無人島へ

 村人との会話を足早に終わらせると、アテルイとカノンは、残ったひとりの男に呼び止められた。

 男の顔は煤で黒く、唇は乾ききり、息をするたび喉がかすかに鳴った。


「……まだ、小舟が一艘だけ残っております。

 あの小島に……皆、逃げたのです。どうか、助けてやってください……」


 その声は風にかすれ、どこか死人のようだった。

 指さす先、朝靄の向こうに、黒い影がうっすらと浮かんでいた。

 それは村から一里――およそ四キロほど先の小島。

 海霧に包まれ、空と海の境を失い、まるで“世界の終わり”がそこに沈んでいるようだった。


 アテルイはしばらく無言でその影を見つめていたが、やがて静かにうなずいた。

「……わかった。船はあるか?」


 男は震える指で浜の端を示した。

 そこには半ば砂に埋もれた木の舟があった。

 古びてはいるが、まだ使える。


 アテルイは舟の縁に手をかけ、ぐっと押し出した。

 重い音を立てて海に浮かぶと、波がゆるやかに打ち寄せ、砂を洗った。


 カノンはその背を見つめながら小さく呟く。

「……行くのですね」

「ここにいても仕方がない。行こう」


 二人は舟に乗り込んだ。

 海風が吹き、冷たく湿った塩の匂いが頬を刺す。


 櫂が水を切る音が、静かな海に響く。

 舟はゆっくりと沖へと滑り出した。

 背後にある焼けた村は、もう煙しか見えなかった。


 波間に光が反射し、白く揺れていた。

 空は晴れているのに、なぜか重苦しい。

 風が止むたび、まるで世界が息を潜めたように静まり返る。


 なぜかは知らないが村人の言葉は、どこかおかしかったこの世界に最初に落とされたときの言い知れない感覚がアテルイにはあったがそれでもアテルイは彼の言うことを信じることにしたなぜなら彼自身にはうそを言っているようには思えなかったのである


 アテルイは視線を前に向けたまま、ぼそりと呟く。

「……なぜ“あの島”なんだ?」

「村から見える場所だからでしょうか。逃げ場としては近い」

「近い、か。だが、あの距離……潮が荒れれば、命はない」


 言葉が波に飲まれて消える。

 カノンは櫂を握りながら、ふと空を見上げた。

 薄い雲が流れ、陽が差した瞬間だけ、波の上に金色の光が走った。

 しかしそれも束の間、また灰色の陰が広がる。


 まるで、海そのものが息をしているようだった。


 舟が進むにつれ、海は深く、色を変えた。

 藍よりも濃く、底の見えない黒。

 その下には何かが潜んでいる――そんな錯覚を覚える。


 カノンが口を開いた。

「……この海、妙ですね。波が立たない。まるで……眠っているよう」

「眠ってるなら、起こさないように行こう」

 アテルイは冗談めかして言ったが、声に笑みはなかった。


 そのとき、カノンの視線が鋭く動いた。

「……今、何かが下を通りました」

「魚か?」

「違います。……もっと、大きい」


 二人の間に、再び沈黙が落ちた。

 風の音すら止む。

 海は鏡のように静かで、舟の影だけがゆらめいていた。


 やがて、島が近づいた。

 岩肌がむき出しの無骨な地形。

 潮が打ち寄せるたび、白い泡が砕けては消える。

 その狭い入り江には、いくつもの小舟が並んでいた。


「……誰かいる」

 カノンが指差す先、岩陰に数十人ほどの人影が見えた。

 互いに身を寄せ合い、祈るように頭を垂れている。

 風にのって、嗚咽のような声がかすかに届いた。


 アテルイは櫂を止め、舟を浜へと寄せた。

 砂を踏む音。

 潮風の中、焼けた木の匂いがまだ微かに漂っていた。


 二人は慎重に近づく。

 生存者を見つけた安堵よりも、胸の奥に広がるのは妙なざらつきだった。


「……助かった、よくぞ……!」

 最初に駆け寄ってきたのは、背の曲がった老爺だった。

 その声は喜びというより、どこか取り乱していた。


 しかし彼らの目に宿るのは“安堵”ではなく、“疑念”だった。

 まるで、二人が本当に“人間”かどうかを確かめるように見ていた。


 カノンが怪訝そうに眉を寄せる。

「どうかしましたか?」


 村人の一人が、おそるおそる口を開く。

「お、おぬしたち……本当に、生きて……? 海を渡ってきたのか?」


「当たり前だ。舟で来た」

 アテルイは短く答えた。

「何がおかしい?」


 誰も答えない。

 ただ、ざわざわと視線を交わし、海の方を見て怯えている。

 奇妙なことに、誰一人として海辺へ近づこうとしなかった。


 子どもでさえ、砂に足をつけることを嫌がり、泣きながら母親の裾を掴んでいた。


 カノンが小声で囁く。

「……この人たち、海を恐れている。まるで“何かがいる”ように」


「歩く死体はここでは見なかったか?」

 アテルイが問うと、老爺は首を振った。


「いいえ……それは見ておりません。ですが……」

 老爺の声が震える。

「……もう、わしらは本土には戻れませぬ」


「なぜだ?」

 アテルイの声が低く落ちる。


 そのとき、一人の若者が前に出た。

 目は落ちくぼみ、唇は乾いて白くひび割れている。

「……言葉より、見てもらったほうが早い」


 そう言って、浜辺に並ぶ舟のひとつに手をかけた。

 軋む音。

 重たい船体が砂を擦り、海へと滑り出す。


 最初は何も起きなかった。

 だが、舟が波に浮かんだその瞬間――


 海面がざわめいた。


 静まり返っていたはずの水が、まるで息を吹き返したように泡立ち、うねり、揺れた。

 潮の匂いが急に強くなる。

 水の下から、低い唸り声のような音が響いた。


「……!?」

 アテルイが身構えるより早く、海の中から何かがぬるりと現れた。


 それは、タコのような顔をした異形の怪物。

 肌はぬめりを帯びた灰色で、潮に濡れた岩のように光っている。

 人の胴よりも太い触手が六本、ゆらりと揺れ、

 その中央には――巨大な“眼”があった。


 まるで、海そのものがひとつの目になったかのようだった。


 海水が腐臭を放ちながら滴り落ち、泡のような息が断続的に吐き出される。

 生き残った村人たちは悲鳴を上げ、後ずさった。


 アテルイは薙刀の柄に手をかけた。

 刃が朝の光を受けて光る。


 だが、怪物は動かない。

 ただ、見ていた。


 その眼が、まっすぐアテルイたちを射抜く。

 冷たい、深海のような光。


「……見ている」

 カノンが息を呑んだ。

 その瞳には、確かに“知性”が宿っていた。


 海の怪物は、まるで笑うように口を開いた。

 無数の歯が波の光を反射し、海霧の中で鈍く輝く。

 水面がぐらりと傾き、潮が引く。



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