第五章 十一話 絶望の棘
黒い棘の奔流が押し寄せた。
天地を埋めるように荊が林立し、わずかな隙間へも躊躇なく首を伸ばす。光は砕け、音は軋み、息は重くなる。
「っ……まだ、張れる……!」
クリスの障壁が砕け、粒子となって飛散するたび、彼女はすぐに小障壁を差し込み、流れるように重ねた。防ぐというよりも、“受け流す”ための壁だ。角度を変え、棘の勢いを逸らし、直撃を滑らせる。
「右から二本。次は頭上、間隔短いわ!」
ティナが告げる。未来視で見た数秒先を言葉に変え、仲間の足へ、肩へ、視線へ投げ込む。
「分かった!」カイムが剣を閃かせ、迫る荊を断つ。
だが切ってもまた生える。棘は街そのものの延長で、地と壁から無尽蔵に湧いた。
「来い!」
モルドは一歩も退かず、正面から荊を裂き進む。聖騎士の契約が身を覆い、毒と呪は通らない。それでも熱と圧は容赦なく骨を軋ませた。
後方で、ルーカスは一歩も動かずに眼差しを細めていた。
彼の戦いは、観察から始まる。
「……無秩序に見えて、同じ伸張が繰り返されている。膨張、停滞、収束――次に大きな噴出が来る」
短い言葉で結論だけを仲間へ。
「その“吐き出し”直前に一瞬だけ圧が落ちる。そこで突破口を作れ」
「来るわよ、今!」
ティナの未来視と重なった。
「行くぞ!」
カイムが一歩深く踏み、モルドが肩を並べる。二人の剣が噛み合い、棘の列を縫って一直線に道を刻む。
荊の壁が一瞬だけ薄くなり、黒い林の中に細い白路が走った。
「抜けた!」
短い安堵は、すぐに硬直へ変わる。
「……さすがね」
カトレアの緑の瞳が細く笑う。
足元の荊が集束し、束ねられ、螺旋を描き始めた。十数本が絡み、巨大な回転槍となる。
「穿つわ――荊穿槍」
回転体が地を抉り、衝撃波を撒き散らしながら突進する。
「下がって!」
クリスが大障壁を立てる。だが一撃で粉砕。破片の光が弾け、彼女の身体が後ろに弾かれかけた瞬間――
「踏ん張って、クリス!」
ティナが義手を掲げ、光矢を一射。槍の先端が僅かにずれ、壁面に逸れる。爆ぜた瓦礫の破片が頬を掠めた。
「助かった……!」クリスはすぐに立て直し、今度は薄い膜を三重にずらして配置する。「正面は受け止めない、斜めに流すわ!」
ドリル槍が次々と生成される。
ルーカスは棘の束の根元に目を凝らし、低く言う。
「回転の“軸”が地中の荊の束と連動している。軸に剪断を入れる。モルド、押さえ込めるか」
「押し留める!」
モルドが正面から剣を当て、わずかに回転を遅らせる。
ルーカスの掌から、空気の流れを“切る”ような薄い圧が走った。見えない刃が渦の芯を撫で、螺旋の均衡を崩す。
「今だ、カイム!」
クリスの“流れる障壁”がカイムの足下を滑らかに支え、踏み込みの力を一点へ導く。
「――斬る!」
白光が走り、回転槍は中央から裂けた。飛び散る棘を、小障壁と光矢がはじく。
カトレアの唇がわずかに歪む。
「鬱陶しい指揮……。けれど、万全の庭園に傷をつけられると思わないで」
彼女が両腕を拡げた。
荊は鞭となり、槍となり、網となる。遠距離の打ち付け、中距離の捕縛、近距離の刺突が層をなして押し寄せた。
「右、巻き上げ。左、低い刺し。――上から“網”!」
ティナの声に、三人が同時に動く。
カイムは網の“結び目”だけを狙って斬り、モルドは刺突の軸を剣の腹で受け流し、クリスが横合いからの鞭を小障壁で滑らせる。
「根元を撃ち抜く」
ティナの光矢が、鞭の起点を正確に貫いた。
荊の勢いがわずかに弱まる。
「いい、崩れ方だ」ルーカスが短く評し、次の指示を飛ばす。「網の張力が戻る前に、上から叩け」
「任せろ!」
カイムが跳ぶ。モルドが地を蹴る。二条の刃が交差し、カトレアのローブを切り裂いた。
薄い紅が散る。緑の瞳が、初めてわずかに驚きを帯びた。
「……この私が」
声が冷える。次の瞬間、地面が唸った。
「間隔が詰まる! 全方位、同時来る!」
ティナの未来視が告げ、同時にクリスが叫ぶ。
「密度が上がる、受け止めないで! 全部“ずらす”!」
荊の群れが一面から噴き上がる。
クリスは障壁の角度を縦横に調整し、着弾点の“斜面”を作った。直撃を避け、滑らせ、逸らし、棘の列に“空白”を刻む。
その間隙へ、ルーカスの小規模な衝撃が落ち、荊の根の連結を一瞬だけ断つ。
「今!」
ティナが矢を二連、三連と撃ち込み、モルドの前の道を穿つ。
「助かる!」
モルドが前、カイムが斜め後ろから追う。二人の軌跡は絡まず、しかしぴたりと噛み合った。
カトレアが一歩も退かずに迎え撃つ。
近距離。
彼女の肘から、掌から、腰から、荊が槍と爪の中間のような刃となって突き出す。
君麻呂を思わせる“体術”に荊が溶け、打撃と穿ちが途切れなく繋がった。
「硬い!」
モルドの剣と荊の槍がぶつかり、鈍い音が鳴る。
カイムが下から斬り上げ、カトレアが上体を捻って紙一重で避ける。
彼女の膝がカイムの脇へ入る寸前、クリスの障壁が薄膜で挟み、衝撃を半減させた。
「感謝する!」
「まだ行ける!」
