クラーケンとの闘い

 海面が、不気味に波打っていた。

 静寂が張り詰め、誰もが息を呑んでその場に立ち尽くす。


 タコのような顔をした“それ”――クラーケンは、巨大な目をひとつ瞬かせる。

 深い海の底から突き上がってきたような低音が、島全体を震わせた。

 ぬめるような声が、潮風の中に滲む。


「――その男を、差し出せ」


 言葉は、確かに人の言葉だった。

 だが、その響きは人ではない。

 何層もの声が重なり合い、波と一緒に胸を押し潰すように響く。


「あの“アテルイ”という神人を、我に捧げよ。

 さすれば、村は生き延び、豊穣を約束される」


 村人たちがざわめいた。

 誰かが「神の声だ」と呟き、別の者が「救いだ」と泣き出す。

 恐怖に顔を歪めながらも、誰もがその声にすがるように耳を傾けていた。

 怯えと期待がないまぜになり、息遣いが波の音と混ざり合う。


 老人が祈るように手を合わせ、若い者は震える手で子を抱き寄せた。

 中には、恐怖に耐えかねて笑い出す者さえいた。

 ――まるで、理性が潮とともに引いていくようだった。


 その群れの中心で、アテルイはただ一人、動かずに立っていた。

 周囲のざわめきも、涙も、祈りも、彼には届いていない。

 彼の眼差しはまっすぐ、海の闇――その奥に潜む“声の主”を見据えていた。


 波がざわりと揺れ、月光が一瞬、彼の頬を照らす。

 その光の中で、アテルイの瞳だけが鋭く光った。

 人の群れの中にありながら、彼だけが“別の理(ことわり)”に属しているようだった。


 風が止まり、潮が引く。

 あたり一面、まるで時間そのものが凍ったかのように静まり返った。


 最初に動いたのは、村人だった。

 一人の男が震える声で叫ぶ。

「……巫女殿の言葉通りじゃ! あの男を差し出せば、我らは助かる!」


「ま、待て!」とカノンが制した。

 しかし、群衆はもう理性を失っていた。

 恐怖が希望に変わり、その希望が狂気を帯びる。


 次の瞬間、数人の男がアテルイに掴みかかった。

「すまねえ、神様! おめえを殺す気はねえんだ! ただ……ただ俺たちを助けてくれ!」

 彼らの目には涙が浮かんでいた。だがその手はしっかりとアテルイの衣を掴み、後ろから縄を引き寄せていた。


 アテルイは何も言わなかった。

 ただゆっくりと薙刀の柄を握り、刃をわずかに抜いた。


 音もなく、冷たい風が走った。

 刃がわずかに光る。


 誰も斬られなかった。だが、すぐ目の前の地面に、深々と裂け目が走っていた。


 村人たちは悲鳴を上げ、後ずさる。

 アテルイの黒い瞳が、月光を吸い込むように光っていた。


「……これ以上、俺に手を出すな」


 その声には怒りはなかった。

 ただ、氷のように冷たい威圧があった。


 村人たちは泣きながら跪いた。

「お、お願いします……どうか、この島から出て行ってください……!」


 アテルイはしばし彼らを見つめ、それから静かに頷いた。

「そうか。お前たちの恐怖は理解できる」


 その穏やかな言葉に、一瞬だけ村人たちの顔に安堵が浮かんだ。

 だが次の瞬間、アテルイは背を向け、海の方を見据えた。


「……だからこそ、俺が片をつける」


 カノンが駆け寄る。

「アテルイ様、まさか……!」


 アテルイは笑った。

 その表情には、疲労の影と、どこか懐かしいような静けさがあった。


「大丈夫だ、カノン。ああいう輩は――実は得意だ」


 カノンが息を呑む。

「……得意、ですか?」


「ああ。俺のいた世界では、ああいうのを何体も沈めなきゃならなかった」


 その言葉の意味を理解できる者は、誰もいなかった。

 だが、カノンはその背に宿る覚悟を感じた。


「……どうか、ご無事で」


 アテルイは頷くと、小舟の縁に手をかけた。

 波が彼の足元を打ち、冷たい海風が髪を揺らす。

 薙刀の黒鉄の刃が、朝の光をわずかに返した。


 クラーケンは、静かにその様子を見つめていた。

 巨大な瞳の中に、わずかな愉悦が灯る。


「……自ら、来るか。愚かにして、勇敢なり」


 その声には、腹の底から響く笑いが混じっていた。

 海面の下で、無数の触手がゆっくりと動き始める。


 潮が逆巻き、波が高く立つ。

 空が曇り、陽光が消えた。


 アテルイの舟は、その波の間を突き進む。

 櫂は使わない。彼はただ立ったまま、波の流れと一体になっていた。

 その姿はまるで、海そのものに導かれているようだった。


