Chapter 3 楽園への扉

1


 エデン・テクノロジーの開発室は、想像していたよりもずっと小さかった。

 雑居ビルの三階、窓もない薄暗い部屋に、コンピュータとモニターがぎっしりと詰め込まれている。コードの山、空のコーヒーカップ、徹夜作業の痕跡が生々しく残っていた。


「お疲れさまです」


 山田が迎えてくれたが、昨日よりもさらに疲れた顔をしていた。目の下のクマが濃くなっている。


「他の患者さんの容態はどうですか?」


 俺の質問に、山田は重い表情で首を振った。


「変わりません。四名とも昏睡状態が続いています。ご家族から問い合わせの電話も増えて……」

「責任を感じてるんですね」

「当然です。僕たちが作ったゲームで、こんなことになるなんて……」


 山田は自分を責めるような口調だった。でも、それは今考えても仕方のないことだ。


「兄を助けるために、何でも協力します」


 俺の言葉に、山田は少し救われたような表情を見せた。


「ありがとうございます。では、準備を始めましょう」


 部屋の奥に、見慣れない装置が設置されていた。兄の部屋で見たものより、はるかに大型で複雑だった。ヘッドセットの他に、腕や足に取り付けるセンサー、そして胸部に装着する心拍モニターまで用意されている。


「これは開発用の特別仕様です」山田が説明する。「プレイヤーの生体反応をリアルタイムで監視できます。異常があれば、即座に強制ログアウトします」


 装置の隣には、別の技術者が控えていた。三十代くらいの女性で、鋭い目つきをしている。


「システムエンジニアの佐藤です」彼女が簡潔に挨拶した。「あなたの安全は私が保証します。何かあれば遠慮なく声をかけてください」


 プロフェッショナルな雰囲気に、少し緊張がほぐれた。


2


 装置を装着しながら、山田が《Elysium Code》の世界について説明してくれた。


「ゲームの舞台は『エリシウム』と呼ばれる仮想大陸です。美しい自然と古代文明の遺跡が共存する、まさに楽園のような世界」

「プレイヤーの目的は?」

「基本的には自由行動です。冒険、探索、他のプレイヤーとの交流……従来のMMORPGと同じですが、NPCとの関わり方が全く違います」


 山田の表情が興奮したものに変わった。開発者として、このゲームに誇りを持っているのが伝わってくる。


「NPCは単なるプログラムではありません。プレイヤーとの会話を学習し、感情を持ったかのように反応します。時には理不尽な行動を取ることもある。まるで本当の人間のように」

「本当の人間のように……」


 その言葉に、何となく不安を感じた。


「お兄さんのアバターは『レン』という名前で登録されています。外見もお兄さんそのものです」

「どこにいるかわかりますか?」

「最後に確認された場所は『記憶の森』というエリアです。ただ、そこは通常プレイヤーがアクセスできない特殊な場所なんです」


 記憶の森。なぜレンはそんな場所にいるんだろう。


「あなたのアバターも準備してあります。お名前は?」

「ユウでいいです」

「外見はどうしますか?現実と同じにしますか?それとも——」

「同じで」


 即答した。この世界では、俺は俺のままでいたい。


 佐藤が最終チェックを終えた。


「生体モニターは正常です。通信システムも問題なし。いつでも開始できます」

「最大でも一時間」山田が念を押す。「何があっても一時間で強制ログアウトします」

「わかりました」


 俺はヘッドセットを被った。

 視界が暗くなり、わずかにハムという電子音が聞こえる。


「では、開始します。《Elysium Code》へようこそ」


 山田の声を最後に、世界が変わった。


3


 光。

 目を開けた瞬間、俺は光に包まれていた。

 暖かく、優しい光。それは太陽光のようでもあり、月光のようでもあり、この世のものとは思えないほど美しかった。


 光が薄れていくと、俺は草原の中に立っていることに気づいた。

 見渡す限りの緑の草原。遠くには青い山脈が連なり、頭上には雲一つない青空が広がっている。風が頬を撫でていく。本当に風だ。匂いも感じる。草の匂い、土の匂い、そして何か甘い花の匂い。


