まれた記憶が現れます。特に感情の強い記憶ほど鮮明に」
俺の横を、八歳くらいの自分が駆け抜けていく。後ろから兄が追いかけてくる。二人とも笑っている。
それは確かに俺の記憶だった。でも、こうして外から眺めると、まるで別人の人生を見ているような不思議な感覚になる。
「懐かしい光景ですね」ルナが優しい声で言った。
「ええ。兄と一緒だった頃の……」
そう言いかけて、俺は言葉を詰まらせた。
記憶の中の兄は、いつも優しく微笑んでいる。俺を大切にしてくれている。でも現実は違う。少なくとも、俺にはそう感じられなかった。
いつから変わったんだろう。兄と俺の間の距離は、いつから生まれたんだろう。
「あ、あそこ!」
ルナの声で我に返る。彼女が指差す方向を見ると、森の奥に人影が見えた。
木陰に座り込んでいる人物。距離があって顔はよく見えないが、体格や雰囲気から男性だということはわかる。
「あの人が……?」
「おそらく」ルナが小声で答える。「でも、気をつけてください。記憶の森にいる人は、時として現実とゲームの区別がつかなくなっています」
俺たちは慎重に近づいた。
そして、その人物の顔が見えた瞬間、俺の心臓が止まりそうになった。
間違いない。それは兄のレンだった。
2
「兄さん!」
俺は駆け寄った。しかし、三メートルほど手前でルナに腕を掴まれて止められた。
「待って。様子がおかしいです」
ルナの言う通りだった。レンは俺たちの存在に気づいているはずなのに、反応がない。ただぼんやりと宙を見つめている。
「兄さん?」
もう一度呼びかけてみた。今度はレンがゆっくりと振り返った。
顔は確かに兄そのものだった。でも、何かが違う。表情が妙にぼんやりしているし、目に焦点が合っていない。
「君は……?」
レンが口を開いた。声も兄と同じだ。でも、俺を見る目に全く親しみが感じられない。
「僕だよ。ユウ。君の弟の」
「ユウ……」
レンは俺の名前を反芻するように呟いた。そして、急に表情が明るくなった。
「ああ、ユウ! 来てくれたんだね」
今度は間違いなく兄だった。いつもの優しい笑顔で俺を見ている。
「兄さん、大丈夫? みんな心配してるんだ。お母さんも——」
「心配? 何を心配することがあるんだい?」
レンは不思議そうに首をかしげた。
「僕はここにいる。とても美しい場所だ。時間を忘れてしまうくらいに」
「でも、現実では兄さんは昏睡状態で——」
「現実?」
レンの表情が困惑したものに変わった。
「現実って何だい? ここが現実じゃないのか?」
俺は言葉を失った。兄は本当に現実とゲームの区別がつかなくなっているのか。
「ここはゲームの世界なんだ。VRの」
「ゲーム……VR……」
レンは呟きながら頭を抱えた。
「そうだった。僕は確か、《Elysium Code》をテストしていて……でも、なぜ思い出せないんだろう」
苦しそうな兄の様子を見て、俺は慌てた。
「無理に思い出さなくてもいい。とにかく、一緒に帰ろう」
「帰る? どこに?」
「現実に。家に。お母さんが待ってるんだ」
俺の言葉に、レンは長い間黙っていた。そして、ゆっくりと首を振った。
「僕には帰る場所なんてない」
「何を言ってるんだ? 家族がいるじゃないか」
「家族……」
レンの目に、一瞬悲しみが浮かんだ。
「僕は家族に迷惑をかけてばかりだった。みんなの期待に応えなきゃいけない。完璧でいなきゃいけない。でも、僕は疲れたんだ」
3
兄の言葉に、俺は衝撃を受けた。
迷惑? 疲れた? 何を言ってるんだ。兄は天才だ。みんなから羨まれる存在だ。
「兄さんは天才だろう。みんなから尊敬されてる」
「天才……」
レンは苦笑いを浮かべた。
「天才なんて、ただのレッテルだ。みんなが勝手に貼ったレッテル。僕はただの人間なのに、みんな完璧を求めてくる」
「でも——」
「君もそうだろう? 僕に対して、何かを期待してるんじゃないか?」
レンの問いに、俺は返事ができなかった。
確かに俺は兄に対して複雑な感情を抱いていた。尊敬と同時に劣等感。愛情と同時に嫉妬。
「僕はここでやっと自由になれた。誰からも期待されない。完璧である必要もない」
レンは立ち上がって森の奥を見つめた。
「ここには僕だけの世界がある。美しい記憶だけの世界が」
その時、森の木々がさらに強く光った。そして俺たちの周りに、新しい記憶の映像が現れた。
兄と俺が一緒に過ごした幸せな日々。お互いを思いやっていた頃の記憶。でも、それらは全て美化されて、現実以上に美しく描かれていた。
「これは……」
「美しいだろう?」レンが振り返る。「ここでは、辛い記憶は消えて、美しい記憶だけが残るんだ」
俺は違和感を覚えた。確かに美しい記憶だが、どこか現実味がない。本当の記憶には、もっと複雑な感情があったはずだ。
「でも、それは本当の記憶じゃない」
「本当? 偽物? そんなことに意味があるのか?」
