Chapter 2 兄の沈黙
1
母の泣き声で目が覚めた。
まだ明け方だった。薄っすらと白んだ空が、カーテンの隙間から見えている。時計を見ると午前五時半。こんな時間に母が泣いているなんて、何か大変なことが起きたに違いない。
俺は慌ててベッドから飛び起きた。
階下に降りると、リビングで母が電話をしていた。涙声で、相手に何かを必死に説明している。
「はい、桐島レンです。十九歳。昨夜から意識不明で……え? 原因不明? そんな……」
俺の血の気が引いた。
レン? 意識不明?
「お母さん。」
母が振り返る。目は真っ赤で、頬は涙で濡れていた。
「ユウ……レン君が……」
「どうしたんだ?」
電話を切った母が、震え声で説明してくれた。
昨夜遅く、レンのアパートの大家さんから連絡があったという。隣の部屋の住人が「うめき声のような音が続いている」と心配して大家さんに相談。スペアキーで部屋に入ると、レンがデスクに突っ伏した状態で発見された。
呼びかけても反応せず、救急車で病院に運ばれた。医師の診断では「原因不明の昏睡状態」。外傷はなく、血液検査でも異常は見つからなかった。
「今すぐ病院に行きましょう」
母の言葉に俺はうなずいた。でも、着替えながら頭の中はぐるぐると回っていた。
原因不明の昏睡? 外傷も病気もないのに?
そんなことがあるんだろうか。
2
聖マリア総合病院の集中治療室は、静寂に包まれていた。
ベッドに横たわるレンの姿を見た瞬間、俺の足がすくんだ。
いつもの活気に満ちた表情はなく、顔色は青白い。人工呼吸器のチューブが口に挿入され、心電図のモニターが規則的な音を立てている。
「医師の話では、脳波に異常はないそうです」
母が震え声で言う。
「でも、どうして意識が戻らないのか、誰にもわからないって……」
担当医の田村医師は、困惑した表情で説明してくれた。
「これほど原因不明のケースは珍しいです。脳にも身体にも異常は見られない。強いて言うなら、脳波のパターンが通常の昏睡患者と少し違うくらいで……」
「どう違うんですか?」
俺の質問に、田村医師は首をかしげた。
「レム睡眠時に近いパターンが続いているんです。まるで深い夢を見続けているような状態と言えばいいでしょうか」
深い夢。
その言葉が、俺の頭の片隅に引っかかった。
「先生、患者さんが昏睡状態に陥る前に、何か特殊なことをしていた可能性はありますか?」
「特殊なこと?」
「例えば……VRゲームとか」
田村医師の眉がぴくりと動いた。
「VRゲーム? どうしてそんなことを?」
「昨日、兄がVRゲームのことを話してたんです。次世代型の、没入感が桁違いだって」
医師は少し考えてから答えた。
「確かに、発見時にVR機器が作動していたという報告がありました。ただ、VRゲームが原因で昏睡状態になるなんて、医学的には考えにくい……」
でも、俺には確信があった。
きっと《Elysium Code》が関係している。
3
病院から帰宅したのは夕方だった。
母は疲れ切ってソファに座り込み、ぼんやりと宙を見つめている。
「お母さん、少し休んだら?」
「ええ……そうね」
母が自分の部屋に向かった後、俺はレンの部屋に向かった。
もう長いこと使われていない部屋だったが、物はそのまま残されている。本棚には専門書がずらりと並び、デスクには研究資料が積まれている。
そして、デスクの隅に置かれた箱。
VR機器の箱だった。
箱を開けてみると、最新型のヘッドセットが入っている。見たこともないメーカーのロゴが刻まれていた。製品名は「NeuroLink VR-X1」。
一緒に入っていた説明書を読むと、従来のVR機器とは全く異なる技術が使われているらしい。脳波を直接読み取り、五感すべてに働きかけるという。
『注意:本機器は試作品です。連続使用時間は2時間以内にしてください』
試作品? そんな危険なものを、なぜレンは使ったんだ?
俺は机の上を詳しく調べた。すると、ノートパソコンの画面にメモが表示されているのを発見した。
『Elysium Code βテスト開始
・没入感:予想を超える。現実との境界が曖昧になるレベル
・NPCの反応:驚異的。本当に人間と話しているようだ
・システムの安定性:問題なし
・懸念事項:ログアウト処理が時々遅延する。要注意』
最後の行が気になった。ログアウト処理の遅延?
