アラハバキ戦・中盤
潮霧の帳の中、アテルイは肩で息を整えつつ、横に並んだカノンへ視線を向けた。
「……カノン。おまえにできることを、今すぐ教えろ」
白銀の髪が濡れ、額に貼りつく。カノンは一度だけ瞬きをし、短く告げた。
「糸で音を拾えます。振動で位置が分かる。強度も可視性も自由自在……そして、粘りを強めれば相手の動きを縛ることも可能です」
アテルイは眉を寄せた。
「つまり、アラハバキの足を止められる……?」
「はい。ただし一瞬です。あの巨体を長く縛るのは……」
「十分だ」
剣を握り直すアテルイの瞳に、決意の光が宿る。
「おまえの糸で動きを封じ、その隙に俺が斬る。それしかない」
カノンは小さく頷き、指先から銀糸を解き放つ。潮霧に紛れ、ほとんど見えない糸が岩から岩へと渡されていった。
だが――。
アラハバキの巨躯は岩棚を揺らしながらも、驚くほど素早かった。六メートルを超える蛇身がしなり、糸を掠める直前で鋭く方向を変える。空気が切り裂かれ、結界のように張られた糸は虚しく震えただけだった。
「……速い!」
カノンが目を見開く。
アテルイも息を呑んだ。巨体はただの標的ではない。むしろ、あの異常な速度ゆえに狙いを外させる。
アラハバキの口元が、にやりと歪んだ。
「……面白いものを見せてやろう」
巨体が震え、全身を覆う鱗が岩肌のようにざらりと盛り上がった。大地そのものを纏ったかのような異形の姿。足元の岩盤が鳴動し、亀裂が走る。
「……まだだ――」
次の瞬間、アラハバキは大口を開いた。
顎の奥から、どす黒い霧が噴き出す。潮霧よりも濃く、重い瘴気が戦場を呑み込んだ。
岩も海も空すらも消え、ただ粘つく闇が辺りを満たす。
視界が閉ざされ、息すらまともにできない。
ただ湿った闇が肺を蝕み、耳鳴りのような低音が頭の奥で反響する。
――見えない。聞こえない。だが確かに“何か”が這い寄ってくる。
その中で、アラハバキの低い笑い声だけが鮮烈に響いた。
――ごうん。
大地を叩くような轟音。すぐに幾重もの振動が足裏から這い上がる。
「すぐ横に逃げてください!」
カノンの糸が震えを伝え、鋭い声が飛ぶ。
直後、地面を突き破って鋭利な岩の槍が林立した。
それは大蛇の咆哮のごとき速さで、アテルイの影を串刺しにしようと迫る。
アテルイは反射的に身を捻り、横へ跳んだ。
岩槍が脇腹を掠め、衣を裂くと同時に熱い血が散った。
「……ぐっ!」
黒い霧はなお一面を覆い、アテルイの視界を奪い続ける。湿った闇の中で、彼はただ剣の重みと息づかいだけを頼りに立ち続けた。
カノンの声が霧の向こうから届く。
「……アテルイ! 糸を周辺に張り巡らせます。こうすれば霧の中でも震えで位置を正確に伝えられます」
彼女の銀糸は、すでに岩と岩を結び、網のように張り巡らされていた。
「触れればすぐに分かる。音を拾うように……私が知らせます」
アテルイは頷き、声を抑えて囁く。
「よし。糸が震えたら引いてくれ。方向を知らせろ」
手にした剣を握り直す。暗闇の中でも、刃の重みは確かだった。
「お前の糸が目になる。……頼むぞ、カノン」
だが――そのやり取りすら、アラハバキの耳から逃れることはできなかった。
低い笑いが霧の奥で響いた。
「ほう……声を潜めても無駄よ。策を弄しても、我が獲物は最初から決まっておる」
次の瞬間、真っ正面から巨顎が飛び出した。
黒い闇を割り裂き、アテルイを丸呑みにしようと迫る。
「なっ――!」
アテルイは咄嗟に肩をひねり、剣の鞘を押し立てて顎を受け止める。
牙が肩口を掠め、鋭い痛みが全身を貫いた。
「ぐっ……!」
必死に押し返すアテルイの腕に、鞘が軋む音が重なる。
だが、押し切れない。大蛇の顎は重く、力強く、霧の中に彼を呑み込もうとした。
結局、飲みきれないと悟ったか、アラハバキは再び霧の中へと姿を溶かした。
牙を押しとどめながら、アテルイの脳裏に疑念が閃いた。
――なぜ、奴はいつも真っ先に俺を狙う?
だが考える暇はない。霧がなお濃く、足元の岩が軋む。
「カノン! 近くにいるか……二人で固まった後に周囲に糸を張れ。見えぬなら、結界で囲んで待つしかない!」
「分かりました!」
カノンは即座に応じ、アテルイの糸を頼りにすぐ二人同じ位置に移動する。
そこでアテルイとカヤを囲むように結界を形づくった。アテルイは体が当たる距離に近づくと、こっそりと何かを耳打ちした。
霧の中で、アラハバキの低笑が響いた。
「……愚かよ。糸の結界など、我には意味をなさぬ」
その声と同時に、大地が震えた。
「来るぞ!」
アテルイは動じない。
驚くことに巨顎が今度は地面の下から結界を破ろうとした瞬間――。
――今だ。
アテルイは最初からそこに現れるのを待ち構えていたかのように、剣を渾身の力で振り抜いた。狙いは露出した眼。
閃光のような横なぎが走り、土の鎧のような鱗に守られていない肉を裂いた。
「グゥゥ……ッ!」
アラハバキが悶え、霧が波打つ。赤黒い血が飛沫となり、岩に散った。
「今なら動きを少しだけなら止められます!」
カノンが叫び、すかさず粘着性の強い糸を放つ。
白い帯が鞭のようにのたち、大蛇の巨体をがんじがらめに絡め取っていく。
岩に結び付けられた糸が、凶暴な力を押さえ込み、体勢を崩させた。
アテルイは駆け寄り、鞘を梃子にして大蛇の口をこじ開ける。
暗い口腔の奥――そこへ剣を突き立てんと構えた。
アテルイの剣先が喉奥を捉えんとした、その刹那――。
静かに、しかし岩棚全体を震わせる声が響いた。
「……面白い。ならば、少しだけ本気を見せてやろう」
途端、アラハバキの巨体から奔流のような神気が解き放たれた。
光とも炎ともつかぬ白熱が鱗の隙間からあふれ出し、潮霧を一瞬で吹き飛ばす。
大地は軋み、奇岩は裂け、海鳴りすら掻き消される。
「ぐっ――!」
アテルイは眼を灼かれるような光に思わず腕で顔を覆った。
胸を押し潰すような圧力が迫り、骨の髄まで震わせる。
隣でカノンもまた糸を支えにしながら膝をつき、唇を噛んで耐える。
幼いカヤは悲鳴すら失い、ただ両手で耳を塞いでうずくまった。
その瞬間、結界の糸は白熱に焼かれ、ぱちぱちと音を立てて弾け飛んだ――。
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