レンの表情が少し険しくなった。
「重要なのは、僕がここで幸せだということだ。現実に戻る理由なんてない」
俺は焦った。このままでは兄を連れて帰ることができない。
「お母さんが泣いてるんだ。毎日病院に通って——」
「それは偽物のお母さんの話だろう?」
レンの言葉に、俺は愕然とした。
「偽物って……現実のお母さんだよ」
「現実なんてものは存在しない。あるのは意識だけだ。そして僕の意識は、ここにある」
レンの思考は完全に混乱していた。現実とゲームの区別がつかないだけでなく、現実の存在そのものを否定している。
「兄さん……」
俺が何かを言おうとした時、ルナが前に出た。
「すみません、レンさん」
「君は?」
「ルナです。エリシウムの案内役をしています」
ルナの声は、いつもより真剣だった。
「あなたは今、とても危険な状態にあります。このまま記憶の森にいると、意識が現実に戻れなくなってしまいます」
「戻る必要があるのか?」
「あります」
ルナの断言に、レンは眉をひそめた。
「なぜ?」
「あなたを愛している人たちがいるからです。現実で、あなたの帰りを待っている人たちが」
ルナの言葉は温かく、しかし毅然としていた。
「愛……」
レンは呟いた。そして、俺の方を見た。
「ユウ。君は僕を愛しているのか?」
突然の問いかけに、俺は戸惑った。愛している? 兄を?
「それは……」
「答えられないのか」
レンの声に、わずかに失望が混じった。
「僕を愛しているなら、僕の幸せを願うはずだ。僕はここで幸せなんだ」
4
俺は混乱していた。
兄の論理は一見正しく聞こえる。でも、何かが決定的に間違っている。
「兄さんの幸せを願ってる。でも——」
「でも?」
「それが本当の幸せじゃないと思うんだ」
俺の言葉に、レンの表情が変わった。
「本当の幸せ? 君に何がわかる?」
「わからない」俺は素直に答えた。「でも、家族と一緒にいることが幸せじゃないのか?」
「家族……」
レンは再び頭を抱えた。記憶と現実の間で揺れ動いているのがわかる。
「僕は……僕は何をしていたんだ? なぜここにいるんだ?」
その時、森の奥からざわめきが聞こえてきた。誰かがこちらに向かってくる足音だ。
「誰かいるんですか?」俺がルナに尋ねた。
「わかりません。でも……」
ルナの表情が緊張したものになった。
「この森には、他にも迷い込んだ人がいるかもしれません」
足音が近づいてくる。そして、木陰から現れたのは——
俺と同じくらいの年齢の少女だった。肩まである茶髪に、少し大きめの制服を着ている。顔は疲れ切っていて、目に深い悲しみが宿っていた。
「すみません」少女が声をかけてきた。「この辺りで、タクヤという男の子を見ませんでしたか?」
「タクヤ?」
「私の弟です。十二歳で……こんなに危険な場所に一人でいるなんて」
少女の声は震えていた。俺と同じように、家族を探しているのか。
「私はアリスです。アリス・白川」
「僕はユウ。桐島ユウ」
俺が自己紹介すると、アリスは少し驚いた表情を見せた。
「桐島……もしかして、レンさんの?」
「知ってるんですか?」
「ええ。ゲーム内で何度かお話ししました。とても優しい方でした」
アリスの言葉を聞いて、レンが顔を上げた。
「アリス……君は確か、弟を探していると言っていたね」
「レンさん! 無事だったんですね」
アリスは安堵の表情を見せたが、すぐに心配そうになった。
「でも、様子がおかしくありませんか?」
「彼は記憶の森の影響を受けています」ルナが説明した。「現実とゲームの区別がつかなくなっているんです」
アリスの顔が青ざめた。
「それって……私も同じになる可能性があるんですか?」
「可能性はあります」
ルナの答えに、俺も不安になった。兄を助けに来たのに、俺たちも同じ目に遭うかもしれない。
「でも、みんなで協力すれば、きっと解決策が見つかります」ルナが励ますように言った。
「解決策?」
「この森の奥に、管理システムがあるはずです。そこに到達できれば、記憶の森から抜け出せるかもしれません」
希望の光が見えた気がした。
「行きましょう」俺が提案した。
「でも、危険すぎます」アリスが心配そうに言う。
「一人で行くより、みんなの方が安全です」
俺たちは森の奥へ向かうことにした。レンも、最初は渋っていたが、最終的に同行することになった。
四人と一緒に、記憶の迷宮の奥深くへ。
そこで俺たちは、この世界の真実と向き合うことになる。
歩きながら、俺は改めてレンの横顔を見た。
本当に兄なんだろうか。表情や仕草は確かに兄そのものだが、何か根本的に違うような気がする。
まるで、兄の記憶だけを移植された、別の存在のような——
そんな馬鹿なことがあるはずはない。でも、この違和感は一体何なんだろう。
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