アラハバキ戦・終幕

 光が静まり、潮霧を裂くようにしてアラハバキの神体が姿を現した。

 その身は鱗の鎧をまとい、岩と海と空の境界そのものを形にしたかのようだった。神々しさとともに、どこか冷たい美しさが彼にはあった。理を超えた恐怖が空気を支配し、世界が呼吸を忘れたようになった。

 息をすることすら許されぬ圧が大地を覆い、草も虫も鳥も、すべての生き物が動きを止める。彼らはただ一点、そこに立つ存在を見つめ、祈るように身を固めた。


 それは、最初に見た“人の姿”をしたアラハバキであった。だが、その人型はもはや人ではない。そこにあるのは形のみで、ただ「在る」という事実だけが周囲を縛りつけていた。

 一歩も動かぬ。動く必要などない。その静寂こそが、この神がいかほどの力を宿すかを雄弁に物語っていた。


 そして、静寂を破るように――低く湿った声が響いた。


 「ふむ……ここまでやるとは思わなんだのう。だが、これで終いじゃ」


 嘲りとも賞賛ともつかぬ響き。アラハバキはゆるりと顔を上げ、うすく笑う。


 「まずは……そこの綺麗なおなご。おぬしは少々、厄介じゃのう。少し眠ってもらおうか」


 その歩みは、風が流れるように静かだった。だが一歩踏み出したかと思うと、次の瞬間には既にアテルイの視界から姿を消していた。探す暇もないほどに、アラハバキはカノンの背後に立っていた。軽く後頭を叩くと、カノンの身体は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


 アテルイは、その光景に戦慄した。あまりに自然で、あまりに容易――同じ神に生まれながら、歩む次元が異なることを残酷なまでに示していた。


 だが恐怖は彼を止めない。アテルイは地を蹴り、一本の矢のごとく疾走する。カノンを引き離すため、渾身の力で剣を振り抜き、頭めがけて横一閃した。


 しかし、アラハバキは避けず、ただ人差し指と親指で刃を摘んだ。白い残光をつまむ所作は、光を握り潰すかのようでもあった。


 「……しまいだ」


 その声と同時に、膝から繰り出された蹴りがアテルイの腹を抉った。空気が破裂し、彼の身体は岩へ叩きつけられる。剣は手から離れない。血が口からあふれ、遠くの波が揺れているのが視界の隅に見えた。


 蹴りの衝撃が地を這い、岩肌に血の滴が散る。口、耳、目尻から赤い筋が落ちる。うずくまったまま、アテルイはただ苦悶の表情でアラハバキを見るしかなかった。


 アラハバキは一歩前へ出る。手には先ほどまではなかった槍が握られていた。どこから取り出したのか分からぬが、その在り様はまるで道具が彼に馴染んでいるかのようだ。


 「おお、すまんすまん。そういえば――おぬしも神であったな」

 声は淡々としている。


 「殺すには、それ相応のものが必要じゃったわ。われらは不死ではない。人間ごときには討たれぬが、神同士となれば話は別じゃ。特に……神具を使われれば、どうなるか――おぬしも知っておろう?」


 その言葉とともに瞳が細まる。刹那、その姿が掻き消え、次の瞬間にはアテルイのすぐ目の前にいた。音も風も距離の概念も消え、ただ「そこにいた」。


 アラハバキは止めを刺す前にわずかな間を取った。

 「……殺す前に、二、三、聞いておこうかの」


 その声には感情が欠けていた。慈悲でも嘲りでもない。存在の上位にある者が、下位に問いを投げるような乾いた静けさだ。


 アテルイは崩れ落ちた体を支え、荒い息を整える。意識の奥底では既に反撃の形を描いていた。もはや勝利ではない。ただ、屈するままに死ぬことだけは許せなかった。


 アラハバキの視線が冷たく揺れる。

 「なぜ、あの村に組した? おぬしほどの力があれば、人も妖もひれ伏す。 それを捨ててまで、なぜやつらの側に?」


 アテルイは唇を震わせる。喉を血と痛みが塞ぎ、声はかすれて届かぬ。


 「……しゃべることも難しそうじゃのう。まあ、無理もないわ」


 アラハバキは興味を失った玩具を見るように槍を構える。刃が光を帯び、空気が震えた。


 ――その瞬間だった。


 アテルイの瞳に光が戻る。脚が砕けようと構わない。残る力を一点へ集中させ、ただ本能のままに動く。剣を握りしめ、鱗の隙間――皮膚の薄い箇所を狙う。あらゆる思考を捨てた、ただ一度きりの反撃だ。


