第五章 十話 荊の魔女

サタニキアの街は死んでいた。

 いや、まだ完全には死んでいない。人々の息はかすかに続いている。だが、その姿は人のものとは言えなかった。


 石畳の裂け目や建物の壁から伸びた荊が、街を縛る鎖のように張り巡らされている。黒光りする棘は無数に突き出し、そこに絡め取られた人々は目を虚ろに開いたまま動かない。唇には笑みの形が張り付いているが、その表情に生の温もりはなかった。


「……なんだ、これ」

 カイムが立ち止まり、無意識に剣を抜いた。

 荊に絡まれた人々の胸は微かに上下している。だが、その呼吸は吸われているように細く、弱々しい。


 ルーカスが眉をひそめ、指をかざして魔力を巡らせた。

「……やっぱりな。生命力を吸い上げて荊に養分を与えてる。人そのものを“燃料”にして街を呑み込んでやがる」


 ティナは目を伏せ、義手に力を込めた。

「温もりは残ってる。まだ間に合う……」


 モルドは無言で剣を抜き放ち、地面に突き立つ荊を一刀で斬った。だが断ち切った先から、また別の棘が伸びてくる。まるで無限に湧き出しているかのようだった。


「止めなきゃ……!」

 クリスが震える声で呟く。瞳には恐怖よりも、救いたいという必死な光が宿っていた。


 ――その時。


「ようやく来たのね、人間」


 響いた声は甘美で、同時に耳を蝕むように不快だった。


 瓦礫の上に立つ女の姿。

 長い黒髪を高く結い上げ、深い緑の瞳が冷ややかに一行を射抜いている。ドレスのような衣服は裾に大きなスリットが入り、覗く片足にはロングブーツ。唇に塗られた紫がかった艶が、不気味なほど妖艶さを際立たせていた。


 その背後で揺れているのは無数の荊。街そのものが彼女の延長であるかのように、建物を穿ち、地面を裂き、空を覆っていた。


 荊の魔女――カトレア。


「この街はもうすぐ完成するわ。人も建物も、すべて荊に包まれて、私の庭園になる」

 唇を吊り上げた笑みには、慈悲も罪悪感もなかった。


「庭園だと……?」モルドが唸るように言う。

「人を……そんなふうに扱うなんて……!」クリスが震える声をあげる。


 しかしカトレアは首を傾げ、無垢な子供のように笑った。

「何がおかしいの? 花も木も、根を張って生きる。なら人だって同じよ。荊に絡め取られ、私の糧となって咲き誇る。それが何より美しいと思わない?」


「ふざけるな!」カイムが吠え、地面を蹴った。


 刹那、地面から棘が突き上がる。

「前方! 三本、連撃!」

 ティナの声が飛び、カイムとモルドが飛び退いた。突き出た荊は石畳を粉砕し、粉塵を舞い上げる。


「避けただと?」カトレアが僅かに瞳を細める。

「未来を見通すのが、私の役割よ!」ティナが叫び、義手を掲げる。


 光の弓が顕現し、未来視と重なるタイミングで矢が放たれる。矢は正確に荊の根元を射抜き、数本を一瞬で枯らせた。


「ナイスだ、ティナ!」カイムが叫ぶ。

「押すぞ!」モルドが剣を振り抜き、道を切り開いた。


 二人が前線へ躍り出る。

 カトレアは指を軽く振る。その仕草だけで、壁や瓦礫から新たな荊が鞭のようにしなり、襲いかかる。


「右上! 避けて!」ティナが声を張る。

 カイムは跳躍して荊を斬り、モルドは迫る棘を力で押し返した。


「根元を狙え!」ルーカスが叫ぶ。「荊は地面や壁から養分を吸ってる! 付け根を断てば力は削がれる!」


 カイムは即座に壁際に走り、剣を閃かせた。切断された荊が萎れて崩れ落ちる。

「やったな!」

「まだよ!」クリスが小障壁を展開し、別の荊を弾き飛ばす。


「隙あり!」ティナの指示と同時に矢が飛び、モルドの進路を塞いでいた荊の根を撃ち抜いた。

「助かる!」モルドが叫び、剣で大きく薙ぎ払う。


 攻めは確実に効いていた。

 だが――。


「甘いわ」カトレアが低く囁いた。

 モルドの足元から荊が一気に噴き出し、瞬く間に全身を絡め取る。


「モルド!」

 カイムが駆け寄り、渾身の斬撃で荊を断ち切る。

「危なかったな!」

「助かった!」モルドは息を荒げながら笑った。


「……厄介すぎる」カイムが舌打ちする。

「万能ゆえに隙が少ない……」ルーカスが分析を続ける。「だが必ずパターンがある。諦めるな」


 その言葉に呼応するように、ティナが声を張った。

「次、左下から大きいのが来るわ!」

「任せろ!」カイムが先回りして斬り払う。


 息が合い、反撃が形を成しつつあった。

 クリスは汗を流しながらも障壁を展開し続け、仲間の背を守る。小障壁を重ね、剣の軌道を逸らしては立て直し、回復の光を注ぎ込む。


「……まだ立てるわ、カイム!」

「助かる!」


 彼らの奮闘に、カトレアの笑みがわずかに揺らいだ。


 だが次の瞬間、その唇が冷たく吊り上がる。


「ならば……見せてあげる」


 大地が轟音と共に揺れた。

 街全体の石畳が割れ、建物の壁が崩れる。そこから無数の荊が噴き出し、林のように立ち並んだ。棘は空を覆い、四方八方を塞ぎ、逃げ場を完全に奪っていく。


「なっ……!」

「数が違う!」

 仲間たちの声に焦りが混じる。


 カトレアが冷ややかに告げる。

「これで終わりよ――荊地獄」


 無数の棘が一斉に唸りをあげ、勇士たちを包囲するように迫ってきた。

 クリスが必死に障壁を張り巡らすが、次々と砕け散る。

 ティナの矢も矢道を塞がれ、通じない。

 ルーカスは魔力を練るが、押し寄せる数と速さに術が追いつかない。


 黒い荊の奔流が押し寄せ、仲間を呑み込まんと迫る。


「くそっ……!」モルドが吼える。

 カイムも剣を振るうが、次から次へと押し寄せる棘の嵐に視界が閉ざされていく。


 勝利を確信したかのように、カトレアの緑の瞳が妖しく光った。

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