 最初の触手が動いた。

 黒い鞭のような一本が、空を切って振り下ろされる。


 轟音。

 海面が裂け、波が炸裂した。


 だがアテルイの姿は、そこにはいなかった。


 次の瞬間、舟の反対側――風を切って彼の声が響く。

「そこか!」


 薙刀が唸りを上げ、海を切り裂く。

 刃が閃き、黒い触手の一本が海上に舞い上がった。

 血のように黒い液が飛び散り、海が赤黒く染まる。


「ほう……!」


 クラーケンの巨体が揺れた。

 その目が愉快そうに細まる。


「なかなかやる。だが――我が腹には届くまい」


 海が沸騰したように泡立つ。

 十、二十、いや、それ以上の触手が一斉に海面を突き破った。


 空が、闇で覆われた。


 村人たちは島の浜からその光景を見ていた。

 誰もが息を呑み、祈るように手を合わせていた。

 カノンはただ、海の先を見つめていた。

 その銀の瞳に、絶望と希望が同時に宿っている。


 アテルイはすでに、舟ごと触手の群れに包まれていた。

 薙刀を振るうたびに波が裂けるが、数は減らない。

 ついに――舟がきしみ、音を立てて砕けた。


 木片が弾け飛び、海へ沈む。


「……アテルイ様!」


 カノンの叫びは、潮風にかき消された。

 声は海に吸い込まれ、泡とともに消えていく。

 彼女は波打ち際に膝をつき、崩れ落ちるように両手を伸ばした。


 海の上では、もはや何も見えない。

 さっきまであった舟の影も、槍の閃きも、跡形もなく呑み込まれている。

 ただ、巨大な渦だけが残っていた。

 それはまるで、世界の喉が開いて、すべてを飲み下すようだった。


 冷たい風が頬を叩く。

 涙がにじんだのか、潮なのかもわからない。

 視界が揺れる。

 彼女は両手を胸の前で組み、震える声で呟いた。


「……どうか、無事でいてください……アテルイ様……」


彼女はそういいながら早鐘のようになる鼓動を必死に落ち着かせようとした


 深海の底。


 アテルイは沈んでいた。

 冷たい海水が全身を包み、耳に鈍い音が響く。

 視界の先、闇の中に光があった。

 それは、クラーケンの眼だった。


 巨大な口がゆっくりと開き、鋭い歯が幾重にも並んでいる。

 闇そのものが飲み込もうとしていた。


 海の圧力がアテルイの身体を締めつける。

 音は消え、世界が青黒い濁流に塗りつぶされていく。

 その中心で、クラーケンの瞳がゆらりと輝いた。


「フハハハ……愚か者よ。

 わざわざ我が“神域”へ降りてくるとはな」


 その声は、海水の中を震わせながらアテルイの頭蓋に直接響いた。

 笑っている。

 それは低く、粘ついた声――まるで、深海そのものが嗤っているようだった。


「陸の息子どもは皆、ここで溺れる。

 どれほどの神気を持とうが、この海では我が理がすべてよ。

 呼吸も、光も、命も、我が手の中にある」


 クラーケンの触手がゆっくりと広がる。

 水の抵抗をものともせず、巨大な網のようにアテルイを包囲する。

 その動きは優雅ですらあった。


「さあ、沈め。

 この暗き海で、貴様の魂を永久に抱いてやろう」


 その嘲りは、神の余裕だった。

 まるで獲物が自ら罠に飛び込むのを、愉快がっているように。


 だがアテルイは――笑った。

 血の気の引いた唇の端で、静かに笑みを浮かべた。


「……その台詞、何度も聞いたよ。

 だが、海の底に沈むのは――お前のほうだ」


  アテルイは、かすかに笑った。

 その笑みは、勝利のものではなく、獲物の動きを見切った狩人のそれだった。


「……やはりな。こいつ、口の中が弱点か」


 さっきから観察していた。やはり深海にいたときにたまに相手をさせられていたやつとそっくりだ

 触手を斬れば再生し、体表を裂けば瞬時に閉じる。

 だが――口だけは違った。

 外の海水を吸い込むたび、内部の肉が不自然に脈打ち、そこから薄い黒い血が滲み出ていた。

 おそらく、ここだけは再生はあまり得意ではないだろうというか経験上こういう手合いを何度も仕留めてきた

 “そこ”こそが、この怪物の中枢。


 アテルイは薙刀を握り直す。

 柄を伝う冷たい水圧が、皮膚を裂くように強まった。

 呼吸はとっくに限界に近い。

 けれど、その瞳は静かだった。



 彼の足が海底を蹴る。

 青黒い闇を裂き、渦の中心へと向かっていった。


 薙刀を構える。

 その姿は、まるで獣の喉奥に飛び込む狩人のようだった。


