Chapter 7 別れの時

1


『ついて来い』


 榊博士の思念体は、森の更に奥へと歩き始めた。俺たちはその後を追った。

 歩きながら、博士は《Elysium Code》のシステムについて説明してくれた。


『システムのコアは、この森の最深部にある。そこで全ての意識が管理されている』

「昏睡患者の意識も、そこに?」俺が尋ねた。

『そうだ。彼らの意識は、既にシステムと融合している。分離するには、相当な危険を伴う』


 博士の言葉に不安が募った。本当に兄を助けることができるのか?


『しかし、可能性はある』博士が続けた。『君たちがここにいることが、その証拠だ』

「どういう意味ですか?」

『外部からのアクセスがあることで、システムに「現実への帰路」が開かれている。その通路を利用すれば……』


 希望の光が見えた気がした。


 やがて、森の最深部に到達した。そこには巨大な球体が浮遊していた。

 球体は虹色に輝き、その表面には無数の光点が明滅している。まるで星空を閉じ込めたような美しさだった。


『これがシステムコアだ』博士が説明した。『この中に、全ての意識データが保存されている』


 球体に近づくと、俺の頭の中に様々な声が聞こえてきた。


『助けて……』

『現実に戻りたい……』

『でも、怖い……』


 昏睡患者たちの声だった。彼らは確かに、この中に囚われている。


「兄さんの声も聞こえます」俺が呟いた。

『レンの意識は、まだ完全には統合されていない。君が来てくれたおかげで、彼の自我が保たれているのだろう』


 その時、球体の表面に人影が浮かび上がった。

 本物のレンだった。現実で見る兄そのもので、NPCレンとは明らかに雰囲気が違う。より生々しく、より人間らしい表情をしている。


『ユウ……?』


 球体の中のレンが、こちらを見つめていた。


『本当にユウなのか? 僕の弟の?』

「ああ、兄さん。迎えに来たんだ」


 涙がこぼれそうになった。ようやく、本物の兄に会えた。


『ありがとう……でも、危険だ。早く逃げろ』

「兄さんも一緒に帰ろう」

『僕は……僕はもうここの一部になってしまった。戻れるかわからない』


 本物のレンの声には、深い諦めが込められていた。


2


「システムの分離を開始する」


 博士が球体に向かって手をかざした。すると、球体の周囲に光る文字が現れた。


『意識分離プログラム起動中』

『対象者:レン・桐島』

『危険度:高』

『成功率:47%』


 成功率は五割を下回っていた。


「博士、本当に大丈夫なんですか?」アリスが心配そうに尋ねた。

『絶対に安全とは言えない。しかし、これが唯一の方法だ』


 その時、NPCレンが前に出た。


「僕にも何かできることはありませんか?」

『君は……』博士がNPCレンを見つめた。『君は興味深い存在だな』

「どういう意味ですか?」

『君は本物のレンの記憶を元に作られた。つまり、彼の思考パターンを完璧に再現している』


 博士は何かを思いついたような表情になった。


『もしかすると……君が橋渡しの役割を果たせるかもしれない』

「橋渡し?」

『本物の意識とNPCの思考パターンを同期させれば、分離の成功率が上がる可能性がある』


 NPCレンの表情が明るくなった。


「それなら、喜んでやります」

「でも、危険じゃないのか?」俺が心配した。

「大丈夫だよ、ユウ」NPCレンが微笑んだ。「これが僕の役目だ。本物の僕を助けるために」


 その言葉に、俺は胸を打たれた。NPCレンは、自分が消える可能性があることを理解していた。それでも、本物の兄のために犠牲になろうとしている。


「ありがとう……」俺が呟くと、NPCレンは優しく頷いた。


『では、開始する』


 博士が球体に触れた瞬間、システム全体が激しく振動した。


3


 分離プログラムが始まると、球体の中で激しい光のうねりが起こった。

 本物のレンの意識が、システムから引き離されようとしている。しかし、それは想像以上に困難な作業のようだった。