息の継ぎ目を、ティナが未来視で埋めていく。「次、逆手で反転来る。受けないで抜けて!」
カイムは一拍早く体を滑らせ、反転の刃を空に切らせる。モルドが入れ違いに肩口へ打ち込む――荊の盾が立ち上がり、火花。
距離が詰まるほど、カトレアは強い。
荊が彼女の四肢と一体化し、死角が消える。
その優位を、三人は“情報”“角度”“支え”で削り続けた。
やがて――カトレアの呼吸が、僅かに荒くなる。
ローブには切れ目が増え、黒髪の先が数本ちぎれて落ちた。
「……鬱陶しいわ、ほんとうに」
吐息とともに、緑の瞳が底光りする。
「なら、仕上げましょう」
大地が鳴動した。
街全域。
石畳を破って、森そのものが隆起するように、荊が一斉に噴き上がった。
「来る、最大規模!」
ティナの声は震えていない。だが、見届けた未来は苛烈だった。
「全周囲、同時突き上げ、段差あり。上空も閉じるわ!」
カトレアが告げる。
「――荊地獄」
黒い棘が天蓋を組み、地からは槍林が噴出し、横からは鞭と網が連動して押し寄せる。
クリスは“受け流し”に徹し、角度の違う小障壁を雨のように打ち出した。
だが密度が違う。砕け、重ね、砕け、重ね――掌が痺れ、膝が笑う。
ルーカスは即断する。
「分散。ここで固まれば圧殺される。モルド前、カイム斜め右へ。ティナは上、クリスは回復を織り込んで左下の窓枠を使え。――三手に割る」
「承知!」
指示が終わるより早く、それぞれが動いた。
流れは一瞬だけばらけ、押圧は分散する。だが“地獄”の密度は落ちない。
カイムの肩を鞭が裂き、熱い痛みが走る。
「……っ!」
すぐさま光が滑り込み、痛みが和らぐ。
「大丈夫。まだいける」クリスの声が震えない。
「助かる!」カイムは血を振り払い、前へ。
モルドは真正面、槍林の群れを力で裂く。
「押し返す!」
剣に宿る光が、呪と毒の縛りを焼き、道を刻む。だが熱と重量は増すばかりで、鎧が悲鳴を上げた。
上空、ティナは義手を掲げる。
「封じられる前に――」
光の弓がきらりと形を取り、荊の“節”だけを穿つ。天蓋の編み目が一瞬たわみ、わずかな光が落ちた。
「今、右前!」
声が走り、カイムとモルドが同時に踏み込む。
その刹那。
地の底から、低い唸りが重なった。
カトレアが再び手を掲げる。
束ねられた棘が幾条も、螺旋の槍へと組み上がる。先ほどより太く、速い。
「……まだ足りないの。もっと深く――穿つ」
回転槍が唸り、一直線にカイムたちを狙う。
「避け切れない!」
ティナの未来視がそう告げた。
「クリス、斜め四十五度で二重。――ルーカス!」
「軸を剪断する。三、二、一――今!」
見えない圧の刃が、槍の芯を撫でた。
回転がわずかにぶれる。
その“ぶれ”を、クリスの二重の斜面が受け、進路を半身分だけ外へ流す。
モルドが肩で押し外し、カイムが剣で芯を叩く。
槍はかすめ、背後の壁にめり込み、爆ぜた。
熱風。砂塵。耳鳴り。
それでも――誰も倒れていない。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
カトレアの胸が上下する。緑の瞳が、初めて露骨に苛立ちを載せた。
ローブは裂け、露わになった白い肌に細かな切創が走る。黒髪の束が数本、石畳へ落ちた。
彼女は笑った。冷たく、艶やかに。
「ここまで来るなんて、上出来よ。だから――今日はここまで」
足元から黒い渦が湧く。荊がうねり、絡み、彼女の身体を包み込む。
モルドが踏み込む。「逃がすか!」
棘の壁が立ち上がり、剣を鈍く弾いた。
ティナの矢が矢継ぎ早に撃ち込まれ、壁の“節”を三度穿つ。壁は薄くなる。
「カイム! あと一歩!」
「――っ!」
カイムが斬り結界を割りかけた、その瞬間。
「また会いましょう、人間」
囁きだけが、耳元に残った。
黒が弾け、空気が抜ける。
カトレアの姿は、もうどこにもなかった。
*
広場に、遅れて静けさが降りる。
荊の密度は目に見えて落ち、拘束されていた人々の呼吸が深くなる。泣き声はない。ただ、押し潰されていた胸がやっと膨らむ音が、街角でいくつも重なった。
クリスは膝から崩れ落ちるように座り込み、掌を見た。
紅潮し、痺れ、震えている。
それでも、笑った。
「……全員、生きてる」
ティナは義手を握りしめ、小さく頷いた。
「追い詰めた。次は、もっと深く切り込める」
モルドは無言で剣を拭い、鞘に納めた。
「逃げ道は把握した。次は封じる」
ルーカスは瓦礫に背を預け、短く息を吐いた。
「“地中の束”の流れは読める。次は最初から根を押さえる。……必ず、落とす」
カイムは剣を肩に担ぎ、遠くを見た。
胸の奥に渦巻く悔しさは消えない。
だが、隣には仲間がいる。
諦める理由は、どこにもなかった。
黒い荊は、まだ街のそこかしこに残っている。
だが人の気配は確かに戻り始めていた。
勇士たちは立ち上がる。次の一手は、もう決まっている。
――カトレアを、逃がさない。
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