まさか、ログアウトできなくなって——
俺の思考は、携帯電話の着信音によって中断された。
画面には見知らぬ番号が表示されている。
「はい、桐島です」
「桐島レンさんのご家族でしょうか?」
男性の声だった。少し若い、緊張した口調。
「レンの弟です。どちら様ですか?」
「私、ゲーム開発会社エデン・テクノロジーの山田と申します。桐島レンさんには、弊社の新作ゲームのβテストをお願いしていたのですが……」
エデン・テクノロジー。聞いたことのない会社名だった。
「実は、今日になって桐島さんと連絡が取れなくて。体調でも崩されたのかと心配になり、お電話したのですが……」
「兄は今、病院にいます」
俺は簡潔に状況を説明した。原因不明の昏睡状態であること、VRゲームが関係している可能性があること。
電話の向こうで、山田という男性の息遣いが荒くなった。
「そんな……まさか……」
「まさか、何ですか?」
「実は……弊社の《Elysium Code》のβテスターの中で、似たような症状を訴える方が何人か……」
俺の心臓が早鐘を打った。
「似たような症状って?」
「意識を失う、あるいは現実と仮想の区別がつかなくなる、そういった報告が……でも、まさか桐島さんまで……」
山田の声は震えていた。明らかに予想外の事態に動揺している。
「今すぐ詳しい話を聞かせてもらえませんか?」
「は、はい。お会いしましょう。明日、お時間はありますか?」
俺は迷わず答えた。
「今夜でも構いません」
4
午後八時、山田という男性が我が家にやってきた。
二十代後半くらいの、神経質そうな青年だった。スーツを着ているが、シワだらけで寝不足の様子が見て取れる。
「この度は、申し訳ありません」
山田は深々と頭を下げた。
「まず、お兄様の容態はいかがですか?」
「変化なしです。医師も原因がわからないと……」
俺が答えると、山田の顔がさらに青ざめた。
「やはり……《Elysium Code》が原因の可能性が高いです」
「どういうことですか?」
山田は重い口調で説明を始めた。
《Elysium Code》は、革新的なVR技術を使った次世代MMORPG。従来のVRゲームとは一線を画す、完全没入型の仮想現実体験を可能にする。
しかし、βテスト開始から一週間、テスターの一部に異常な症状が現れ始めた。
「最初は軽い症状でした。ゲーム後に現実感が薄れる、夢と現実の区別がつかなくなる、といった程度の……」
「それが悪化したと?」
「はい。現在、桐島さんを含めて四名の方が昏睡状態です。全員、《Elysium Code》の熱心なプレイヤーでした」
四名。
レン以外にも被害者がいるということか。
「ゲーム内で何か特別なことが起きているんですか?」
「それが……よくわからないんです」
山田は困ったような表情を浮かべた。
「昏睡状態になったプレイヤーのアバターは、全員ゲーム内でアクティブな状態を保っているんです」
「アクティブ?」
「まるで本人が操作しているかのように、ゲーム内で行動し続けているんです。しかし、現実の本人は意識不明……」
俺の背筋に寒気が走った。
現実では昏睡状態なのに、ゲーム内では活動している? そんなことが可能なんだろうか。
「つまり、意識がゲーム内に閉じ込められているということですか?」
「そう考えざるを得ません。そして……」
山田は言いにくそうに続けた。
「昏睡患者のアバターに話しかけた他のプレイヤーから、奇妙な報告が上がっています」
「奇妙な報告?」
「『助けて』『出られない』そういったメッセージを受け取ったという報告が複数……」
俺の頭の中で、いくつかのピースが組み合わさった。
兄は今、ゲームの中にいる。意識だけが仮想世界に囚われている。
そして、助けを求めている。
「僕も《Elysium Code》をプレイできますか?」
俺の言葉に、山田は驚いた表情を見せた。
「え? でも、危険すぎます。お兄様と同じことになる可能性が——」
「兄を助けたいんです」
俺の決意は固かった。
「もし兄が本当にゲームの中で助けを求めているなら、迎えに行くのは俺の役目です」
山田は長い間黙っていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「……分かりました。ただし、条件があります」
「条件?」
「弊社の技術者が常時監視すること。異常があればすぐにシステムを強制終了すること。そして、連続プレイ時間は絶対に一時間以内にすること」
俺はうなずいた。
「いつから始められますか?」
「明日の夜、準備を整えます。ただし……」
山田は真剣な表情で俺を見つめた。
「本当に危険です。最悪の場合、お兄様と同じことになる可能性があります。それでも?」
「やります」
俺の即答に、山田は小さく息をついた。
「わかりました。では、明日の夜八時に。場所は弊社の開発室です」
山田が帰った後、俺は一人リビングに残された。
窓の外では夜が更けていく。どこかで犬が鳴いている。いつもと同じ夜なのに、世界が全く違って見えた。
明日、俺は兄を迎えに行く。
仮想世界の向こうで待っている兄のもとへ。
それは、俺がずっと望んでいたことでもあった。
ついに、桐島レンと対等に向き合える場所が見つかったのかもしれない。
---
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