『抵抗が強い……』博士が苦しそうに呟いた。『意識の統合が予想以上に進んでいる』


 球体の中のレンが苦痛に顔を歪めている。


『痛い……引き離されるのが……』

「兄さん!」


 俺が駆け寄ろうとした時、NPCレンが俺の前に立ちはだかった。


「僕に任せて」


 NPCレンが球体に手を置いた瞬間、彼の体が光り始めた。


『同期開始……』


 システムの声が響く。NPCレンの記憶と、本物のレンの意識が重なり合っていく。


「これは……」NPCレンが驚いた表情を見せた。「僕たちは……同じなんだ」

『そうだ』球体の中のレンが答えた。『君は僕で、僕は君だ』


 二人のレンが、互いを理解し合っている。その光景は、とても神秘的だった。


「でも」NPCレンが続けた。「僕たちには違いもある」

『違い?』

「君は現実を生きてきた。僕は記憶の中だけを生きてきた」


 NPCレンの声に、深い感慨が込められていた。


「君の方が本物だ。君こそが、ユウの本当の兄なんだ」


『いや』本物のレンが否定した。『君も僕の一部だ。僕の中の、ユウを愛する気持ちの結晶だ』


 二人の会話を聞いていて、俺は涙が止まらなくなった。


『成功率上昇中……68%……75%……』


 分離の成功率が上がっていく。NPCレンの協力が効果を上げているようだった。


「ユウ」NPCレンが振り返った。「君に伝えたいことがある」

「何だ?」

「僕は君の兄として生まれた。それがたとえプログラムだとしても、君への愛は本物だった」


 NPCレンの体が、段々と透明になっていく。


「君が成長していく姿を見ることができて、僕は幸せだった」

「兄さん……」

「現実の僕を、よろしく頼む」


 NPCレンが最後の微笑みを浮かべた瞬間、彼の姿は光の粒子となって消えていった。


『分離成功率:89%』

『実行しますか?』


4


「実行してください」俺が答えた。


 球体が激しく光り、システム全体が大きく揺れた。そして——


 球体の表面に亀裂が入り、中から本物のレンが現れた。

 彼はゆっくりと地面に降り立ち、俺を見つめた。


「ユウ……本当にユウなんだな」


 レンの声は、NPCレンとは微妙に違っていた。より深く、より温かい。


「兄さん!」


 俺は兄に駆け寄り、抱きしめた。その体温は確かに現実のものだった。


「心配をかけて、すまなかった」レンが俺の頭を撫でた。「でも、なぜここに?」

「山田さんって人に頼まれて。兄さんを助けるために」


 俺は簡潔に事情を説明した。レンは時々頷きながら、真剣に聞いてくれた。


「そうか……僕は逃げていたんだな」

「逃げてた?」

「現実の重圧から。みんなの期待から」


 レンの表情に、複雑な感情が浮かんだ。


「でも、あのNPCの僕に教えられたよ。逃げていても、何も解決しないって」


『感動的な再会だが』


 博士の声が割って入った。


『時間がない。システムが不安定になっている』


 確かに、周囲の風景が歪み始めていた。森の木々が半透明になり、地面に亀裂が走っている。


『他の昏睡患者も分離しなければ』

「他の患者って……」

『アリス、君の弟もその中にいる』


 アリスの顔が青ざめた。


「タクヤが……どこに?」

『球体の中だ。しかし、彼の意識の統合はレンよりも進んでいる。分離は更に困難になる』


 アリスは迷わず球体に向かった。


「やってください。どんなに危険でも」


 俺はアリスの決意を見て、改めて家族の絆の強さを感じた。

 兄を助けることができた。今度は、アリスの弟を助ける番だ。


「僕たちも手伝います」レンが申し出た。

「でも、危険だろう?」

「だからこそ、一緒にいるべきなんだ」


 レンの言葉に、俺は力づけられた。

 そうだ。困難な時こそ、一緒にいることが大切なんだ。


『では、次の分離を開始する』


 博士が再び球体に手をかざした。今度は、アリスの弟を救うために——


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