 アラハバキは速かった。アテルイが振り抜くのを見届け、わざとその動きを最後まで出させる。瞬間、その隙に槍が光を裂いた。


 閃光のごとき一撃。槍は剣を根元で折り、腕と胴の一部をこそげ取り、手首を断ち、脇腹を掠めて肺の一部までを斬り裂いた。


 アテルイは呼吸を失う。吸おうとしても空気は入らず、喉の奥で細く音がする。痛みを超え、身体の内側が空洞になるような喪失だけが残った。


 アラハバキは淡々と呟く。

 「ふむ……槍が飛んでしまったか。後で探すとしよう。さて――少し痛むかもしれぬが、手刀で我慢してくれ。一撃で葬ってやろう」


 その声は天候を語るように無情だ。アテルイは睨み返すしかない。血を泡立て、視線で意志を示す。


 アラハバキがゆるやかに構える。振り下ろされんとしたその瞬間、いつの間にかカノンが起き上がり、アテルイのもとへ駆け寄る。胸に身を寄せ、両腕で抱きしめ、アラハバキを睨み据えた。


 アラハバキは首をかしげる。困ったように言った。

 「困ったのう……その男だけでも殺しておかねば収まらぬところじゃがのう。おぬしはちと面倒じゃ。ワシがやる間、どいてくれぬかの?」


 カノンは震える声で言う。

 「アテルイ様を、殺す間にどうぞ私をおやりください」


 アラハバキは一瞬困惑の色を見せ、腕の力を緩める。だがすぐに薄い笑みをこぼし、言った。

 「ふむ……おぬし、わかっておるな。ワシは殺そうと思えばいつでもやれるのだぞ」


 周囲の空気に殺気が満ちる。だがカノンは引かない。恐怖ではない、決意が目に宿っている。アラハバキはしばし思案し、殺気はさらにアテルイに降りかかる。彼の意識は断片になりつつ、胸にただ一つの思いだけが燃えていた。


 カノンの決意に満ちた瞳を見据えたとき、なぜかアラハバキは――ほんの一瞬だけ緩む。

 そして、無意識のように彼女へ手を伸ばす。幼子が何かを見て手を伸ばすように、ふと。


 その刹那を、アテルイは見逃さなかった。最初で最後の機会が、そこにぽっかりと口を開いた。


 乾坤一擲。本当の最後の一手が、淀んだ空気を引き裂いた。

 アテルイはもうろうとしながらも、残された腕で折れかけの剣の破片を握りしめる。息は浅く、体は限界だ。それでも意識は一点に凝る。──ここで動かなければ皆が死ぬ。カノンだけは、どうしても守らねばならぬ。


 彼は脚に残る全てを注ぎ、血の滑る地面を蹴って飛び出す。野獣のような咆哮とともに、居合のような短い一閃を振るう。刃先は自らの血に濡れていた。


 刃は皮膚の薄い箇所を裂き、冷たい鋼の感触が骨を伝い、手首まで走る。腕が落ち、血の熱が耳元ではじける。勢いのまま腕を翻し、首筋へ刃を送る。皮一枚がめくれた瞬間、身体は急速に冷たくなる。力は抜け、言葉が喉の奥で砕ける。


 唇が震え、嗄れた声が漏れる。

 「……ぐふっ、俺……ん、か、じだ――」


 断片だけが零れ、刃は首筋を貫けぬまま止まる。アテルイは膝を折った。血に染まった呼吸だけが、潮風の向こうで細く震え続ける。

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