「これが……仮想世界?」


 思わず声に出してしまった。自分の声も、いつもと全く変わらない。

 手を見下ろすと、現実と同じ手があった。感覚も同じだ。軽く地面を蹴ってみると、足裏に草の感触が伝わってくる。


 すごい。山田の言った通りだ。現実と仮想の区別がつかない。


 ふと、自分の服装を確認した。シンプルな白いシャツとジーンズ。現実で着ていた服と同じだった。

 そういえば、これからどうすればいいんだろう。レンを探すと言っても、この広大な世界でどこから始めれば——


「初めてですね」


 突然声をかけられて振り返った。

 そこに立っていたのは、十代後半くらいの少女だった。長い金髪に青い瞳、まるで西洋のお人形のような美しさ。白いワンピースを着て、手には杖のような棒を持っている。


「あ、はい……」

「私はルナ。このエリシウムの案内役を務めさせていただいています」


 ルナと名乗った少女は、優雅にお辞儀をした。その動作があまりにも自然で、本当に人間と話しているような錯覚に陥る。


「案内役?」

「はい。新しいプレイヤーさんには、基本的なシステムの説明をしています。もしよろしければ——」

「すみません、実は急いでいるんです」


 俺は遮るように言った。


「レンという人を探してるんです。このゲームのプレイヤーで——」

「レンさん?」


 ルナの表情が変わった。まるで、その名前に心当たりがあるような。


「もしかして、記憶の森にいらっしゃるレンさんでしょうか?」

「記憶の森? そこにいるんですか?」


 俺の問いに、ルナは困ったような表情を浮かべた。


「記憶の森は……特別な場所です。通常は許可された方しか入れません」

「許可?」

「エリシウムの管理者からの許可が必要なんです。でも……」


 ルナは少し迷うような仕草を見せてから、小声で続けた。


「最近、記憶の森で異常な現象が起きています。レンさんも、その影響で……」

「異常な現象って?」

「時間の流れがおかしいんです。森に入った人の時間感覚が狂ってしまう。現実とゲームの区別がつかなくなってしまう人もいて……」


 俺の心臓が早鐘を打った。それは、まさに兄の症状と同じじゃないか。


「その森に、僕も入れますか?」

「危険です」ルナが心配そうに言った。「あなたまで同じことになったら——」

「それでも行きます。レンは僕の兄なんです」


 俺の決意を感じ取ったのか、ルナは長い間考え込んだ。そして、ゆっくりと頷いた。


「わかりました。ただし、条件があります」

「条件?」

「私も一緒に行かせてください。記憶の森は迷いやすく、一人では危険すぎます」


 ルナの申し出は有り難かった。この世界のことを何も知らない俺にとって、案内役は心強い。


「ありがとうございます。お願いします」


4


 ルナに案内されて草原を横切った。

 歩きながら、俺は改めてこの世界の美しさに驚かされた。空の青さ、雲の白さ、草の緑。全てが現実以上に鮮やかで、まるで絵画の中にいるようだ。


「エリシウムは美しい世界ですね」俺が言うと、ルナは嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとうございます。この世界を美しく保つのが、私たちの使命ですから」

「私たち?」

「案内役や管理者のことです。プレイヤーの皆さんが楽しく過ごせるよう、日夜努力しています」


 ルナの説明を聞きながら、俺はふと疑問に思った。

 彼女はNPCなのだろうか。それとも、別のプレイヤー? あまりにも自然な会話で、区別がつかない。


「ルナさんは……NPCですか?」


 率直に聞いてみた。ルナは少し驚いたような表情を見せてから、くすりと笑った。


「そうですね。NPCと呼ばれる存在です。でも、私には感情があります。喜びも、悲しみも、怒りも。それが人工的なものだとしても、私にとっては本物です」


 その言葉に、俺は言葉を失った。

 人工的だとしても本物? そんなことがあるんだろうか。


「不思議に思われますか?」

「いえ、その……」

「大丈夫です。多くのプレイヤーさんが同じ疑問を持たれます。でも、感情に本物も偽物もないと思うんです。感じているなら、それは存在している」


 ルナの言葉は哲学的で、深く考えさせられた。

 本物と偽物の境界。現実と仮想の境界。この世界では、そういった区別があまり意味を持たないのかもしれない。


 草原を抜けると、森が見えてきた。

 普通の森とは明らかに違う。木々が光っているのだ。幹も葉も、内側から発光しているような幻想的な輝きを放っている。


「あれが記憶の森ですか?」

「はい。美しいでしょう? でも、近づくにつれて不思議なことが起こります」


 ルナの言う通りだった。森に近づくにつれて、頭の中に映像が浮かんできた。

 幼い頃の記憶。母に手を引かれて公園に向かう道。兄と一緒にゲームをしていた時間。懐かしい記憶の断片が、次から次へと蘇ってくる。


「これは……」

「記憶の森の力です。この森では、人の記憶が形になって現れます。美しい記憶も、辛い記憶も」


 森の入り口で、ルナが足を止めた。


「ここから先は、本当に危険です。引き返すなら、今のうちですが……」

「大丈夫です」


 俺は迷わず答えた。


「兄が待ってるんです」


 ルナは小さく頷き、森の奥へと歩を進めた。俺も後に続く。

 光る木々に囲まれながら、俺たちは記憶の迷宮へと足を踏み入れた。


 この森の奥で、兄は何を見ているんだろう。

 どんな記憶と向き合っているんだろう。


 そして、俺はそこで兄とどんな対話をすることになるんだろう。


 森の奥から、微かに声が聞こえてくるような気がした。

 懐かしい、兄の声のような——


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