老婆?のたくらみ

 そのころ――。

 アテルイたちがアラハバキと刃を交え、ようやく静寂を取り戻していた夜。

 村の片隅、崩れた祠の影で、一人の老婆が焚き火の前に座り込んでいた。


 火は小さく、ぱち、ぱち、と不規則な音を立てている。

 焦げた木の匂いが、湿った潮風と混じり合う。

 遠く海の向こうでは、まだ雷のような轟きがかすかに響いていた。


 老婆は、炎を覗き込みながら目を細めた。

 瞳には、火ではない何か――冷たい光が宿っている。


「……死んでおらん、ね」


 小さく、吐き捨てるように言った。

 その声には、焦りと、わずかな失望が入り混じっていた。

 まるで、まだ何かの歯車が動いていることを確かめるように。


「殺し損ねたか、若造どもめ……」


 老婆は立ち上がり、杖を握る手をわずかに震わせた。

 焚き火の炎が、皺だらけの顔を赤く染め上げる。

 燃えさしの火が風に揺れ、影が壁を這う。


 唇がゆっくりと動いた。


「……まずい」


 ぽつりと呟いた後、老婆は黙り込んだ。

 しばらく火を見つめ、そして首を傾げる。


「……まぁ、よい。ここも潮時じゃ」

 低く笑う。

「そういえば、使えるものがひとつ残っておったな。

 あやつにもそろそろ本来の役割で動いてもらわねばな……」


 焚き火がぱちんと弾けた。

 炎の揺らめきが老婆の影を引き伸ばし、まるで別の生き物のように歪む。


 丑三つ時。

 

 扉を開け老婆の巫女は村長の家を絶ずれた

 眼の下に濃い隈を作り、両手を震わせている。


「おお……巫女殿、お戻りに……! あのアラハバキ様のことはなにかわかりましたか……?」


「……計画は失敗した」


 老婆の言葉は氷のように冷たかった。

 その響きが、家の中の空気を一瞬で凍らせた。


 村長は青ざめ、唇を震わせる。

「し、失敗……? では、あの神は……!」


「怒っておる」

 老婆は短く言い、杖の先で床を“トン”と突いた。

 乾いた音が、妙に長く響いた。


「だが、わしに一計がある」


 村長は藁にもすがる思いで身を乗り出した。

「そ、それは……!」


 老婆は唇をゆがめて笑った。

「今夜、アラハバキは怒りに任せてこの村を焼く。

 だが、海へ逃げよ。あの小島へ」


 村長の眉が動く。

「……小島、ですと?」


「そこには“海の神”がいる。

 おぬしたちが近ごろ漁のたびに拝んでおる、あの新しい神じゃ。

 魚を集め、潮を鎮めると信じられておる。

 その神が、今度はおぬしたちを守ってくださる」


 老婆は微笑んだ。

 その笑みは優しく見えた――だが、どこか血のように赤かった。


「わしがその神に願を立てておいた。

 舟を出せ。子どもも女も皆、あの島へ逃げるのだ」


 村長は戸惑いながらもうなずいた。

「……そ、それは……救いの言葉ですな。ありがたや……ありがたや……!」


 老婆は何も答えず、ただ背を向けた。

 外へ出た瞬間、風が強く吹き、白い髪が宙に舞った。


 空は曇り、月は雲の向こうに隠れていた。

 村の鐘が鳴り響き、人々が広場に集められる。

 老婆は姿を見せず、代わりに村長が高台で声を張り上げた。


「アラハバキ様の怒りが迫っておる! 

 舟を出せ! 島へ行けば、海の神が我らをお守りくださる!」


 その言葉が終わるより早く、風が吹き抜けた。

 潮の匂い――そして、鉄の匂い。

 湿った血の匂いが夜気に混じった。


 ざわめきが走る。

 誰かが空を見上げ、悲鳴をあげた。


 闇の中から、白い影がいくつも現れたのだ。


 それは、巫女装束を着た女たち。

 だが、その顔は死人のように青く、瞳には光がなかった。

 口の端から黒い液が垂れ、笑っている。


 次の瞬間、彼女たちは跳ねた。

 村人の群れに飛び込み、首に噛みつく。

 肉が裂け、血が砂を染める。


 悲鳴が夜空を裂いた。

 逃げ惑う人々。泣き叫ぶ子ども。

 村長が必死に叫んだ。


「舟へ! 舟へ逃げろ!」


 その声もすぐに悲鳴に飲まれた。

 老婆は少し離れた丘の上から、その光景を見下ろしていた。

 焚き火の光が反射し、皺だらけの顔に影を刻む。


「……上々じゃ」


 唇の端が吊り上がる。

 火の粉が夜空に舞い、村が赤く染まっていく。


 老婆は杖を手に、波打ち際まで歩いた。

 砂はぬかるみ、潮が足首を冷たく撫でる。

 海は異様なほど静かだった。

 風も止まり、波の音すら消えている。


 老婆はその闇を見つめ、低く呼びかけた。


「――おい、クラーケン。聞こえておるじゃろう」


 しばらく、何の反応もなかった。

 だが次の瞬間、海面がゆらりと動いた。

 泡が立ち、黒い渦がふたつ、三つと広がる。


 潮の中で何かが蠢いた。

 巨大な何かが、ゆっくりと身をもたげるような感触。


 老婆は笑みを深める。


「行きはよい。好きに食らえ。

 だが帰りは――何があっても島から出すな」


 ごぼり、と海が鳴いた。

 水が割れ、泡の奥からぬるりと触手の影が見えた。


 老婆は杖を掲げ、声を低くした。

「それと“アテルイ”という名の男が来たら、生贄に捧げよ。と村人に伝えよ

 叶えば、村には永遠の豊穣を与えるともなあああとアテルイを食べた後はすきにしていいぞ食うのもよし神様ごっこを続けるのも好きにせよ」


 海が応えたように波打つ。

 黒い波が浜を叩き、冷たい水滴が頬を打った。


 老婆は目を閉じ、静かに頷いた。

 唇の間に、血のような笑みが浮かぶ。


「……これでよい」


 風が止まり、潮風が消える。

 焚き火がひとりでに消え、闇が深まっていった。


 老婆はそのまま海辺を背に、祠の方へ歩き出した。

 炎の光が彼女の影を長く引き伸ばす。


 そして、祠の前に立ったその瞬間――。

 その姿はふっと掻き消えた。

 煙のように、闇へと溶けていった。


 波の音だけが残った。

 赤く染まった空の下、村の灯はひとつ、またひとつと消えていく。


 その静寂の中、海の奥で何かが低く鳴いた。



 誰の声ともつかぬその響きが、

 やがて、波間に吸い込まれていった。

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