 そして、彼は自らその口へと突き進んだ。


 カノンは、ただ見ていた。

 空は曇り、波が荒れ狂い、風が鳴る。

 巨大な渦が巻き上がり、島の岩肌に波がぶつかる。


 誰かが泣き、誰かが叫ぶ。

 村人たちは恐怖に駆られ、ただ膝をついて祈っていた。

 その祈りが神に届くものなのか、それとも己の罪を覆い隠すための懺悔なのか――誰にもわからない。


 ある者は、アテルイが海へと身を投じたことを“神への捧げもの”と信じ、震える声で感謝の言葉を口にした。

 ある者は、彼をいけにえに差し出した己の卑怯を悔い、両手で顔を覆って泣き崩れた。

 祈りと後悔、歓喜と絶望。

 そのどれもが、同じ海風の中に溶け合い、区別のつかない呻きとなって夜空へと消えていった。


 カノンはその群衆の中に立ちながら、何も言えなかった。

 彼女の胸の奥では、たった一つの声だけが響いていた。


 ――アテルイ様、どうか。


 だがそのとき――。


 海が、静まった。


 風が止み、波が引く。

 あたりが不気味なほどの沈黙に包まれた。


「……終わったの?」


 誰かが呟いた瞬間。


 海の中から、轟音が響いた。


 海が割れた。

 真紅の水柱が天へ伸びる。

 飛び散る水しぶきの中から、ひとりの影が舞い上がった。


 それはアテルイだった。


 彼の手には、黒鉄の薙刀。

 その刃先から、どす黒い血がしたたり落ちていた。


 そして――その下では、巨大なクラーケンの体が真っ二つになって沈んでいく。

 海面を覆う触手が、ひとつ、またひとつと沈み、やがて泡となって消えていく。


 空が晴れた。

 朝日が海を照らし、血の色を黄金に変えた。


 アテルイは波打ち際に立っていた。

 薙刀を突き立て、しばらく海を見つめている。


 カノンが駆け寄り、息を弾ませながら叫ぶ。

「アテルイ様! 本当に……!」


 アテルイは振り返り、かすかに笑った。

「……ああ。少し泳ぎが下手になったかもしれん」


 カノンの目に、涙がにじむ。

 だが彼女はそれを見せず、ただ静かに頷いた。


 アテルイは再び海を振り返る。

 その瞳には、言葉にできない憂いが宿っていた。


「……あの老婆。これも奴の仕込みか」

 アテルイは静かに呟いた。

 口の端にわずかな笑みが浮かぶ。


「だが――取るに足らないな」


 その声音には怒りも焦りもなかった。

 波が、彼の足元を洗う。

 潮の香りの向こうに、遠く嵐の気配がまだ残っていた。


 * * *

 海が静まった。

 黒く濁っていた潮が、少しずつ透明さを取り戻していく。


 アテルイはゆっくりと波間から姿を現した。

 背にはまだ血飛沫がこびりつき、手に握った薙刀の刃先からは、淡い光が零れていた。


 海上では、村人たちが呆然とその光景を見つめていた。

 恐怖に顔を引きつらせる者、地に伏して祈る者、涙を流しながら手を合わせる者――。

 中には、憎々しげにアテルイを睨む者もいた。

 だがその視線の奥には、どうしようもない“安堵”があった。

 彼に助けられたことを、誰も口には出せなかったが、皆が知っていた。


 アテルイはそれらすべてを無言で横目に見やり、小舟に足をかけると静かに言った。


「……言ったろ。こういう輩は得意なんだ」


 誇らしげな笑み。

 波をかき分けて戻ってきたアテルイを、カノンがじっと見つめていた。


 そして、小さくため息をつく。

「……まさか、海中に潜るとは思いませんでした」


 アテルイは薙刀を舟の縁に立てかけながら、肩をすくめた。

「吸い込まれてから中で暴れるのが一番楽なんだ。外からじゃ硬すぎて面倒だからな」


「“楽”って……!」

 カノンの声がわずかに震える。

 怒りとも、安堵ともつかない複雑な響きだった。


 アテルイはその顔を見て、ほんの少しだけ表情を和らげた。

「悪かったよ。……心配、かけたな」


 カノンはふいに顔をそむけ、髪を払う。

「次は、もう少し心配させないでください」


 潮風が吹き、彼女の白銀の髪が揺れた。

 海はすでに静かで、波の音だけが残っていた。

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追放者アテルイ 異国に刻まれし英雄譚 Toriatama @BugCreater

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